2024年5月4日土曜日

最近の憲法論議にはまったく関心をもてなくて

昨日は憲法記念日だった。が、だからと言って、このブログで何かを書いて来たわけではない。

とはいえ、憲法という話題は日本人なら誰でも関心をもつ、というより持つべき最大公約数的な話題の一つだろうと思う。

昨日も憲法関連の多くの討論会や集会が開催された模様だ。

ところが、よく見ていると小生が幼少期であった頃から同じ状況が続いていて、要するに

憲法を改正したい自民党サイドと憲法を護りたいリベラル(?)左翼と

つまりは、憲法を修正するかしないかで対立している。

改憲派 vs 護憲派

実にシンプルだ。個々の修正箇所がからみあい、捻じれあって、複雑な対立になっているわけではない。

これ以上、単純な対立構造はありえない。

しかし、いま現代日本が抱えている問題が、こんな単純な言論上の対立と対応関係にあるとは、到底思えない。現実の問題はもっと複雑である。故に、憲法改正を議論するとしても、改正案は幾つも複数あるのが当たり前だと思う。

「もはや戦後ではない」と経済白書が書いた昭和31年から数えるか、保守合同で自民党が誕生した昭和30年から数えるかはともかくとして、もう80年も憲法を直すか直さないかで同じ論争を続けているわけだ。

これをみて

日本人は、結局のところ、自国の憲法を修正しない、というより出来ないのだ

と、法治国家の市民としての、また民主主義国の有権者としての、自らの極めて低い能力に対して、ウタタ情けなさを感じてしまう日本人が増えているとしても、小生はまったく驚かない・・・「増えている」かどうかは分かりませぬが。

実際、戦前の大日本帝国憲法も戦後の日本国憲法も、両方を含めて、日本人は憲法改正なる作業を頑張って成し遂げたことは一度もない。

この点はずっと前に一度投稿したことがある。これが、政府の弱さを伝えるのか、政治的怠慢を表すのか、国民の分断の深さを示すのか、日本人が憲法という基本法を実はそれほど大事だと感じていないという事実を教えているのか、小生にもこんな風になっている原因はよく分からない。

確かに、戦前から戦後にかけて憲法は大幅修正されたが、これは占領軍であったGHQ主導の下に断行されたもので、だから戦後を代表する憲法学者であった宮沢俊義は「八月革命説」を提唱していた。ま、実際、敗戦を機に日本の権力構造は一新され、(外国勢力主導の)革命がなされたと考えるのが、当時の状況を正確に言い表していると思うので、「八月革命説」に一票を入れたいというのが小生の立場だ ― 憲法理論には素人だが。

いわゆる「護憲派」は、憲法を護ると言う以上、憲法は修正しないと主張していることになる。

しかし、最高裁判決で「違憲判決」が幾つも出てきているのも事実だ。

国政選挙における「一票の格差」は何度も違憲状態だと指摘されている。現状と条文とが矛盾していると判断する判決が多いということだ。とはいえ、現実を冷静に観察せず、正しいのは憲法の条文で、現実が誤りだと観念論的に断言してよいのだろうか?

また、最近ではLGBTQに関連して、同性結婚を認めるかどうかで、違憲と合憲とで判決が揺れ動いている。司法判断が揺れているのは、社会の現実の必要性と憲法の条文とが調和しないためで、文言の解釈によって違憲にも合憲にもなるからだ。ずっと以前は<両性=男女>と解釈するのは合憲とする判断が多かった。だから婚姻は異性に限っていた。しかし、最近は<両性=男男あるいは女女>のケースも含むとする判決が出てきている。もし今後将来、同性結婚を認めないのは違憲とする判決が常に出るようになれば、同性結婚は正式に認められるだろう。婚姻届や戸籍の様式、その他関係する制度も変更されるだろう。しかし、それでも憲法の条文は変えず、解釈だけを変えるのだと、小生は予想する。実質的な憲法改正が「改憲だ」とするニュースもないまま、無意識に近い形で通ってしまうに違いない。

周知の「9条問題」もそうだ。集団的自衛権を否定する姿勢から認める姿勢へと180度転換したが、これも同じ条文を読みようによっては、そう読めるということだ。どちらとも解釈できるので再解釈したのだというロジックだが、実質的に憲法を改正したと外国の法律専門家が指摘するとして、日本側はどう反論するのだろう。

条文の解釈と再解釈によって実質的に憲法を改正するやり方は、小生には全ての法律専門家の知的怠慢であるとしか見えない。

要するに、憲法改正に関連する問題が、実際には多々あるにもかかわらず、「護憲派」は憲法改正の必要性を何も語らない。というか、解釈の変更で憲法の運用がどうにでも(?)なるなら、確かに憲法改正などは必要ないというロジックになる。よく言えば「融通無碍」だが、悪く言えば「いい加減」である。憲法は神棚のお札に書いてある文字と同じであるわけだ。


これ以上の欺瞞はないとするのが自然な見方だろう。

自民党の憲法改正は確かに復古的で、非現実的、噴飯ものである。が、左翼側の護憲姿勢も同じ程度で極めて不誠実で、空っぽの頭脳を露呈している、と。

しかしながら、達観して言えば、日本のお国柄は実際の問題を解決するための「巧みな」便宜主義にある。憲法は「神棚にあげて」あえて変えないと。意図的かどうか分からないが、そう主張するリベラル左翼の方こそ、欺瞞に見えながら、実は日本の知恵に裏打ちされているのだ、と。

そうとも見えてしまいますがネエ・・・と。そんな感覚もある。

ま、いずれにせよ、グダグダの状態には変わらない。

仮に、リベラル左翼が社会の現実にあった憲法改正案を提案するとすれば、どこを修正するべきだと考えているのだろう。

例えば、その時の総理大臣の都合で行われている「根拠なき衆議院解散」を認めてよいのか。天皇が統治者であれば天皇が議会を解散するという権能を認めるべきだというロジックはあるかもしれない。しかし、今は三権分立だ。いくら議院内閣制で、議会の多数派が行政府を構成しているとしても、「解散だ!」と総理大臣がいえば、国会議員は職を失うのか。当然、憲法改正の焦点の一つになりますワナ。

ちなみに、日本がお手本にしているイギリスでは、議会が解散する意思決定をするのは議会のみであると首相権限を制約していたが、これまた政治的膠着を打開できない原因になるという理由で、この制約を撤廃する選択をしている(これを参照)。

日本では首相による解散の根拠は憲法であると認識されている。これでイイのか?

他にも、社会が責任をもって子育てをするというのはどういうことか?教育を受ける権利をどう規定するべきか?自らの勤労の結果である高齢者の生活状態と生存権とをどうバランスさせるのか?「人権」をどう尊重するべきなのか?等々、憲法レベルで規定した方がよい事項は多々あるでしょう。


世間では、こんな議論もあるのだから、「憲法は絶対に変えない」と、そればかりを主張しても、頭脳レベル、社会常識を疑われるだけだと思うが、どうだろうか?

まあ、こんな情けない情況が半世紀をゆうに超えて続いているので、世間の憲法論議にはまったく関心をもてなくなったのが、率直なところだ。

【加筆修正:2024-05-05、05-06、05-07】

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