2024年5月9日木曜日

「子持ち様」という新語についての感想

 TVのワイドショーで<子持ち様>という新語が、最近、愛用されるようになった。

どの程度の現実的裏付けがあることなのか、現在時点の職場の現状については、段々と疎くなっているので、小生にはどうも実感がわかない。

ただ職場で「子持ち様」という言葉をそれなりの数の人たちが使う心理の根底には、

子育てという私事を職場に持ち込まないで。迷惑なンだけど・・・

と。こんな(他人に迷惑をかけない?)「専業主婦世帯」を標準とする、といった風な価値観も窺われる気がする。

しかし、こういう価値観はもう歴史的役割を終えた。そういうことだと(個人的には)観ているし、実際にもそうなる。

言うまでもないが、小生が仕事をしてきた環境では、「子持ち様」という単語は存在しなかった。「同棲」はともかく、婚姻届けを提出した夫婦に子供がいない状況は、極く極く少数で、核家族であれ、大家族であれ、結婚すれば子供が生まれるというのが社会常識であった。婚姻率は高く、年齢も今に比べるとずっと若かった。こんな社会状況で「子持ち様」という言葉が使われるはずはなかったのだ。

そもそも「子育て支援」なる概念が、「身内」ならいざ知らず、社会において形成されてはおらず、まして共有などされるはずがなかった。

「男尊女卑」、「男性社会」と言いたいなら、言わば言え。大正デモクラシーの日本人が江戸時代の切腹を「許されざる残虐な刑罰」と非難しても意味はない。今日の日本人が明治以来の(農村はまた別であったが)男性中心社会、専業主婦と家庭のあり方を非難して、いかに酷い時代であったかと責めてみても、意味はほとんどないのだ。

考えても見たまえ。

洗濯機も、掃除機も、炊飯器もない。エアコンも、電子レンジも、ガスレンジもないのだ。米は竈で炊く。最初チョロチョロ、中パッパだ。焼き魚は七輪を使って炭火で焼く。風呂は薪を燃やしてわかすのだ。風呂番をしないといけない。時代を下った小生の亡くなった母親でも、小生が幼少期の時分は朝から夕方まで家事に時間を費やしていた。夕方には疲れて昼寝をしていたものだ。祖母の時代には、井戸で水を汲む作業まであった。家族の誰かが担う必要があった。と同時に、近代化された社会で農村から都市に移動した家族は、生活の糧を、つまりカネを稼ぐ必要もあった。問題はシンプルだ。多くの家族は似たようなパターンで問題解決をした。バカでもなければ、同じ環境下で、人は似たような選択をするものなのだ。

何度も投稿しているが、社会の習慣や価値観、理念という上部構造は、生産という下部構造によって規定されるものだというマルクスの社会科学を、この点では信奉する立場に小生はいる。価値観や倫理が社会を決めるのではない。

基本的には似ている平均的な庶民が、毎日の暮らしの必要に迫られて自ら選ぶ生活のあり様は、自然に似てくる。それが社会の大勢となり、支配的な生活様式、つまり標準モデルになる。すると今度は、そんな暮らし方や生き方は「正しい」とする道徳や倫理が形成される。道徳はやがて美意識となり、その意識に適った美談が生まれてくる。そして、社会は安定し、長く続くことから、国民は広く一定の気風(エートス)を持つに至る。人々は特徴あるマナーを重んじ、他の時代や他の国民と差別化された言動を表す。


〽妻をめとらば 才たけてエ~

〽みめうるわしく 情けありイ~

〽友を選ばば 書を読みてエ~

〽六分の侠気 四分の熱~

詠う人はもう少ないだろう。しかし、ある時代においては、この「人を恋うる歌」が広く愛唱された。自らの生に正しさを感じ、やがて善いという信念になり、美しいと感じる自意識が出来あがれば、歌が生まれ、詩になり、その時代の趣味に沿った芸術が生まれる。黒澤明の映画『生きる』を観たことはあるか。これが文明なのだろう。

しかし、上のような時代は過去になった。知識人が「それは間違っている」と考えたからではない。世界の変化、生活環境の変化が別の暮らし方を迫るからである。(実は)こんな事は誰でも分かっている。口先上手な人がいくら独りで弁舌を尽くしても、大衆は聞き流し、それで社会が変わることはない。この意味で、理念や価値観は結果であって原因ではない。


一つの時代に専業主婦世帯が多数を占め、それが標準となった。それに対して、専業主婦は女性の就業意欲を抑圧していた「悪習」であったと、現代人がいま批判する。

それは今だから言えることでしょう

この一言で終わる。歴史を語るにはリアリティを共有する感覚が不可欠なのである。

そして、マルクス派経済学者なら、こうも付け加えるはずだ。

社会は常に「歴史性」という制約をもっています。だから「〇〇時代」が形成されるのです。いまあなたが言う専業主婦モデル批判こそ、弁証法で言うアンチテーゼです。アンチテーゼが提起されることで、社会の矛盾がアウフヘーベンされる契機が生まれ、初めて歴史は発展できるのです。

つまり従来モデルへの批判を超えるジンテーゼたる新モデルを提案しなければならないわけだ。

それには、マルクスが『経済学批判』を超えて著した『資本論』に対応するような現代日本の社会理論が出て来なければ、結局のところ、出来ることだけをやり続けて、最後にはスパゲッティ化した子育て支援政策になるのは間違いないところだ ― マ、年金もそれに近い発展史を歩んできたが。

いや、いや、話しが逸れてしまった。それに大きくなりすぎた。

さて、「子持ち様」という新語について、だ。

子育て世帯を経済的に、また時間的に優遇するなら、子育てから解放されている人が、子育て世帯に支給されるサービスをカネの負担や拘束時間の形で負担する。そんな結果になるのは必然的なロジックだ。

もし日本社会の中で、あるいは会社の内部で、自分は関係ないのに他人の「子持ち様」を助けてあげる義務を押しつけられている、と。そして不満をもつ。こう感じる人が大半を占めるなら、

社会が子供を育てていく

という理念は、日本社会においては実行不可能である。

小生が育った時代において「子持ち様」という単語がなかったのは、

親族が子供を育てていく

という共有された常識があったからだ。故に、子育てと職場は(原理的に)無関係であった。

若い夫婦に子供が生まれれば、親類である祖父母や叔父、叔母も(もちろん伯父伯母も)忙しくなるのは当たり前でどの家庭も同じ、疑問などを持ちようがなかったわけだ。実にシンプル、議論のしようもなかったのだ、な。

実際、若い夫婦に子供が1人生まれたとして、親類が集まれば祖父母4人、叔父、叔母他が両家併せて概ね6人、合計で10人にはなる ― 実際にはもっと多かったか。預かるにしても、子守をするにしても、簡単なことだ。このように子供は育っていった。

親族が近隣に住むという社会状況が失われ、子供は核家族で育てられることになった。それでも主婦専業の常識が機能していたおかげで、育児活動に(時に実母?や姉妹?に援けてもらう緊急時があったにしても)大きな支障は生じなかった。急速な家電製品の進化もそれを可能にした。ところが日本国内の生産年齢人口が1995年をピークに減少してくる中で、農村の共同社会ももはや実体はなく、女性にも産業への就労、労働力化が求められ、外で働く女性が当たり前となり、男女雇用均等社会にもなると、上のような育児システムが維持できなくなった。世代交代システムの危機が訪れた・・・要するに、こういうことである。

親族という実体が崩壊し、核家族すらも機能しなくなれば、子供は社会で育てるしか方法がないであろう — この「社会」を「国」と認識するか、「地域社会」と認識するかは、意外と大事な点だと思うが。ともかく、この単純な事実に現代日本社会は慣れなければいけない。そういう理解をするしかないわけで、他に選択肢がないという意味では「一本道」である。

ただ「子持ち様」への不満は、少々、誇張されているような気もする。

というのは、多くの人が子供を育て、そうでない人が少数なら、そもそも日本は少子化に悩む社会ではないはずだ。

なので、ロジックとしては「子持ち様」と言われる人が、実は社会の中で期待されるほど多くない。「子持ち様」が少な過ぎることこそ社会問題なのだ、と。そう理解するべきだろう。

それに本当に手がかかる「子育て期間」は、学齢期に達するまでの数年間で、小学校に上がれば親の時間的負担は相当軽減される ― その代わり、経済的負担が増してくるわけだが、「子持ち様」問題は、経済的負担というより、時間的負担が主たる論点だろう。

なので、人的労働という形で助けてあげるべき「子持ち様」が、人数という次元で社内で今後とも急増するという事象は、小生にはチョット非現実的に思える。

こう考えると、少数の「子育て世帯」を、多数の「非子育て世帯」が支援するのは、それほど過大な努力を強いる結果にはならないものと思われる。


この点は、減少しつつある現役世代が、増加しつつある高齢世代をいかに支えるかという問題とは本質的に異なる。

仮に「子育て世帯」が増え、相対的に少数になった「非子育て世帯」の負担が過重になるようなら、むしろ社会状況としては安心できる。(遠い先だろうが)仮にそうなれば、子供を持つ・持たないことから生じる負担の不平等を是正するうえでも、重点的な子育て支援政策は縮小しても問題はないだろう。


【加筆修正:2024-05-10、05-11】

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