2023年2月9日木曜日

断想: 「同性婚」、欧米とは違って深い問題を日本人に提起している気もするが

LGBT法案の行方が混とんとしている。野党が岸田総理に「法案を成立させる覚悟はおありか?」と迫っているのだが、質問者は国会議員、応える人は行政府の代表(としての立場)だ。法律を制定できるのは国会のみである。内閣が法律制定を主導すること自体、小生は不適切だと考える立場だ。しかも、今回のLGBT法案は議員立法である。総理は法案の事は国会におまかせすると応えておくのが筋だろう。何だか、野党議員は勘違いしているのではないか、と。そう感じた次第。

それはともかく、

結局、この日本で「家族」という言葉はどう認識され、使われているのか。その定義は何なのか。この点を議論しなければ根本的な理解には至らない。そう思われるのだ、な。

「家族」と似た概念に「世帯」がある。夫婦・親子・血縁の関係ではなく、生計を共にする複数人が世帯を構成する。

「世帯」は、世帯主と配偶者ほかの扶養家族から構成される。転出入など住民登録、確定申告、保険料支払い等々、これらは世帯ベースで行われている。現在、色々な場面でLGBTの権利保護が求められているが、議論を外野から聞いている限りは「世帯」ベースで対応できる問題ではないかとも感じる。であれば、行政上対応は難しくはないはずだ。

他方、同性婚が<違憲>になるのかどうかで揉めている日本国憲法24条だが、こう書かれている。

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

婚姻は「両性の合意のみ」と明確に書かれている。両性とは(生物学的な)「男性と女性」を指しているのだろうというのは、憲法成立時点の常識を振り返ると、言わずもがなである。

なので、憲法の条文を普通に読めば、婚姻は「男性と女性」の二人が合意した時点で成立するのだ、と。親の同意や、親族の同意とか、「家」の支配は受けず、当人二人さえ合意すれば、その合意のみによって婚姻は成立するのだ、と。戦前期・日本の「家」制度を否定するというのが24条の主旨である。9条は読みようによって「戦力」の概念範囲が変わって来る曖昧さがあるが、この24条は9条よりは解釈の余地がよほど狭い。そう思われるのだ、な。

故に、同性婚合法化に反対している保守派の言い分も理解できないわけではない。

多くの違憲訴訟が相次ぐと、その時の最高裁判事の構成によっては「違憲判決」が出るような気もしないではない ― いや、条文を素直に読めば、違憲判決の可能性は大いにあると思う。

だから、やりたいことがあれば、

まず憲法の条文を、やりたいことが出来るよう、きちんと明確に書き直しておく。

前にも書いたが、これが本質的な問題だと思われる。

「敵基地先制攻撃」も「自衛」の範囲だ、と。そんな怪しい屁理屈をこねるより憲法をしっかり修正しておく。「同性婚」も同じことである。

その位の事は事前段階として取り組むべきであるし、真剣に問題解決を図りたいなら、その位の努力はどの国でもやっている ― もちろん独裁者が自己利益を守るために憲法を修正するなどという例も多いが、それでも直すべき憲法条文をまず直しておくという誠実さ(?)は最小限あるわけである。

この点に触れない日本のマスコミは、非論理的であるという批判を免れないし、そもそも知的な意味で甚だ不誠実である ― 大方の愚論に逆らって正論を敢えて述べる誠実なジャーナリストなど、戦前期の東洋経済新報社で活動した石橋湛山以外には思いつかず、そもそも不誠実なのだと割り切るのが賢い視線なのであるが。

序に書き足すと、日常生活における「世帯」の運用とは別に、日本で「家族」と言われる実態は《戸籍》制度によって実現されている。戦前期の「家(≒大家族)制度」でも、戦後の「核家族」でも、日本人にとっての家族感覚が戸籍制度と密着している点を否定するなら、真っ当な議論にはならないはずだ。

である以上、戸籍制度の改廃、変更に一言も言及しないのは、マスコミ(と国会自体?)がこの問題をいかに浅はかに考えているかを示唆している。


戸籍制度は、武士が支配する江戸期から国民皆兵を柱とする明治になり、政府が全日本人を把握する必要性から生まれたものである(と小生は理解している)。特に、重要なのは《国籍》、《出生・死亡》の把握・管理である。つまり日本国内の全家族の把握を目的として戸籍制度は生まれた。なぜなら人口が国力、特に動員可能な兵数に直結するからだ。

戦前期には戸籍上の「戸主」が「家」の監督権をもっていたが、戦後は「戸主」ではなく核家族ごとの「戸籍筆頭者」となり、日本社会は決定的に民主化された。しかし、それでも一つの戸籍は一人の男性と一人の女性が結婚した時点で創られ、子供が生まれれば出生届を提出して戸籍に登録する。誰かが死亡すれば死亡届を出して戸籍から除く。そうして一つの家族の生成・消滅は戸籍をベースとして把握され、管理されている。これが日本の行政を基礎部分で支える基盤になっている。

つまり

日本の国籍をもつ日本人が、どんな家族をもっているか(いたか)の把握は、戸籍制度によって法的に実現されている。

その意味で、日本人にとっての「家族」は「戸籍」と一体のものである。戸籍制度は、現代世界では日本、及び中国、台湾にのみ残る独特の制度になった。これを「東洋の伝統」と見るか、「廃止すべき悪政」と見るかは、人によって分かれるだろう。社会で共有される「家族」という言葉の定義・範囲にも関係しているはずだ。


戸籍の目的はまずは国籍の管理にあると言える。日本の「国籍」概念は属人主義である。つまり「血統」を重視する考え方を採っている。戦後日本には徴兵制はないので全ての日本人を把握したいという政府側の強烈な動機はない(と思われる)。とはいえ、出生した子供の両親は誰であるか、その両親は誰から生まれた人間であるのか。日本人であるのか、外国人であるのか、その者は養子であるのか、嫡出子であるのか、非嫡出子であるのか等々。行政において親子関係、家族関係を確認することが求められる場面はやはり多い。

そんな事情もあって戸籍制度はまだ日本にある。その戸籍制度の下では、子は戸籍上の家族に生まれ、そこで育てられる。そして、日本では婚外子比率は2パーセント程度であり、欧米社会とはまったく様相を異にしている ― そもそも欧米社会には戸籍制度がない。もし日本も西洋社会のように婚外子比率が50パーセントに迫るという社会情況になれば、もはや戸籍制度は風化したと言わざるを得ない。しかし、日本の状況はそうはなっていない。

つまり、日本において、戸籍制度は制度としてまだ機能している。憲法24条はこの営み、つまり家族の生成と成長、消滅という全プロセスを核家族という枠組みで民主化しているわけだ。もちろん、これを評価する人と評価しない人はいるだろうが、こういう認識が概ね現実妥当的ではないかと思う。日常生活では生計を共にする「世帯」をベースに公共サービスを享けるのだが、こうした側面とは別に戸籍という制度が果たしている機能にも目を向けるべきだろう。

概ね機能している社会制度を無理に解体する必要はないであろう。

というのは、健全な常識である、と小生には思われる。


とすれば、一つの結論が得られそうだ。

日本人(の多く)にとっての「家族」とは(さしあたって)婚姻届けで創られる戸籍上の核家族で、この家族感覚は同性婚で具体化される「家族」とは質的な概念差があるように感じる。「家族」ではなく「世帯」として認識し、日常生活において「一般世帯」と差別されることなく、公的サービスを享けることが出来れば、それが即ち欧米的な意味での「問題解決」に当たるのではないか ― そもそも欧米には戸籍はない。

もちろん「家族」に類似した生活をおくる同性の二人が「世帯」として公平な処遇を保障される一方で、例えば血縁のない第三者を(「子?」、「兄弟?」など)「世帯員」として届け出て扶養者控除を享けるなどの脱税行為は予め想定して、厳格に制度化しておく必要はあるだろう。更に、子の誕生、成長、消滅という戸籍ベースの「家族」とは特性が異なる「同性婚世帯」の場合、関係の解消、つまり「別離」をどうマネージするのか?LGBTの中の”B"が該当するのだろうが、異性婚を重複して行うことは可能なのか等々、整理しておくべき法的概念は多いと思われる。

制度の悪用を避け適切に制度化できるとすれば、公的サービスの平等な享受者として救済するべき対象者は、同性婚を希望する二人に限らず、同性婚に当てはまらない複数人であるケースも確かにある。差別を排除するという目的には柔軟な措置の方が役に立つし、哲学的な議論ではなく、実証的かつ功利主義的な解決をとるべきところだ。

日本の戸籍制度が運用不能なほど社会が変容すれば、日本国籍の《属人主義(=血統主義)》もまた継続不可能になってくるはずである。

この段階において、日本も言葉の意味通りに「グローバル化」することになるのだろう。そして、その時には日本独自の天皇制や天皇制に密着した神社もまた支持を失うのかもしれない。

こう考えると、単に同性婚を認める・認めないというレベルの問題ではなく、やはり

日本人が認識する「家族」とは何か? 

「日本人」とは何か?

日本の「文化」や「伝統」のコアは誰が継承していくのか?

できれば、このようなレベルにまで立ち入って議論する方が望ましいし、マスコミも議論の掘り下げに努力するべきだと思うのだ、な。


加筆:2023-02-11

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