桜で有名な浄土宗の寺に行くと丁度満開だった。境内には何人もの人が集まっていてスマホやカメラで撮影している。カミさんと小生は寺務所を訪れて御朱印を頂く。五劫思惟と書いてもらった。
彼岸の前から雪解けをまち今日に至るまでの2か月ほど以下のように過ごした。
春寒の かぜ吹きよする 朝まだき
ゴミを出しゆく 我は老いゆく
春彼岸 雨したたりて 酒五勺
思ひきや 雪ふる里の わびずまひ
妻とふたりで 春をまつとは
桜まつ 人いくにんか をちこちに
御堂のまへの 雪は残れど
満開の 桜をめでる 幾人の
影に散りゆく 春ぞ惜しまる
そろそろ小生も老いの道に入ろうとする頃だ。父は、歩もうとして歩まなかった道だ。が、小生も知らないわけではない。とはいえ、初めて歩く道ではある。
この道を ゆく人ありや この道は
父のあゆまむ 道にてありけむ
芭蕉は
この道や 行く人なしに 秋の暮れ
こんな風に孤独な心境を俳句にしている。
蕪村は
門を出れば 我も行く人 秋の暮
と、流石に江戸や京という都会に慣れた文人だと思わせる句を作った。
どちらも小生のいまの気持ちにはピンとこない。
住み慣れていた東京に今でもいれば蕪村のような句を作りたいと思ったかもしれないが、今はそうではない。かといって、芭蕉のような孤独はヤッパリ嫌なものである。
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