少子化で苦しんでいるのは日本ばかりではない。中国や韓国は日本よりも憂うべき状態であるようだし、西洋先進国も低出産率にずっと悩んでいる。
出産率の超長期的波動を観察したことはないが、特に文明が高度に発達して、医療の進歩などから人口が増加し、長寿化社会になって以降、今度は少子化が急速に進んできた点は、多くの国で共通していると理解している。
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人類社会は、低出産率に悩んだ経験はそれほど頻繁にはなく、それでも小生の知識にある数少ない例の中には、古代ローマ帝国末期にローマ市民の婚姻率が低下する(出産率もだったか?)などから、人口停滞に陥り、そのためゲルマン民族(=周辺地域に居住する蛮族)の移民が増加して、それまでのローマ社会の変質が急速に進んだ、と。こんな事例を思い出すくらいだ。
人口については、高出産率と乳幼児の高死亡率が並存する時代がずっと続いて来た。人口増加の加速の端緒となったのは、医療の進歩で死亡率、特に乳幼児死亡率が下がった近代以降である。公衆衛生の進歩から平均寿命も長くなり人口増加率の上昇が顕著になった。マルサスが『人口論』を著したのはこんな背景からだ。まさか200年余の先に今度は少子化と人口減少に悩むとはマルサスも夢想だにしなかったはずだ。
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それでは、以前の時代において、出産・育児を支えた動機とは何だったのだろう?もちろん、多産の動機は明らかであって、それは夭折すると見込まれる児童数が多かったためである。ならば、そもそも子供という次世代を育てようとする両親側の動機は何だったのだろう?
小生の個人的記憶にもよるのだが、それは《家業の継続》であったと思っている。
小生がまだ幼少期であった昭和35年(1960年)には、国勢調査ベースの「15歳以上農業就業者」は概ね30%であったのが、令和2年(2020年)になると農業、林業合わせても3%に低下している。20世紀後半から現在までに農業就業者人口は割合にして10分の1以下にまで低下したわけだ。
小生は田舎で育ったが、クラスの中の半数は農家の子供であり、残り半分の内の大半は漁家、ないしは個人商店の子供。サラリーマンの子供など、小生の父親と同じ工場に勤めていたか、でなければ公務員の家庭で、極めて少数であったと記憶している。
つまり、その当時は大多数の家庭は「家業」で暮らしていたわけだ。
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人間は死ぬまで食っていかなければならない。
消費支出をゼロにするのは不可能だ。支出がプラスであれば、所得をプラスに維持するか、資産を取り崩すかのいずれかだ ― 高齢世帯に融資するような金融機関はないので資産が要る。
そもそも所得フローを生むには、リソースが必要だ。一つは「労働」という要素、もう一つは「資本」というリソースだ。資本には、不動産と機械・設備と言った動産、及びカネが含まれる ― 土地に働かせれば地代が、カネに働かせれば配当や利子が得られる。その他に、資本には無形資産(≒知的財産など)がある。例えば、著作権、特許権、職業資格などがそれに該当する。旧い時代の世襲身分が「家禄(=所得)」を伴うなら、それも無形資産と言える。しかし、資本だけがあっても労働要素がゼロであれば(基本的には)生産活動は不可能だ。自らが有する労働要素をこれ以上投入できない年齢に達すれば、生活ができない。故に、次世代の子が継承して生産を続け、所得をプラスに維持する。
これが歴史を通して存在してきた《家族》であり、従事している分野、社会的ポジション、支配下にある労働資源、資本資源の在り高に違いがあるにせよ、概ね当てはまっているはずだ。即ち、家族は世代交代を繰り返しながら活動を続ける《生産単位》である。これが基本的なロジックだと思っている。
ずっと以前に、マーガレット・サッチャー元英首相が言った
I think we have gone through a period when too many children and people have been given to understand ‘I have a problem, it is the Government’s job to cope with it!’ or ‘I have a problem, I will go and get a grant to cope with it!’ ‘I am homeless, the Government must house me!’ and so they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and there are families and no government can do anything except through people and people look to themselves first.
URL: https://newlearningonline.com/new-learning/chapter-4/neoliberalism-more-recent-times/margaret-thatcher-theres-no-such-thing-as-society
実存するのは個人と家庭であり、社会という存在物はないのだ、と。虚構だと。何度も書くが、小生は社会観という点については上と同じ見方に立っている。つまり、個人と家庭という生産単位が機能せずして、社会は存在しない。そう考える立場にいる。
要するに次のように言える(と思う)。《世代交代》とは労働資源の新陳代謝をはかる営みのことだ。一定の耕地、家屋など不動産を保有する農家世帯は、世代交代を行うことで、超長期的に生産活動を継続できる。付加価値を生み続けることが出来る。付加価値が所得になって生活を支えるわけである。漁家や個人企業もロジックは同じだ。では、高度に文明化した現代社会ではどうなるのか?
高齢化に伴う問題の本質は、所得を生み出す生産要素のうち、自らが有する労働資源が加齢のために最後にはゼロ、ないしは概ねゼロになってしまう所にある。
農村社会は、耕地と次世代の子供達が生産活動を続けることで、社会全体を維持するというシステムである ― 相続の慣習については省略する。もちろん「農村」というからには、複数の家族で形成される協業システムがある。協業により、生産性は一層高まり、様々なリスクに対する頑健性も増す。ここでは、「家族」と「生産」とが結合されている。それぞれの家庭が子を育てるのは、生活の継続、所得の継続というリアルな動機に裏打ちされていた。
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家業を有した家庭が育児に努めるのは、親世代、子世代双方に必要な所得を得るというのが主動機であるが、日常生活では親子の愛情や家族の絆という倫理がそんな暮らし方を正しいあり方としていたはずである。更に、明治より前の封建時代にあっては、基本的に農家に移住の自由はなく、家業はその家族を土地に縛り付ける足かせとしても機能した。
そんな時代に生きた人々の心をありのままに実感するのは不可能だが、一つ言えるのは「親子ともども家族が生きるために働く」という生活感情が人々を支配していたはずで、これは「仕事とは別に家族と育児がある」という現代的な社会関係とは全く違うのではないかと想像する。
つまり現代では、家族の成員が男女を含め、独立して別々の仕事に従事し、それにとどまらず仕事に生きがいをすら感じ、仕事からの引退が即ち自分の晩年の到来と認識され、更には自分の晩年の生活は社会保障で支えられるのだとすれば、家族と育児は金銭的ならびに時間的なコストであり、そこから満足を得るべき純粋の消費になる理屈である。そして、いったん付加価値を生まない消費支出として認識すれば《1円当たりの限界効用均等》が合理的な行動基準になる。家族は、もはや生産単位ではなく、消費単位として存在するわけだ。
こう考えると、個人主義的に合理的な行動を自由に選択する限り、そうした社会に生きる人が家族を形成して、出産・育児に時間とカネをかけるのは、個人個人の趣味と選好に基づき必要最小限の出費ですませようと考えるはずである。
家族が営む生産活動に必然的に含まれていた出産、育児で世代交代が行われたのだが、生産と分離された現代の家族においては、子を産んで育てるというリアルな動機がない。育児は喜びと満足を感じる限りにおいてのみ行われる消費である。こういうロジックだろう。ミクロの視点に立てば、子は所得を生むのではなく、所得を割く対象、つまりコスト要因であるのだ ― これほどミクロ的評価とマクロ的評価が乖離するものはないだろう。だからこそ、公教育、人的投資支援に多額の公費を投入し資源配分を是正しているわけだが、賃金停滞と教育費上昇で家計には余裕がなくなっている、ということだ。
家族と社会との関係性に生じたこうした変化こそが少子化という社会問題をもたらす本質的な要因だと思っている。
というより、わざわざ書かなくとも、例えば6人兄弟で育ち、田舎から大都市に移住して核家族をもった小生の叔父、叔母たちは、一人っ子、多くとも3人の子を育てるにとどめた。次の世代は推して知るべし。心配の種はごく最近になって見つかったわけではない。
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ただ、このような社会関係が現実に可能であるには大前提がある。所得を生むリソースとしての労働を提供できなくなった老後をどう過ごすかである。種々の資本リソースの働きで財産所得を得られる階層は問題はない。しかし、労働所得で生計を成り立たせる家計が多数を占めるはずだ。
現代以前であれば、自らが生産活動から引退しても、次世代の家族が占有している土地、その他動産を活用して家業を継続し、所得を生み続ける。しかし、現代においては家族と生産が分離されている。社会保障はそのために制度化されなければならないわけだ。
しかし、ここ日本社会において家族ではない圧倒的多数の他人の老後の暮らしを支えるため、どれほどの犠牲を覚悟しようと日本人は思っているのか?
この点が極めて不明確で、あまり議論したことすらない。社会保障財源に充てるための消費税率引き上げに頑強に抵抗する所からも、覚悟の不徹底が窺われる。
まして他人の子供を育てるためのコストを負担しようと覚悟する日本人がどのくらいいるのだろうか?
とっくに研究結果があってもよいと思うが、寡聞にして目にしたことはない。
何度も書いているが、社会はそもそも虚構としての存在だと小生は思っている。故に、社会と取り結んだ社会契約に基づく資産は突然に消失するリスクがある。その損失は誰もリカバーしてくれない。
とはいえ、自分が引退してからの生計を保障してくれる「制度資産」を信頼するなら、育児は純然たる消費であり、子を産んで育てるリアルな動機は家族にはない。
カネを支給すれば子を産んで育てる家庭が増えると政府などは考えているようだが、豊かになったから子を持とうとするかどうかは明確でない。子は、所得効果はプラスかもしれないが、必需性は弱く、最低育児数は(明らかに)ゼロである。つまり最低生計費を上回る裁量的金額をどれだけ得ているかで育児をするかどうかが決まってくるはずだ。近年のエンゲル係数の高まりをみていると、今後、子を持たないという消費構造が一層拡大する可能性が高い。
この辺りの家計分析もあまり見ることはなく、これからであろう。
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もちろんこうした社会関係に置かれる場合でも、<世代交代システム>を社会的に構築することだけなら構築可能である。
それは、家族の成員が別々の仕事に分解されるのであれば、「家族=育児」という伝統的な価値観もまた捨て去り、家族と育児を分離し、育児活動をすべてビジネス化する。つまり、育児コストというバラバラに分かれた品目別明細書を、育児サービス購入費という一つのパッケージにまとめて支出する、そうしたサービス支出を具体化するニュービジネスを社会的に育成するという行き方だ。
子供を育てたがらない夫婦の子であっても、育児サービスに従事する従業員は、自らの生活のために他人の子供たちを喜んで育てるであろう。育児サービス購入は、そんな子育て従事者に対する報酬である。
他方、子を育てることに喜びを感じるのであれば、両親が業者に支払う育児コストを差し引いてもプラスの効用をもたらすであろう。そして、育児サービスが生み出す社会的効用は決定的に大きなものであるから、税によって育児補助金を支給するにも合理的根拠がある。
育児をアウトソースするとしても、それは明治以前の「乳母」のビジネス化であって、実父、実母を慕う子の心理に大きな変化はないはずだ ― むしろ一人っ子であっても親離れできて良い影響があるかもしれない。
別に突飛な発想ではない。
既に、日本社会は伝統的に家族が担ってきた「介護」をとっくの昔にアウトソースしている。介護従事者の報酬引き上げという課題はあるにせよ、ビジネスとしては成長分野であって、もっと自由化してもよいはずだ。
他方、育児は(今のところ)大部分が個々の母親(と父親)に委任されている ― と言っても、保育所の活用や学校へのお任せ、コンビニ弁当、メーカー菓子をみると、親が子にしてあげる育児は空洞化が進んでいるのだが。
そうすると、適応できない親は育児ノイローゼに陥るわけで、こうしたケースをゼロにすることは不可能である。加えて、親族という実体が解体された現在、核家族も満足に機能しない状態で、個々の家庭が子を育てるのは極めて非効率でもある。社会と切り離されて育つ子の精神的成長にも懸念が残る。
医療介護の分野では《包括ケアシステム》が構築されてきた。育児もまた、育児・保育・初等教育を包括した《包括的育児・教育システム》を構築するべき時代なのだろう。
書いた当人が言うのは何だが、何だか「子をつくれ!あとは社会が育てるから安心しろ!安心して働け!生きがいなんだろ・・・」と。
なるほど仕事は生きがいと思っている当人は幸せに違いないが、チャップリンの「モダン・タイムズ」を超える《社会の奴隷》に身を落とすような感じもする。
少なくとも小生は御免だが、若い世代は「面倒がなくてイイなあ」と思うかもしれない。まだゼミを担当していれば、どう思うか、話してみたいくらいだ。
「とにかく子をつくれ」ッテ、日本人の人生は公的年金制度を守るためにあるものではないでしょう。憲法を護る護憲精神にはまだ尊さがあるが、年金制度を守ることに品性はまったく感じない。
大体、家業もなく、子供の育児もせず、老人の介護からも解放される家族とは、何のための存在だろうか?人類史を貫く「家族」も「社会」という制度の中に解体、消失するステージに来たのかもしれない ― 小生には「退廃」としか感じられないが、どうすれば良いのか他に方法がないとすれば、仕方がないことかもしれない。
SF作家ロバート・ハインラインやアイザック・アシモフか、誰かほかの作家かもしれないが、どれかの作品に上に書いたような世界が描かれていたような気もする。ちょっと読み直してみよう・・・
本日、上に書いたことは、色々な論点が枝葉のように出てくると思うので、投稿に残した次第。
【加筆修正:2024-06-01、06-02、06-03、06-10】
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