2023年2月3日金曜日

断想: ちょっと呑気すぎる「政府」と「メディア」

思うのだが、

公的機関やメディアの上層部、仕事を依頼される御用専門家達は韓国流に言えば《現代の両班》と言えるだろう。身ぎれいな仕事に携われるという意味で、恵まれた支配層のトップの部分にいる。

自らは何も生みだしていない、活力を生みだす生産側ではなく、それを消費する側、つまり「花」の部分に相当しているのだ、と。かなり以前からそんな感覚を持っている ― 昔はそうではなかったと言うと昔を知らない世代から嫌がられるだけであるが、少なくとも現代社会よりはマシだった記憶がある。

最近の政府とマスメディアを見ていると、かつて東京電力の本社経営陣が、最も旧式の福島第一原発を呑気に稼働させていたことに対してほとんど何も危機感を感じていなかったこととも、どこかで通じるような独特の《非現場感覚》を感じるのだが、感じ過ぎなのだろうか?

今回起きた「連続強盗事件」と数年前の「特殊詐欺事件」を引き起こした犯罪組織が重なっており、かつ実行犯は《闇バイト》に応じた人たちであった事が明るみに出た事で、「視聴率をとれる話題」に困っていたTV各局は連日のようにこの「闇バイト」をとりあげては尺を稼いでいる。

そんなブラックな活動を可能にしている技術基盤が《SNS》であるというので、ただでさえSNSなるネット・サービスに批判的な日本人の眼差しが一層のこと非難がましいものに変わってきている感覚を覚えるのは、日本国内のメディア大手が願っている事でもあろうか、と。こうも感じられるわけだ。

興味深いのは、ルフィと呼ばれる主犯と目される人物はマニラの「ビクタン収容所」内にいる渡辺某なる日本人であると報道されているが、彼は現在小生が暮らしている北海道の出身だということと、他にも道内出身者が犯人グループに含まれていると伝えられている点だ。

昨年、安倍元首相を暗殺した青年・山上某もそうであるが、今回の主犯・渡辺某も高校生であった頃までは剣道に没頭する有望な青年であったという。推薦で札幌圏の大学に進学しススキノでアルバイトを始めた頃からどうやら悪の道に迷い込んで行ったと伝えられている。その背景なり交友関係、動機や心理などはまだ一切メディアは伝えていない。いま調べているのだろうか?

何度も投稿しているように、犯罪や犯罪者の発生は決してゼロには出来ないものだ。というより、人間は正義と罪の区別を設けて社会を運営するのである。毎年ほぼ一定数発生する犯罪、その犯罪を実行する犯罪者は、人間社会が必然的に生み出している。その意味で犯罪は社会的産物である。何度も投稿しているが、そう考えているのだ、な。

犯罪や悪という行為は、統計的特性として《定常的》であれば、社会的管理がノーマルに機能していることを示唆する ― その平均的な犯罪発生率が国によって高低が分かれるのは、国ごとの治安、経済状態、法制度等々の違いによる。ということは、犯罪発生率が現時点で低いとしても、平均的水準が切りあがりつつあったり、異常値が頻繁に発生したりするとすれば、もはや正常ではない。何らかの《異常原因》が隠れている。こう考えるのが、統計的生産管理というもので、この発想はあらゆる分野で応用可能だと思っている。

普通なら良い就業機会を得て社会的な貢献が出来るような有望な青年が、次々にこういった犯罪組織に迷いこんでしまうのは、基本的な背景として《生活苦》という要素があるのではないか。テレビのワイドショーでもそう話しているのは本筋に近い所を認識している。

先日の投稿で《エンゲル係数》を話題に取り上げたが、実はこれ位の変動は十分説明できるもので何もこれ自体が異常だというものではない、という経済専門家が多いのだと思われる。「一流の専門家」は「専門家集団」に対してのみ新たな知見を発表するものである。著名な経済学者・ケインズは、大恐慌後の世界経済危機に際して『雇用・利子および貨幣の一般理論』(The General Theory of Employment, Interest and Money)を公刊し、「ケインズ革命」と呼ばれるような影響を与えたのだが、しかし著書自体はメディアに向けたものではなく、経済学者集団に向けて書かれたものだった。その経済学界では、まだ日本社会に「生活苦」や「貧困現象」が広く蔓延しつつあり、日本社会に危機をもたらしつつあるといった、それほどの危機感は持つに至っていないと理解している。

しかし、メディアは「新し物好き」である。かつ「危機が近づけばそれで稼ぐ業界」ともいえる ― 決して非難しているわけでもないし、揶揄しているわけでもない。そのメディアが日本社会の底辺層に拡大しつつある「生活苦」と、その影響についてレポートしていないのは、かなり前から不審に思っている。

今の国会議員が庶民とはかけ離れた生活感覚を持っているのに似て、メディア企業の従業員やメディアから声がかかるような専門家は、集団としては「恵まれた階層」に属しており、社会の底辺部の人たちの生活苦が今一つピンと来ない。仮にそんな話題をとりあげても、購買層としているターゲットにはアピールしない。そもそも中流未満の階層はワイドショーをノンビリ視聴するような生活をしていない。だから、そうした人たちの経済的利害にはメディアは関心を向けないのだ。こんなロジックがあるとすれば根が深い。

西洋から発する何事も日本に来ると日本化する。日本には日本的な社会的分断がある。

そんな風に感じる次第。

先日はエンゲル係数のグラフを入れたが、同じことをもっと広い視点から見ることもできる。


食費が占める割合 ― 上図のエンゲル係数には外食が入っている ― が上昇するのと逆行して「その他消費」がそのしわ寄せを食うように割合を低下させている。「その他の消費支出」に含まれるのは、「たばこ」や「理美容品、理美容用品」、「身の回り品」、それから「こづかい」、「仕送り金」が含まれ、更に贈答、進物など「交際費」もこれに入っている。こうした出費が削られ、食費が増えている。携帯電話料金などが嵩むにつれて2015年前後までは「交通通信」の割合が上がっていたが、近年では頭打ちである。ごく足元においては、「光熱・水道」が「教養娯楽」よりも比率が上回る月が出てきた ― 不良債権問題で苦しんでいた2000年代初頭にもこんなことはなかった。

この10年ほどで平均的な「2人世帯」であっても、そのお金の使い道、暮らし方は大きく変化してきたのだ。平均を遥かに下回る生活をしている人たちにもっと強く注意を集中するべき状況になっている(ことを数字は伝えている)。そう思うのだ、な。

普通にみれば、

平均的な世帯であっても生活に余裕がなくなってきている

そういうことであって、更に深堀りすると驚くようなケースを見出すはずである。

昨年の大河ドラマの主題でもあった鎌倉幕府が滅亡した原因は、

家臣団(=御家人層)の経済的困窮

だった。この困窮は元寇で負担した戦費が原因だ。生活苦に対して幕府が十分な支援を提供できなかったことで御恩奉公で結ばれていた家臣団が解体されていった。

江戸幕府が行き詰り明治維新が可能になった背景は、幕府が自らの財政危機を解決できず、薩摩藩、長州藩に経済的優位を譲ったことにある。水戸学から派生した尊皇攘夷思想は、経済的強者となった側が弱者の立場に陥った幕府勢力を打倒する大義名分を与えたに過ぎない。

どれほど理念的な正統性をもっていようが、財政危機と生活苦の蔓延は体制的な危機の前兆である。あとは、その体制を支えるべきであるという理念がどれほど共有されているかで社会の復元力が決まってくる。

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