2023年2月6日月曜日

ホンノ一言: 総理秘書官の舌禍すっぱ抜きについて更に感じること

前稿では総理秘書官の舌禍すっぱ抜き事件について感想を記した。それは陰謀史観にも近い見方である。が、こうした見方は面白くはあるが、一般的には事実ではないことも承知している。

本稿はLGBTQというテーマそのものについてどう思っているか。以前の投稿の繰り返しになるが、それをメモっておきたい。

そこでも述べているが、そもそも自分がどう人生を歩んでいくかについて、国、ましてはその事務局に過ぎない政府が、とやかく言うべきではない。これが小生が信奉する原点であるわけだ。

同性婚の権利保護という背後には、一夫一婦という従来型の人生モデルが変容しつつある流れがあるのだと思っている。『人間、そもそもどう生きるかは、当人たちの自由でしょ』という感覚がこのレベルにまで浸透すると、社会の在り方は相当変わっていくと予想される。

将来にかけて、このことがどう社会を変えていくかは、コントロールできまい。戦争と平和もそうだ。望む通りにはコントロールできない。同様に、家庭のあり方、文化のあり方、宗教のあり方は、人、政府、社会の意志を超えて変化していくものである ― 「変化」というより「進化」と呼ぶべきだというのが本来のリベラル的世界観であろう。

そうそう・・・思いついたので将来予測、というより危惧される可能性を一つ:

生物学的世代交代から切り離して婚姻を認めるなら、なにも同性2人に限定する必要はないのではないか。同性3人が婚姻をして家族になることも可能ではないか。一夫多妻制を認める国が現在もある中で、同性3人の婚姻は不可能だという「先験的根拠」はあるのだろうか?あるいは、3人の場合は一人が「夫」、一人が「妻」、3人目は「長子」という風にあくまでも従来型の「核家族」を模したポジションを決めさせて「婚姻」と「子」を同時申請させるのだろうか?…いや、いや、21世紀というのは中々面白い時代になってきたものである。

だから上のように書いているが、いま読んでも(我ながら)「その通り」と思ってしまう。

確かに、《終身・一夫一妻・核家族モデル》という家族像など、これが現実妥当的であった時代など日本の歴史を通して極めて例外的で、おそらく戦後日本のごく限られた短い期間にのみ数多く見られた家族類型に過ぎない。単に、ずっと無年金であった女性の生活を保障するため国民年金制度を確立する時、議論を単純化するために設けた理想に過ぎなかったとも言える。農村が消失し戻れる《実家》という存在も実質的に消失した現代という時代となり、これももう持ちこたえられない・・・そんな日本独特の事情もある。政府は自然に継承されてきた家族モデルに法律・制度をもって介入するべきではないのだ。社会は公的介入によって寧ろ混乱する。

そう思っていたところが、(日頃は玉石混交の石コメントばかりに辟易しているのだが)Yahooコメントに(小生から見ると)図星と感じられるのがあったので転載しておきたい。

 共同生活の在り方は、伝統的婚姻と同性婚だけだというのは思い込み。 たとえば、3人婚や義兄弟などのマイノリティを含みます。  それにも関わらず、法制化を同性婚だけに限定するのは、まさに差別です。  限定する理由もないのに、同性婚だけに限定する行為は、一方で、性的少数者の人権を守れといいながら、もう一方で、他の少数者の権利を切り捨てる行為であって、自己矛盾を起こしています。 

他にも、核心をついたコメントがあった。やはり、人の生き方そのものについて政府上層部で仕事をしている人物(及びマスコミ表層部に出てくる人物達)が云々すれば、必然的に《浅知恵、浅はか》に堕する。その好例を提供した、というのが今回の騒動であったのではないか。 


戸籍制度も旧式、婚姻制度も旧式、家族モデルも旧式、そして政府には人生の<標準型>を定義できる能力はない。その資格もない。故に、どのような人生を選択しようと、権利が保護されるように法制度を造っておく。もちろん義務も規定しなければならない。一切の道徳的指導は不可。要するに、こういうことであろうと理解している。これは政府ばかりではなく、マスメディア、更には一般大衆の集団行動にも適用されるわけであって、人の人生を偏見や思い込みで勝手に制限したり、云々するのは駄目だ・・・まあ、こんな所になるはずで、それが遅々として改善されない現代社会には鬱屈した心情をもつ。こんな要約になるだろうか。

案外、<政府>なるものが無く、日本人が自由に生き、事業を行い、治安・警察・自衛は自らの意志決定で自由に組織化するに任せる。そんな原初・日本社会をイメージすれば、意外と理想に近づくのかもしれない・・・一場の白昼夢であるが、そんな風にも思う今日この頃でございます。


それにしても、テレビのワイドショーに次々に出てくるコメンテーター達の物言い・・・「ありゃ、何なんだい?」というレベルだ。視野も狭く、コメントも定型的で何だか高校生のレポートである―いや、高校生の方がレベルが高いだろう。前稿にも書いたが、まあ、「猿よりマシ」という程度。ChatGPTの日本語レベルを更に上げ、その音声機能をテレビ局も採用すれば十分ではないかと思わせる。

【加筆】2023-02-07

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