「同性婚」云々が世間を賑わせているが、確かに小生がまだ青年であった20世紀においては、「同性同士の結婚」が真面目な話題として登場する可能性など皆無であった ― 現象としてLGBTQと呼ばれる行為、というかヒトがそれなりに多く見られることは誰もが知っていた事実である。例えばイギリスの高名な作家で小生も愛読者であるサマセット・モームは同性愛者であった。序につけ足すと、小生が愛するもう一人の英国人作家・グレアム・グリーンは麻薬常用者(シャーロック・ホームズもそうだった)、妻帯者にして同性愛者かつ児童買春愛好者であり、それと同時に厳格なキリスト教倫理と自分自身の<業>の狭間で煩悶するモラリストで、実務としては国際スパイ活動にも手を染めていた。実に濃密な人生である。これも風俗としての「英国的自由」で、だからどうだ、ということにはならなかっただけだ。
LGBTという旧くて新しい人間らしい行為が、今後の社会でどのように認められ、社会制度にインコーポレイトされていくのか、非常に興味深い社会実験だと考えている。
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人間社会の風俗は、時に思いもかけない程の速さで変わっていくものである。
例えば、谷崎潤一郎の名作『瘋癲老人日記』には次のような一節がある:
既婚ノ女、大概数エ年十八九歳以上ハスベテ眉ヲ剃リ歯ヲ黒ク染メテイタ。明治モ中期以後ニナレバコノ習慣ハ次第ニ廃レタガ、予ノ幼少時代マデハソウデアッタ。
… …
同ジ日本人ノ女ガ六十餘年ノ歳月ノ間ニ斯クモ変遷スルモノデアロウカ。
今でも高校の(中学でも?)課題図書によく挙げられる森鴎外の『舞姫』だが、発表されたのは明治23年(1890年)である。ということは、鴎外が『舞姫』を発表した時代、鴎外の身の回りにいるご婦人の多くは、眉毛を青々と剃り、歯はすべて鉄漿(=お歯黒)で漆を塗ったように黒々と光っていたはずである。特に鴎外がまだ少年であった時分には、ほとんど全ての女性はそんな風俗を佳しとしていた。それが江戸期以来の日本の伝統的風俗であり、審美感に沿うものであったのだ。
今日の日本人はこんな事情を知ったうえで鴎外や漱石の作品を読んでいるだろうか?おそらく今から何十年もたてば、三島由紀夫の『憂国』は残酷に過ぎるからという理由で販売禁止になるかもしれず、最後に重要人物が切腹する『奔馬』でさえも未成年には販売禁止になるかもしれない。それは紫式部の『源氏物語』に登場する男性が余りに多情であり女性蔑視も甚だしい、そんな非難を免れ得ないという点とも通じる。
<必読書>だと言われる古典の多くは昔に書かれたものである。故に、昔では当たり前だと受け取られたことは全て当然のこととして前提されている。そんな事は分かり切った上で現代人は名作を読まなければならない。それでもなお、昔の行為がずっと後の時点になってから分かり、当事者が随分齢をとってから、時代が変わった後の感覚や倫理で激しく非難されたり、裁かれたりする。そんな集団ヒステリーが時折発生する。「時効」も何もあったものではない。動くゴールポストそのものであり、アンフェアだと小生には感じられる。
「伝説」も「神話」も何も生まれず、ただただ「旧悪」が露見するという時代は余りにも淋しいものだ。
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何年もたてば古い風俗も、旧い価値観も変わるものだ。そうして別の世界になる。新しい世界になるのは、その方が(旧世代も含めて)快適であるからだ。
つまり自発的に自然に変わる。もし自然に変わらないなら、それは新しい方に優位性がないからだ。そんな時は、旧いほうが生き残る。新しい方は一時の流行であって、まるでバブルのように消えて、旧いやり方がそのまま継承される。
ナイフやフォークが輸入されても日本人はまだ箸を使うことを止めない。「昭和はもう過去にしようよ」と言って箸をすて去るのは愚かだ。同じような愚かさは、今の日本社会に多く見られるような気がする。
生き残るには変化しなければならない
こんな風に強調する専門家は多い。が、変わるのは愚行であることも多い。何か新しいものが登場し、それで社会が変わるかどうかは、何人かの人の考え方や意見、評論とは関係ない。誰が何と言おうと、変わるべくして自然に変わるのだ。
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