そろそろ「ロシア=ウクライナ戦争」が始まってから1年を迎えようとしている。まだ戦争の終結は展望できない。
日本国内の、少なくともメディア表層に登場する人物たちは、ロシアの非合理性を非難する姿勢をとり続けている ― ロシアが非合理的だと非難するご当人自身、絶対の自信を内心に持っているわけではないように見えるのだが、これはメディアの番組編成方針によることでもあり、そう言わされているようでもあり、マアどうでもイイことだろう。
特に近年になってからよく耳にするのだが、
合理的でなければいけない
という意見や指摘がある。
なるほど、数学、論理学を始めとして全ての学問分野は合理的に議論されるものだ。おそらく美学、芸術論においても、合理的に意見を述べるよう求められているに違いない。
ずいぶん昔に投稿したのだが、人を説得するのに万国共通の論拠になるのは《ロジック》である。ローカルな社会では《倫理感》や《美意識》がより強烈な動機になるから、そこを刺激する説得が有効であるが、モラルも審美感も世代や民族によってバラバラだ。
だから<合理性>を求める風潮は、グローバル化し、多民族が融合しつつある21世紀という時代では、広まるべくして広まりつつある人々の要求なのだと思っているのだ。
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しかしナア・・・
《合理性》とは何だろうか?
よく引き合いに出されるのだが、ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンが強調したように人は完全合理的には行動できないものである。可能な行動は限定合理的なものでしかない。つまり、「それなりに満足する」ところで決めるしかない。この現実を否定できる人間はいないはずだ。
というより、周知の「チェーンストアの逆説」があるように、和を重視し無駄な戦いを避ける合理的な企業はしばしば血で血を洗う激しい戦いを敢えてするような非合理的(と思われる)企業に敗退するものである。
力量が近接している二人が将棋を指すとき、「もう止めよう、負けた、負けた」というのは「勝つまで止めない」ような強情者を相手にした淡白な賢者の方であるに違いない。合理的な賢者は「これは割に合わず愚かなことだ」と考えるのでそんな結果になる。最後に勝つのは非合理な強情者であるに違いない。そして、最後に勝ちさえすればそれでもって決着することは世の中に多い。
まさに
泣く子と地頭には勝てない
そういうことである。
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確かに強情者は損失を省みない点で非合理だ。しかし「勝つ」というただ一点を求めるという点では<目的合理的>なのである。
そんな強情者だと分かっている相手(=それは風評、評判から分かる)とは戦いを避けるのが賢明だ。もし攻撃をかけてくれば妥協を選ぶ。そして、愚かに見えた強情者は欲しいモノを得る、というのが「チェーンストアの逆説」である。
こんな強情者を抑え込むにはどうすればよいか?それは自分も同程度に強情になって、最後まで戦いにつきあって決着をつけるしか道はない。が、力量が拮抗している状況で、こんな対応をすれば《共倒れ》が唯一の帰結なのである。
ま、愚かな二人が愚かな結果を招くのは理の当然で、全体が愚かそのものなのであるが、第一次世界大戦などはこれを地でやってしまった愚行であるとも言えるだろう。
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さて、上の最後に出てきた《目的合理性》。世間で言う「合理性」とは、多くの場合、この目的合理性のことを話していることが多い。特に「非合理だ!」という非難が飛び交う政談ではそうだ。
ただ、その場合、「合理・非合理」を識別する「目的の確認」という最初のステップが不可欠だ。でなければ、非論理的である。
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合理性は目的が定まった後に追求できるもので、《目的の選択》そのものは理念や価値観(古くは「国体」や信仰)から決めざるを得ない。
この目的の選択だけは民主主義を尊重するべきだというのが小生の立場である ― 憲法は民定憲法でなければならないという志向はここから出てくるし、現行の日本国憲法は誕生の経緯を振り返ると日本国民が起草した日本人の民定憲法とは言いかねる。これも前に投稿したことがある。
いま『目的の選択だけは民主主義を尊重するべきだ』と上に書いたが、これすらも常に正しく、懐疑の余地のない原理であるとは思えない。失敗の可能性はあると思う。大体においてこう言えるという程度だ。この点、一言付け加えておきたい。
それはともかく・・・
目的を定め、その目的を追求するための合理的政策を決めていくステージに移った以降は、<不確実性>という要素が加わるので、合理的議論を重ねるだけでは最適政策とは何かの結論が人によって分かれる。不確実性下で最も目的合理的な政策を選択するためには、「一流」の人材の見識に決定を委ねるか、それとも具体的な政策選択においても民主主義的決定によるかは、お国柄によって分かれて来るに違いない。小生の(いまの)立場は先日の投稿で述べたところだ。
「民主主義」といっても《人は色々、国も色々》にならざるを得ないのではないか。
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