2023年2月12日日曜日

断想: 風俗一新に50年あれば十分。別の世界になる。

 「同性婚」云々が世間を賑わせているが、確かに小生がまだ青年であった20世紀においては、「同性同士の結婚」が真面目な話題として登場する可能性など皆無であった ― 現象としてLGBTQと呼ばれる行為、というかヒトがそれなりに多く見られることは誰もが知っていた事実である。例えばイギリスの高名な作家で小生も愛読者であるサマセット・モームは同性愛者であった。序につけ足すと、小生が愛するもう一人の英国人作家・グレアム・グリーンは麻薬常用者(シャーロック・ホームズもそうだった)、妻帯者にして同性愛者かつ児童買春愛好者であり、それと同時に厳格なキリスト教倫理と自分自身の<業>の狭間で煩悶するモラリストで、実務としては国際スパイ活動にも手を染めていた。実に濃密な人生である。これも風俗としての「英国的自由」で、だからどうだ、ということにはならなかっただけだ。

LGBTという旧くて新しい人間らしい行為が、今後の社会でどのように認められ、社会制度にインコーポレイトされていくのか、非常に興味深い社会実験だと考えている。

*

人間社会の風俗は、時に思いもかけない程の速さで変わっていくものである。

例えば、谷崎潤一郎の名作『瘋癲老人日記』には次のような一節がある:

既婚ノ女、大概数エ年十八九歳以上ハスベテ眉ヲ剃リ歯ヲ黒ク染メテイタ。明治モ中期以後ニナレバコノ習慣ハ次第ニ廃レタガ、予ノ幼少時代マデハソウデアッタ。

… …

同ジ日本人ノ女ガ六十餘年ノ歳月ノ間ニ斯クモ変遷スルモノデアロウカ。

今でも高校の(中学でも?)課題図書によく挙げられる森鴎外の『舞姫』だが、発表されたのは明治23年(1890年)である。ということは、鴎外が『舞姫』を発表した時代、鴎外の身の回りにいるご婦人の多くは、眉毛を青々と剃り、歯はすべて鉄漿(=お歯黒)で漆を塗ったように黒々と光っていたはずである。特に鴎外がまだ少年であった時分には、ほとんど全ての女性はそんな風俗を佳しとしていた。それが江戸期以来の日本の伝統的風俗であり、審美感に沿うものであったのだ。

今日の日本人はこんな事情を知ったうえで鴎外や漱石の作品を読んでいるだろうか?おそらく今から何十年もたてば、三島由紀夫の『憂国』は残酷に過ぎるからという理由で販売禁止になるかもしれず、最後に重要人物が切腹する『奔馬』でさえも未成年には販売禁止になるかもしれない。それは紫式部の『源氏物語』に登場する男性が余りに多情であり女性蔑視も甚だしい、そんな非難を免れ得ないという点とも通じる。

<必読書>だと言われる古典の多くは昔に書かれたものである。故に、昔では当たり前だと受け取られたことは全て当然のこととして前提されている。そんな事は分かり切った上で現代人は名作を読まなければならない。それでもなお、昔の行為がずっと後の時点になってから分かり、当事者が随分齢をとってから、時代が変わった後の感覚や倫理で激しく非難されたり、裁かれたりする。そんな集団ヒステリーが時折発生する。「時効」も何もあったものではない。動くゴールポストそのものであり、アンフェアだと小生には感じられる。

「伝説」も「神話」も何も生まれず、ただただ「旧悪」が露見するという時代は余りにも淋しいものだ。

*

何年もたてば古い風俗も、旧い価値観も変わるものだ。そうして別の世界になる。新しい世界になるのは、その方が(旧世代も含めて)快適であるからだ。

つまり自発的に自然に変わる。もし自然に変わらないなら、それは新しい方に優位性がないからだ。そんな時は、旧いほうが生き残る。新しい方は一時の流行であって、まるでバブルのように消えて、旧いやり方がそのまま継承される。

ナイフやフォークが輸入されても日本人はまだ箸を使うことを止めない。「昭和はもう過去にしようよ」と言って箸をすて去るのは愚かだ。同じような愚かさは、今の日本社会に多く見られるような気がする。

生き残るには変化しなければならない

こんな風に強調する専門家は多い。が、変わるのは愚行であることも多い。何か新しいものが登場し、それで社会が変わるかどうかは、何人かの人の考え方や意見、評論とは関係ない。誰が何と言おうと、変わるべくして自然に変わるのだ。

2023年2月9日木曜日

断想: 「同性婚」、欧米とは違って深い問題を日本人に提起している気もするが

LGBT法案の行方が混とんとしている。野党が岸田総理に「法案を成立させる覚悟はおありか?」と迫っているのだが、質問者は国会議員、応える人は行政府の代表(としての立場)だ。法律を制定できるのは国会のみである。内閣が法律制定を主導すること自体、小生は不適切だと考える立場だ。しかも、今回のLGBT法案は議員立法である。総理は法案の事は国会におまかせすると応えておくのが筋だろう。何だか、野党議員は勘違いしているのではないか、と。そう感じた次第。

それはともかく、

結局、この日本で「家族」という言葉はどう認識され、使われているのか。その定義は何なのか。この点を議論しなければ根本的な理解には至らない。そう思われるのだ、な。

*

「家族」と似た概念に「世帯」がある。夫婦・親子・血縁の関係ではなく、生計を共にする複数人が世帯を構成する。

「世帯」は、世帯主と配偶者ほかの扶養家族から構成される。転出入など住民登録、確定申告、保険料支払い等々、これらは世帯ベースで行われている。現在、色々な場面でLGBTの権利保護が求められているが、議論を外野から聞いている限りは「世帯」ベースで対応できる問題ではないかとも感じる。であれば、行政上対応は難しくはないはずだ。

他方、同性婚が<違憲>になるのかどうかで揉めている日本国憲法24条だが、こう書かれている。

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

婚姻は「両性の合意のみ」と明確に書かれている。両性とは(生物学的な)「男性と女性」を指しているのだろうというのは、憲法成立時点の常識を振り返ると、言わずもがなである。

なので、憲法の条文を普通に読めば、婚姻は「男性と女性」の二人が合意した時点で成立するのだ、と。親の同意や、親族の同意とか、「家」の支配は受けず、当人二人さえ合意すれば、その合意のみによって婚姻は成立するのだ、と。戦前期・日本の「家」制度を否定するというのが24条の主旨である。9条は読みようによって「戦力」の概念範囲が変わって来る曖昧さがあるが、この24条は9条よりは解釈の余地がよほど狭い。そう思われるのだ、な。

故に、同性婚合法化に反対している保守派の言い分も理解できないわけではない。

多くの違憲訴訟が相次ぐと、その時の最高裁判事の構成によっては「違憲判決」が出るような気もしないではない ― いや、条文を素直に読めば、違憲判決の可能性は大いにあると思う。

だから、やりたいことがあれば、

まず憲法の条文を、やりたいことが出来るよう、きちんと明確に書き直しておく。

前にも書いたが、これが本質的な問題だと思われる。

「敵基地先制攻撃」も「自衛」の範囲だ、と。そんな怪しい屁理屈をこねるより憲法をしっかり修正しておく。「同性婚」も同じことである。

その位の事は事前段階として取り組むべきであるし、真剣に問題解決を図りたいなら、その位の努力はどの国でもやっている ― もちろん独裁者が自己利益を守るために憲法を修正するなどという例も多いが、それでも直すべき憲法条文をまず直しておくという誠実さ(?)は最小限あるわけである。

この点に触れない日本のマスコミは、非論理的であるという批判を免れないし、そもそも知的な意味で甚だ不誠実である ― 大方の愚論に逆らって正論を敢えて述べる誠実なジャーナリストなど、戦前期の東洋経済新報社で活動した石橋湛山以外には思いつかず、そもそも不誠実なのだと割り切るのが賢い視線なのであるが。

*

序に書き足すと、日常生活における「世帯」の運用とは別に、日本で「家族」と言われる実態は《戸籍》制度によって実現されている。戦前期の「家(≒大家族)制度」でも、戦後の「核家族」でも、日本人にとっての家族感覚が戸籍制度と密着している点を否定するなら、真っ当な議論にはならないはずだ。

である以上、戸籍制度の改廃、変更に一言も言及しないのは、マスコミ(と国会自体?)がこの問題をいかに浅はかに考えているかを示唆している。


戸籍制度は、武士が支配する江戸期から国民皆兵を柱とする明治になり、政府が全日本人を把握する必要性から生まれたものである(と小生は理解している)。特に、重要なのは《国籍》、《出生・死亡》の把握・管理である。つまり日本国内の全家族の把握を目的として戸籍制度は生まれた。なぜなら人口が国力、特に動員可能な兵数に直結するからだ。

戦前期には戸籍上の「戸主」が「家」の監督権をもっていたが、戦後は「戸主」ではなく核家族ごとの「戸籍筆頭者」となり、日本社会は決定的に民主化された。しかし、それでも一つの戸籍は一人の男性と一人の女性が結婚した時点で創られ、子供が生まれれば出生届を提出して戸籍に登録する。誰かが死亡すれば死亡届を出して戸籍から除く。そうして一つの家族の生成・消滅は戸籍をベースとして把握され、管理されている。これが日本の行政を基礎部分で支える基盤になっている。

つまり

日本の国籍をもつ日本人が、どんな家族をもっているか(いたか)の把握は、戸籍制度によって法的に実現されている。

その意味で、日本人にとっての「家族」は「戸籍」と一体のものである。戸籍制度は、現代世界では日本、及び中国、台湾にのみ残る独特の制度になった。これを「東洋の伝統」と見るか、「廃止すべき悪政」と見るかは、人によって分かれるだろう。社会で共有される「家族」という言葉の定義・範囲にも関係しているはずだ。


戸籍の目的はまずは国籍の管理にあると言える。日本の「国籍」概念は属人主義である。つまり「血統」を重視する考え方を採っている。戦後日本には徴兵制はないので全ての日本人を把握したいという政府側の強烈な動機はない(と思われる)。とはいえ、出生した子供の両親は誰であるか、その両親は誰から生まれた人間であるのか。日本人であるのか、外国人であるのか、その者は養子であるのか、嫡出子であるのか、非嫡出子であるのか等々。行政において親子関係、家族関係を確認することが求められる場面はやはり多い。

そんな事情もあって戸籍制度はまだ日本にある。その戸籍制度の下では、子は戸籍上の家族に生まれ、そこで育てられる。そして、日本では婚外子比率は2パーセント程度であり、欧米社会とはまったく様相を異にしている ― そもそも欧米社会には戸籍制度がない。もし日本も西洋社会のように婚外子比率が50パーセントに迫るという社会情況になれば、もはや戸籍制度は風化したと言わざるを得ない。しかし、日本の状況はそうはなっていない。

つまり、日本において、戸籍制度は制度としてまだ機能している。憲法24条はこの営み、つまり家族の生成と成長、消滅という全プロセスを核家族という枠組みで民主化しているわけだ。もちろん、これを評価する人と評価しない人はいるだろうが、こういう認識が概ね現実妥当的ではないかと思う。日常生活では生計を共にする「世帯」をベースに公共サービスを享けるのだが、こうした側面とは別に戸籍という制度が果たしている機能にも目を向けるべきだろう。

概ね機能している社会制度を無理に解体する必要はないであろう。

というのは、健全な常識である、と小生には思われる。


とすれば、一つの結論が得られそうだ。

日本人(の多く)にとっての「家族」とは(さしあたって)婚姻届けで創られる戸籍上の核家族で、この家族感覚は同性婚で具体化される「家族」とは質的な概念差があるように感じる。「家族」ではなく「世帯」として認識し、日常生活において「一般世帯」と差別されることなく、公的サービスを享けることが出来れば、それが即ち欧米的な意味での「問題解決」に当たるのではないか ― そもそも欧米には戸籍はない。

もちろん「家族」に類似した生活をおくる同性の二人が「世帯」として公平な処遇を保障される一方で、例えば血縁のない第三者を(「子?」、「兄弟?」など)「世帯員」として届け出て扶養者控除を享けるなどの脱税行為は予め想定して、厳格に制度化しておく必要はあるだろう。更に、子の誕生、成長、消滅という戸籍ベースの「家族」とは特性が異なる「同性婚世帯」の場合、関係の解消、つまり「別離」をどうマネージするのか?LGBTの中の”B"が該当するのだろうが、異性婚を重複して行うことは可能なのか等々、整理しておくべき法的概念は多いと思われる。

制度の悪用を避け適切に制度化できるとすれば、公的サービスの平等な享受者として救済するべき対象者は、同性婚を希望する二人に限らず、同性婚に当てはまらない複数人であるケースも確かにある。差別を排除するという目的には柔軟な措置の方が役に立つし、哲学的な議論ではなく、実証的かつ功利主義的な解決をとるべきところだ。

*

日本の戸籍制度が運用不能なほど社会が変容すれば、日本国籍の《属人主義(=血統主義)》もまた継続不可能になってくるはずである。

この段階において、日本も言葉の意味通りに「グローバル化」することになるのだろう。そして、その時には日本独自の天皇制や天皇制に密着した神社もまた支持を失うのかもしれない。

こう考えると、単に同性婚を認める・認めないというレベルの問題ではなく、やはり

日本人が認識する「家族」とは何か? 

「日本人」とは何か?

日本の「文化」や「伝統」のコアは誰が継承していくのか?

できれば、このようなレベルにまで立ち入って議論する方が望ましいし、マスコミも議論の掘り下げに努力するべきだと思うのだ、な。


加筆:2023-02-11

2023年2月8日水曜日

覚え書: 実体経済の「後退」は徐々に広がっているようだ

日本経済の景気変動を手軽に(?)に視える化したい時は、やはり内閣府の景気動向指数が便利である。特に変動の振幅までイメージできるコンポジット・インデックス(CI)がよい。その景気動向指数が公表された。直近月は昨年12月である。

Source: https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

上の図は、先行指数(le)、遅行指数(lg)だけを描いている。株価(採用系列は東証株価指数)等から算出される先行指数はずいぶん以前から低下していたが、今回発表では雇用動向等を反映する遅行系列も対前月で低下した。今後、景気後退色が目に見えて広がってくるものと予想される。

政府が力こぶを入れている「賃上げ」だが、予断を許さない ― 多分、中小企業を含んだ国内平均の賃上げ率は大した結果にはならないだろうと予想している。

どの程度の後退か、まだ明らかではない。先行指数を見る限り、それほどの後退ではないと(今のところ)思われる。

この先行指数、図の右上にも表示されているが、直近ピークは2021年6月につけている。今回、遅行指数が低下に転じる前兆が確認されたと(小生は)見ているが、1年半のタイムラグがあったことにある。

リーマン危機の際は、先行指数のピークが2006年5月、遅行指数のピークが2007年12月。やはり1年半程度のタイムラグがあった。

景気変動の振幅の違いはあれ、景気循環のメカニズムはそれほど構造変化していないことが示唆されている。

面白いのは、コロナ禍による経済混乱であるが、先行指数は2017年11月に(やや低い)ピークをつけたあと、回復することもなく、2020年5月の底まで奈落の底に落ちるように低下している。これをみると、
やはり2019年10月の消費税率引き上げ(軽減税率対象外は8%から10%)は時期の選択としては最悪であった。
そう言えるだろう。経済専門家が政府内にも多々いたはずであるのに、なぜこうした判断をしたのか、甚だ疑問である。


2023年2月6日月曜日

ホンノ一言: 総理秘書官の舌禍すっぱ抜きについて更に感じること

前稿では総理秘書官の舌禍すっぱ抜き事件について感想を記した。それは陰謀史観にも近い見方である。が、こうした見方は面白くはあるが、一般的には事実ではないことも承知している。

本稿はLGBTQというテーマそのものについてどう思っているか。以前の投稿の繰り返しになるが、それをメモっておきたい。

そこでも述べているが、そもそも自分がどう人生を歩んでいくかについて、国、ましてはその事務局に過ぎない政府が、とやかく言うべきではない。これが小生が信奉する原点であるわけだ。

同性婚の権利保護という背後には、一夫一婦という従来型の人生モデルが変容しつつある流れがあるのだと思っている。『人間、そもそもどう生きるかは、当人たちの自由でしょ』という感覚がこのレベルにまで浸透すると、社会の在り方は相当変わっていくと予想される。

将来にかけて、このことがどう社会を変えていくかは、コントロールできまい。戦争と平和もそうだ。望む通りにはコントロールできない。同様に、家庭のあり方、文化のあり方、宗教のあり方は、人、政府、社会の意志を超えて変化していくものである ― 「変化」というより「進化」と呼ぶべきだというのが本来のリベラル的世界観であろう。

そうそう・・・思いついたので将来予測、というより危惧される可能性を一つ:

生物学的世代交代から切り離して婚姻を認めるなら、なにも同性2人に限定する必要はないのではないか。同性3人が婚姻をして家族になることも可能ではないか。一夫多妻制を認める国が現在もある中で、同性3人の婚姻は不可能だという「先験的根拠」はあるのだろうか?あるいは、3人の場合は一人が「夫」、一人が「妻」、3人目は「長子」という風にあくまでも従来型の「核家族」を模したポジションを決めさせて「婚姻」と「子」を同時申請させるのだろうか?…いや、いや、21世紀というのは中々面白い時代になってきたものである。

だから上のように書いているが、いま読んでも(我ながら)「その通り」と思ってしまう。

確かに、《終身・一夫一妻・核家族モデル》という家族像など、これが現実妥当的であった時代など日本の歴史を通して極めて例外的で、おそらく戦後日本のごく限られた短い期間にのみ数多く見られた家族類型に過ぎない。単に、ずっと無年金であった女性の生活を保障するため国民年金制度を確立する時、議論を単純化するために設けた理想に過ぎなかったとも言える。農村が消失し戻れる《実家》という存在も実質的に消失した現代という時代となり、これももう持ちこたえられない・・・そんな日本独特の事情もある。政府は自然に継承されてきた家族モデルに法律・制度をもって介入するべきではないのだ。社会は公的介入によって寧ろ混乱する。

そう思っていたところが、(日頃は玉石混交の石コメントばかりに辟易しているのだが)Yahooコメントに(小生から見ると)図星と感じられるのがあったので転載しておきたい。

 共同生活の在り方は、伝統的婚姻と同性婚だけだというのは思い込み。 たとえば、3人婚や義兄弟などのマイノリティを含みます。  それにも関わらず、法制化を同性婚だけに限定するのは、まさに差別です。  限定する理由もないのに、同性婚だけに限定する行為は、一方で、性的少数者の人権を守れといいながら、もう一方で、他の少数者の権利を切り捨てる行為であって、自己矛盾を起こしています。 

他にも、核心をついたコメントがあった。やはり、人の生き方そのものについて政府上層部で仕事をしている人物(及びマスコミ表層部に出てくる人物達)が云々すれば、必然的に《浅知恵、浅はか》に堕する。その好例を提供した、というのが今回の騒動であったのではないか。 


戸籍制度も旧式、婚姻制度も旧式、家族モデルも旧式、そして政府には人生の<標準型>を定義できる能力はない。その資格もない。故に、どのような人生を選択しようと、権利が保護されるように法制度を造っておく。もちろん義務も規定しなければならない。一切の道徳的指導は不可。要するに、こういうことであろうと理解している。これは政府ばかりではなく、マスメディア、更には一般大衆の集団行動にも適用されるわけであって、人の人生を偏見や思い込みで勝手に制限したり、云々するのは駄目だ・・・まあ、こんな所になるはずで、それが遅々として改善されない現代社会には鬱屈した心情をもつ。こんな要約になるだろうか。

案外、<政府>なるものが無く、日本人が自由に生き、事業を行い、治安・警察・自衛は自らの意志決定で自由に組織化するに任せる。そんな原初・日本社会をイメージすれば、意外と理想に近づくのかもしれない・・・一場の白昼夢であるが、そんな風にも思う今日この頃でございます。


それにしても、テレビのワイドショーに次々に出てくるコメンテーター達の物言い・・・「ありゃ、何なんだい?」というレベルだ。視野も狭く、コメントも定型的で何だか高校生のレポートである―いや、高校生の方がレベルが高いだろう。前稿にも書いたが、まあ、「猿よりマシ」という程度。ChatGPTの日本語レベルを更に上げ、その音声機能をテレビ局も採用すれば十分ではないかと思わせる。

【加筆】2023-02-07

2023年2月4日土曜日

ホンノ一言: 総理秘書官を相手にLGBTQの言葉狩りを呑気にしている時じゃありませんゼ

岸田首相が同性婚を認めるかどうかについて『社会を大きく変えることになる』と話したところ、それをフォローしようとしたのかどうか、経産省出身の総理秘書官が『(ぼく自身?)見るのは嫌だし、隣に住んでいるのもちょっと嫌だ』と話したよし。それで、オフレコであったにも関わらず、この発言がリークされてしまって更迭必至であるとのこと。

やれやれ又か・・・というのは発言自体もさることながら、オフレコの約束を破って報道しているメディア側の行為である。オフレコの約束は信用できないにも関わらず、内心のホンネを ― 言葉というのは単なる冗句かもしれずホンネと断定することは出来ないものであるが、とにかく言葉を口先で ― なぜ不用意に語ってしまうのか、アカンなあ、というのが小生の感想である。

ま、それはともかく、

LGBTQに寛容な社会を造ろうと言うのは、一時代昔の言葉で言えば《グローバル・スタンダード》つまり「世界標準」になってきている。日本もそれにならって行こうとマスメディアが力説するのは小生もよく理解できる。この点でマスメディアは正しい。

しかし、《グローバル・スタンダード》に従って行こうと旗を振るなら、LGBTQの言葉狩りをする前に《死刑廃止》が世界の潮流であることもリスペクトするべきだ。それを日常的に報道し、死刑廃止が「世界標準」であることも力説するべきである。でなければ、姿勢が一貫しないとの批判を免れない。

人の命にもかかわる事であり、こちらの方が緊急性の高いメディアの使命であると思うが、いかに?

世論が怖いのか?

それならば、日本の世論が《グローバル・スタンダード》から外れているわけだから、それを指摘し、問題提起するのもメディアの使命ではないか。

それとも本件は、単に先日の三浦さん摘発に対する意趣返しなのだろうか?黒幕がいるのか?オフレコを破った記者は誰かが放った刺客であったのか?

どうも、権力闘争のきな臭い薫りが紛々として来ますナア・・・


テレビ画面でみるワイドショーの反応は、例によって、機械的、単純かつ幼稚な物言いで引用する程の価値はなし・・・この位なら、猿よりはマシなAIに言葉をしゃべらせておけば、AIにとっても良いトレーニングになるのではないだろうか?

2023年2月3日金曜日

断想: ちょっと呑気すぎる「政府」と「メディア」

思うのだが、

公的機関やメディアの上層部、仕事を依頼される御用専門家達は韓国流に言えば《現代の両班》と言えるだろう。身ぎれいな仕事に携われるという意味で、恵まれた支配層のトップの部分にいる。

自らは何も生みだしていない、活力を生みだす生産側ではなく、それを消費する側、つまり「花」の部分に相当しているのだ、と。かなり以前からそんな感覚を持っている ― 昔はそうではなかったと言うと昔を知らない世代から嫌がられるだけであるが、少なくとも現代社会よりはマシだった記憶がある。

最近の政府とマスメディアを見ていると、かつて東京電力の本社経営陣が、最も旧式の福島第一原発を呑気に稼働させていたことに対してほとんど何も危機感を感じていなかったこととも、どこかで通じるような独特の《非現場感覚》を感じるのだが、感じ過ぎなのだろうか?

*

今回起きた「連続強盗事件」と数年前の「特殊詐欺事件」を引き起こした犯罪組織が重なっており、かつ実行犯は《闇バイト》に応じた人たちであった事が明るみに出た事で、「視聴率をとれる話題」に困っていたTV各局は連日のようにこの「闇バイト」をとりあげては尺を稼いでいる。

そんなブラックな活動を可能にしている技術基盤が《SNS》であるというので、ただでさえSNSなるネット・サービスに批判的な日本人の眼差しが一層のこと非難がましいものに変わってきている感覚を覚えるのは、日本国内のメディア大手が願っている事でもあろうか、と。こうも感じられるわけだ。

*

興味深いのは、ルフィと呼ばれる主犯と目される人物はマニラの「ビクタン収容所」内にいる渡辺某なる日本人であると報道されているが、彼は現在小生が暮らしている北海道の出身だということと、他にも道内出身者が犯人グループに含まれていると伝えられている点だ。

昨年、安倍元首相を暗殺した青年・山上某もそうであるが、今回の主犯・渡辺某も高校生であった頃までは剣道に没頭する有望な青年であったという。推薦で札幌圏の大学に進学しススキノでアルバイトを始めた頃からどうやら悪の道に迷い込んで行ったと伝えられている。その背景なり交友関係、動機や心理などはまだ一切メディアは伝えていない。いま調べているのだろうか?

何度も投稿しているように、犯罪や犯罪者の発生は決してゼロには出来ないものだ。というより、人間は正義と罪の区別を設けて社会を運営するのである。毎年ほぼ一定数発生する犯罪、その犯罪を実行する犯罪者は、人間社会が必然的に生み出している。その意味で犯罪は社会的産物である。何度も投稿しているが、そう考えているのだ、な。

犯罪や悪という行為は、統計的特性として《定常的》であれば、社会的管理がノーマルに機能していることを示唆する ― その平均的な犯罪発生率が国によって高低が分かれるのは、国ごとの治安、経済状態、法制度等々の違いによる。ということは、犯罪発生率が現時点で低いとしても、平均的水準が切りあがりつつあったり、異常値が頻繁に発生したりするとすれば、もはや正常ではない。何らかの《異常原因》が隠れている。こう考えるのが、統計的生産管理というもので、この発想はあらゆる分野で応用可能だと思っている。

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普通なら良い就業機会を得て社会的な貢献が出来るような有望な青年が、次々にこういった犯罪組織に迷いこんでしまうのは、基本的な背景として《生活苦》という要素があるのではないか。テレビのワイドショーでもそう話しているのは本筋に近い所を認識している。

先日の投稿で《エンゲル係数》を話題に取り上げたが、実はこれ位の変動は十分説明できるもので何もこれ自体が異常だというものではない、という経済専門家が多いのだと思われる。「一流の専門家」は「専門家集団」に対してのみ新たな知見を発表するものである。著名な経済学者・ケインズは、大恐慌後の世界経済危機に際して『雇用・利子および貨幣の一般理論』(The General Theory of Employment, Interest and Money)を公刊し、「ケインズ革命」と呼ばれるような影響を与えたのだが、しかし著書自体はメディアに向けたものではなく、経済学者集団に向けて書かれたものだった。その経済学界では、まだ日本社会に「生活苦」や「貧困現象」が広く蔓延しつつあり、日本社会に危機をもたらしつつあるといった、それほどの危機感は持つに至っていないと理解している。

しかし、メディアは「新し物好き」である。かつ「危機が近づけばそれで稼ぐ業界」ともいえる ― 決して非難しているわけでもないし、揶揄しているわけでもない。そのメディアが日本社会の底辺層に拡大しつつある「生活苦」と、その影響についてレポートしていないのは、かなり前から不審に思っている。

今の国会議員が庶民とはかけ離れた生活感覚を持っているのに似て、メディア企業の従業員やメディアから声がかかるような専門家は、集団としては「恵まれた階層」に属しており、社会の底辺部の人たちの生活苦が今一つピンと来ない。仮にそんな話題をとりあげても、購買層としているターゲットにはアピールしない。そもそも中流未満の階層はワイドショーをノンビリ視聴するような生活をしていない。だから、そうした人たちの経済的利害にはメディアは関心を向けないのだ。こんなロジックがあるとすれば根が深い。

西洋から発する何事も日本に来ると日本化する。日本には日本的な社会的分断がある。

そんな風に感じる次第。

*

先日はエンゲル係数のグラフを入れたが、同じことをもっと広い視点から見ることもできる。


食費が占める割合 ― 上図のエンゲル係数には外食が入っている ― が上昇するのと逆行して「その他消費」がそのしわ寄せを食うように割合を低下させている。「その他の消費支出」に含まれるのは、「たばこ」や「理美容品、理美容用品」、「身の回り品」、それから「こづかい」、「仕送り金」が含まれ、更に贈答、進物など「交際費」もこれに入っている。こうした出費が削られ、食費が増えている。携帯電話料金などが嵩むにつれて2015年前後までは「交通通信」の割合が上がっていたが、近年では頭打ちである。ごく足元においては、「光熱・水道」が「教養娯楽」よりも比率が上回る月が出てきた ― 不良債権問題で苦しんでいた2000年代初頭にもこんなことはなかった。

この10年ほどで平均的な「2人世帯」であっても、そのお金の使い道、暮らし方は大きく変化してきたのだ。平均を遥かに下回る生活をしている人たちにもっと強く注意を集中するべき状況になっている(ことを数字は伝えている)。そう思うのだ、な。

普通にみれば、

平均的な世帯であっても生活に余裕がなくなってきている

そういうことであって、更に深堀りすると驚くようなケースを見出すはずである。

*

昨年の大河ドラマの主題でもあった鎌倉幕府が滅亡した原因は、

家臣団(=御家人層)の経済的困窮

だった。この困窮は元寇で負担した戦費が原因だ。生活苦に対して幕府が十分な支援を提供できなかったことで御恩奉公で結ばれていた家臣団が解体されていった。

江戸幕府が行き詰り明治維新が可能になった背景は、幕府が自らの財政危機を解決できず、薩摩藩、長州藩に経済的優位を譲ったことにある。水戸学から派生した尊皇攘夷思想は、経済的強者となった側が弱者の立場に陥った幕府勢力を打倒する大義名分を与えたに過ぎない。

どれほど理念的な正統性をもっていようが、財政危機と生活苦の蔓延は体制的な危機の前兆である。あとは、その体制を支えるべきであるという理念がどれほど共有されているかで社会の復元力が決まってくる。

2023年2月1日水曜日

断想: 「合理的」って、簡単にはそうなりませんゼ

そろそろ「ロシア=ウクライナ戦争」が始まってから1年を迎えようとしている。まだ戦争の終結は展望できない。

日本国内の、少なくともメディア表層に登場する人物たちは、ロシアの非合理性を非難する姿勢をとり続けている ― ロシアが非合理的だと非難するご当人自身、絶対の自信を内心に持っているわけではないように見えるのだが、これはメディアの番組編成方針によることでもあり、そう言わされているようでもあり、マアどうでもイイことだろう。

特に近年になってからよく耳にするのだが、

合理的でなければいけない

という意見や指摘がある。

なるほど、数学、論理学を始めとして全ての学問分野は合理的に議論されるものだ。おそらく美学、芸術論においても、合理的に意見を述べるよう求められているに違いない。

ずいぶん昔に投稿したのだが、人を説得するのに万国共通の論拠になるのは《ロジック》である。ローカルな社会では《倫理感》や《美意識》がより強烈な動機になるから、そこを刺激する説得が有効であるが、モラルも審美感も世代や民族によってバラバラだ。

だから<合理性>を求める風潮は、グローバル化し、多民族が融合しつつある21世紀という時代では、広まるべくして広まりつつある人々の要求なのだと思っているのだ。

*

しかしナア・・・

《合理性》とは何だろうか?

よく引き合いに出されるのだが、ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンが強調したように人は完全合理的には行動できないものである。可能な行動は限定合理的なものでしかない。つまり、「それなりに満足する」ところで決めるしかない。この現実を否定できる人間はいないはずだ。

というより、周知の「チェーンストアの逆説」があるように、和を重視し無駄な戦いを避ける合理的な企業はしばしば血で血を洗う激しい戦いを敢えてするような非合理的(と思われる)企業に敗退するものである。

力量が近接している二人が将棋を指すとき、「もう止めよう、負けた、負けた」というのは「勝つまで止めない」ような強情者を相手にした淡白な賢者の方であるに違いない。合理的な賢者は「これは割に合わず愚かなことだ」と考えるのでそんな結果になる。最後に勝つのは非合理な強情者であるに違いない。そして、最後に勝ちさえすればそれでもって決着することは世の中に多い。

まさに

泣く子と地頭には勝てない

そういうことである。

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確かに強情者は損失を省みない点で非合理だ。しかし「勝つ」というただ一点を求めるという点では<目的合理的>なのである。

そんな強情者だと分かっている相手(=それは風評、評判から分かる)とは戦いを避けるのが賢明だ。もし攻撃をかけてくれば妥協を選ぶ。そして、愚かに見えた強情者は欲しいモノを得る、というのが「チェーンストアの逆説」である。

こんな強情者を抑え込むにはどうすればよいか?それは自分も同程度に強情になって、最後まで戦いにつきあって決着をつけるしか道はない。が、力量が拮抗している状況で、こんな対応をすれば《共倒れ》が唯一の帰結なのである。

ま、愚かな二人が愚かな結果を招くのは理の当然で、全体が愚かそのものなのであるが、第一次世界大戦などはこれを地でやってしまった愚行であるとも言えるだろう。

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さて、上の最後に出てきた《目的合理性》。世間で言う「合理性」とは、多くの場合、この目的合理性のことを話していることが多い。特に「非合理だ!」という非難が飛び交う政談ではそうだ。

ただ、その場合、「合理・非合理」を識別する「目的の確認」という最初のステップが不可欠だ。でなければ、非論理的である。

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合理性は目的が定まった後に追求できるもので、《目的の選択》そのものは理念や価値観(古くは「国体」や信仰)から決めざるを得ない。

この目的の選択だけは民主主義を尊重するべきだというのが小生の立場である ― 憲法は民定憲法でなければならないという志向はここから出てくるし、現行の日本国憲法は誕生の経緯を振り返ると日本国民が起草した日本人の民定憲法とは言いかねる。これも前に投稿したことがある。

いま『目的の選択だけは民主主義を尊重するべきだ』と上に書いたが、これすらも常に正しく、懐疑の余地のない原理であるとは思えない。失敗の可能性はあると思う。大体においてこう言えるという程度だ。この点、一言付け加えておきたい。

それはともかく・・・

目的を定め、その目的を追求するための合理的政策を決めていくステージに移った以降は、<不確実性>という要素が加わるので、合理的議論を重ねるだけでは最適政策とは何かの結論が人によって分かれる。不確実性下で最も目的合理的な政策を選択するためには、「一流」の人材の見識に決定を委ねるか、それとも具体的な政策選択においても民主主義的決定によるかは、お国柄によって分かれて来るに違いない。小生の(いまの)立場は先日の投稿で述べたところだ。

「民主主義」といっても《人は色々、国も色々》にならざるを得ないのではないか。