2024年5月21日火曜日

断想: 強い権力は消滅する方が暮らしやすい

よろず権力には巻かれざるを得ない。だから、権力は弱い方が居心地が良い。

人によっては、外国が攻めてきたらどうすると言いそうだが、心配はご無用だ。

いま日本には米軍がいるが、いつまでいるかは世界史の論理に従うだろう。万が一、中国軍が来るとしても、いつかはいなくなるだろう。どこか外国のために日本人が先鋒になって戦うほど馬鹿々々しい事はない。それが日本が日本であることの意味である。

何ごとであれ、「上」と呼ばれるものは邪魔なものである。

俗に「上から目線」という表現がある。

小生が青少年であった頃は、こんな言葉はなかったのだが、なかったからこそ「上意下達」とか「ド根性」、「石の上にも三年」とか、合理的指導とはかけ離れた言葉が使われていたのだと思う。

「強い権力」があると普通の人は息が詰まるものだ。

「強い権力」は出来れば消えてほしい。

よほどの君主制支持者でなければ、こう考えるのではないだろうか?

そもそも日本社会は、古来、絶対君主の登場を歓迎しない傾向がある。天皇は関白の助言を受け、明治以降は内閣や参謀組織の輔弼の下にあった。将軍の側には大老、老中、側用人がいた。

強い権力を否定する原理の根底には、強い支配力の否定と社会自然のメカニズムへの信頼があるもので、この思想が経済分野に向けられると独禁政策と競争環境の維持という基本政策につながってくる。

政治に向けられると、当然、複数政党の競争と有権者による選択という政治システムになり、今はこのようなシステムを「民主主義」と呼んでいるわけだ。

ところが、日本では《自民党総裁=総理大臣》という実質的な一党独裁が、なぜか短い例外的期間を除けば、ずっと続いているわけだ。

もっと奇妙なのは、日本人自らが、こんな状態を非民主的状態とは痛切に感じず、むしろ日本社会の安定性として評価し、受け入れているところである ― だからこそ、不祥事が発生すると、政治が信頼できなくなったとつぶやきつつ、選挙を棄権するという、国際基準からは逆パターンの行動を示したりする、どうもそう思われるのだ、な。

為政者が無能なら、斜に構えて

イヤな世の中よのう・・・

と、ふて寝をするわけだ。実に、非民主主義的である。おそらく、有能な君主による独裁でないという点だけは、それはそれでイイ、と。そんな感性があるのだろう。

少し前に、こんな事を投稿した:

実は、久しぶりに宏池会出身の総理大臣が現れることになった2021年の9月末、こんなことを投稿している:

ところが、宏池会から首相が輩出されるというのは、あまり縁起のよいことでもないのだ、な。

そもそも宏池会の創設者である池田勇人・元首相が、首相在任中に癌を発病し、任期を残して退陣、その後一年も経たないうちに逝去している。

その後、宏池会に縁のある政治家が自民党総裁になったのは複数回あるが、(例外とも言える一人を除いて)いずれも自民党にとっては悲劇的な状況を招いている。

今回、岸田首相によって宏池会そのものが解散されるに至った。これが自民党という政党とそれが代表してきた「保守政治」を、どう変化させていくのか、現時点で見通すことはできない。

どうも何だか、宏池会の縁起の悪さが現実のものとなりつつあるようで・・・と感じるのは小生だけだろうか?

前にも書いたことだが:

 本当の所は、自民党が二つに分裂するのが、日本人にとっては政治的選択肢を増やすという意味で、最もハッピーな帰結なのだろうと思う。個人的には、それを熱望している。

ますます、この願望は強まっている。と同時に、なぜそうならないのかと言えば、同じ投稿で書いているように:

元々は細かな些事で内容希薄なミステークが(誰かによって)利用され、デマとなって、まことしやかに、あるいは「犯罪」にフレームアップされて拡大され、メディアと有権者が政界スキャンダル報道に踊るという構図は、現在時点の日本だけではなく、遠い昔、普通選挙実施後の日本の社会そのものでもあったわけで、全ての日本人が参政権をもつ民主主義社会の実現に戦前期・日本は見事に失敗したのである。

これが戦前期・日本のデモクラシー発展史の最終到達点であり、この失敗のトラウマは現時点の自民党政治家たちにも、おそらく、共有された社会観として受け継がれているのではないだろうか?

最近もまた、上川陽子外相の舌禍が以下のように報道された:

この方を私たち女性がうまずして何が女性でしょうか

こういう典型的な「切り取り」と「フレームアップ」は、ほとんど「捏造」と言うべき報道なのであるが、踊る世間の軽薄さがメディア・ビジネスに利用されているわけでもある。

カンナ屑のように可燃性が高くて軽薄な日本社会の今のあり様を観察しながら警戒(それとも絶望?侮蔑?)しているのが日本の政治家だとすれば、

政治に絶望する日本人と、日本の社会を決して信頼しない日本の政治家、日本の政府と。この二つは鶏と卵の関係にある。

こう考えてもよいようで。

そこへ行くと、憲法と法律、あとは自己の良心のみに基づいて司法判断できる裁判官は実に幸せだ。

メディアは「第4の権力」だ ― ネット空間も侮れない。

そのメディアが日本人の言葉づかいを監視しては「不適切」だと攻撃している。

「言葉使い」の窮屈さが、表現の自由を根本から侵しているという事実認識を語るメディアが現れてもいい。にも拘らず、現れないのは何故か?

ワイドショーでは、放送側の主張に沿うように言葉を切り取っては、

なぜそんな言葉を使うかと言えば、そういうホンネが隠れているからですヨ

などと、内心のあり方にまで踏み込んで批判している。まるで、中世ヨーロッパのローマ法王が、観察可能な行為だけではなく、内心の信仰のあり方にまで立ち入って評価するようなものだ。たかが法人であるテレビ局に人の内心を云々する権限があるのだろうかネエ・・・一般公衆にプロパガンダしてくれと誰が頼みましたか、許可しましたかと、疑問がたえませぬ。ゆゆしき状態ではありませぬか、と。

つまるところ、異論を唱える異質な分子を「風を読まない」と言って排除しようとする日本社会の特性に原因がある。

多様性に価値があると強調しながら、ある価値を押し付ける。その他を排除する。

排除できるほどの影響力をもつ言論機関が日本にはある。

言論空間であっても「支配的地位」を占める機関があれば暮らしづらい。

「強い権力」は消滅する方が暮らしやすい。

広大な英語空間には言論界を支配するほどの寡占メディアはない。新聞、テレビを世界規模で支配する巨大資本もない。NYTもWSJもグローバル・インフルエンサーには程遠い。

それに英語空間には多様な多民族が暮らしている。価値観も色々だ。だから、A局がああ言えば、B紙はそれに反対して批判する。

もし移民政策を整備拡大して、移民系日本人が10パーセントを超えれば、多分その辺りから日本社会も目に見えて変化していく可能性が高い。

前にも書いたが、早くそんな時代が来てほしい。

その代わり、多様性が行き過ぎて、日本社会の絆や凝集性が弱体化するかもしれないが、何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、現代日本社会は余りに窮屈だろうと感じるのだ、な。

移民受け入れ政策は、(教育制度と併せて?)日本という国の将来を決める決定的な要因と思われる。それには、政治的にも経済的にも、自由な選択肢が常に提供されるようなシステムにしておくことだ。

【加筆修正:2024-05-23】

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