2023年12月14日木曜日

覚え書き: 賃上げを補助金で支えるっていうのもネエ、呆れて口がふさがりません

来年以降に経済成長をつなげるためには、足元のインフレに賃上げが追いつくかどうかである、と。これが最重要なポイントである、と。メディアは、ここに来て、力説している。何だか目標が出来てウキウキとしている様だ。ま、数字で確認できる話しなので、分かりやすいですワナ。

しかし、こんな単純なことは、デフレで失われた30年の間も分かり切っていたことで、本ブログでも10年以上も前の投稿で賃金ベースアップの重要性を指摘している。

ただ安倍政権発足前の2012年の当時は、ベースアップを求める連合(=労働側)とベースアップは論外とする経団連(=経営側)で意見が対立しており、そうなると日本人は何となく企業経営が不安定になるのは本末転倒だと思うようで、思えばこの辺から日本人の経済政策談義は正常な軌道からドンドンと離れていった。いま思い返すとそう思うのだ、な。結構、日本社会のデフレ体質は根が深かったわけである。

それがいま、やっと

ベースアップ、これ大事ですよね

と、目が覚めたように力んでいるのだから、なるほどこんなレベルでは経済も停滞するはずだ ― 東日本大震災後のエネルギー・ネックもまた日本人のメンタルから派生している大きな制約になっているが。

一口に言うと、日本社会は複数の大きな勘違いから集団的に目覚められなかった。誰がそうさせたのか。結局は、日本の専門家集団がいま一つなのだという解釈になるしかなさそうだが、要するに真の問題に正面から正対してこなかった。

★

その意識がいま変わりつつあるのは、とても良いことだ。

ただ、来春以降、大企業は積極的賃上げに動きそうだが、中小企業がどの程度ついて行けるかが問題だ、と。これまた正しい視線だ。

しかし、政府は賃上げが難しい中小企業には、賃上げによる人件費コスト増を税で一部補填しようと。そんな案が検討されている(とも聞く)。

これが本当なら、賃上げ困難な中小企業には補助金を支給する、ということだ。

呆れて開いた口がふさがらない話だ。

★

日本政府の補助金行政は世界でも悪名高いが、それでも従来の補助金は潜在的な成長産業、あるいは安全保障と密接に関連する産業部門に投入されていた。その意味では、(独断と偏見が無視できないとしても)戦略的産業政策であったわけだ。例えば、AI(人工知能)、先端半導体企業を支えるための補助金がそうである。

賃上げ支援は真逆である。賃上げ困難な企業は、即ち過当競争に陥っており、賃上げを販売価格引き上げによって吸収するのが難しいが故に、賃上げが難しいという企業が大半だろう。

賃上げが難しく、相対的に低賃金になってしまう業種は、人が集まるのと反対に人が離職し、資本コストを抑えるために設備廃棄をし、供給能力縮小へ向かうのが《市場メカニズム》というものである。

こうすることで、人は衰退産業から成長産業へ移動できるわけで、人出不足の日本では特に必要なメカニズムである。

市場に逆らって賃上げ困難な中小企業を税で支えようという人の頭脳構造はどうなっているのか?

またまた当然のことを言っている顔をして

弱者に寄り添うことは政治の根本です

などと高言するのだろうナア・・・そう想像すると暗澹としてくる。

もしそうなると、これまでもそうだったが《社会主義的気分の夕暮れ》の中で日本は薄ボンヤリと衰えていくしかない。淋しいネエ……。

かわいい子には旅をさせよ

少し前の東芝のように泣いて馬謖を斬るのは経営失敗がもたらした結果であるが、斬るべき馬謖に孔明が寄り添っていれば国が滅んだに違いない。寄り添う事だけが愛ではない。



2023年12月12日火曜日

ホンノ一言: 「無党派」の人々が増えることの意味は何だろうか

政治資金パーティ券売り上げのキックバックで裏金を作っていたというので自民党の政党支持率が急落しているとの事。特に、最大派閥である安倍派がひどいという報道だ。

通常の先進国なら与党で不祥事があって支持率を落とせば、対抗勢力である野党の支持率が上がるものだ。ところが、ここ日本では野党が弱体で、自民党がこれほどの失策を犯しても野党には有権者の支持が集まって来ない・・・その結果、いわゆる「無党派」が急増している。

今回の「パー券キックバック」の露見以前ではあるが、本年9月に行われたNHKの世論調査では

各党の支持率は、「自民党」が34.1%、「立憲民主党」が4.0%、「日本維新の会」が5.8%、「公明党」が2.2%、「共産党」が2.3%、「国民民主党」が1.9%、「れいわ新選組」が0.9%、「社民党」が0.4%、「政治家女子48党」が0.2%、「参政党」が1.0%、「特に支持している政党はない」が42.8%でした。

「自民党」の支持率は、先月から横ばいの34.1%で岸田内閣の発足後では、最も低い水準となっています。

一方、「特に支持している政党はない」、いわゆる無党派層の割合は、岸田内閣発足後、初めて40%を超え42.8%に上っています。

また、「立憲民主党」の支持率は4.0%で、「日本維新の会」の5.8%が上回りました。

こんな概要になっている。

前から言われていたことだが、最も多くの有権者は支持政党を持たず「無党派」に属し、足元では4割を超えてきている。

*

この無党派をどう解釈するかで真剣な議論が行われることは少ない。

政治不信を何とかしなければいけませんね

こんな意見の引き合いに参照されるくらいだ。

が、一口に言えば、仮に日本でクーデターが発生し、「反乱軍」が《令和維新》を唱えるとすれば、反政府側に真っ先に支持の声を上げるのは、おそらくこの「無党派層」であると想像する。

「無党派層」は現行憲法に基づく既存の政治勢力にとっては危険な「揮発性燃料」だと思うべきだ。

特定の事象が起こった際、全員が発火するとは限らないが、現在の政治から疎外されているという感情は非常に危険である。代弁者を求めているのである。

未来社会のソーシャル・フィクションを書くなら、世論調査の無党派層の動きは絶対に素材に使うネ、と。そんな風に考えているのだ。

(またまた仮にだが)無党派層が100%に達する極限の社会状況では、ほぼ確実に反乱軍が決起し、憲法停止はほぼ確実に成功する ― もちろん在日米軍とのコミュニケーションは不可欠だろうが、こんな極限の政治状況が到来すれば、米政府も反乱軍に肩入れする可能性がある。こんな風に想像しているのだ。

無党派層が100%でなくとも5割超の過半数にまで拡大する場合、先進国では久しく見られない《革命》が成功する確率が非常に高くなる。ひょっとすると、こちらの方が現実的な見通しかもしれない。

ま、アメリカでも世論調査をすると、無党派層が案外多いそうだから、上に書いたことは「杞憂」というものかもしれない。

*

世論調査は、民主主義社会の運営には無益であるかもしれず、政策選択の意思決定においては有害であるとすら言える、と。実は、小生は内心ではこう考えているが(例えば、これ、これの投稿を参照)、それでも世論調査が伝えてくれる事はある。 

2023年12月11日月曜日

覚え書き: 大谷選手移籍をめぐる盛り上がりをみて

日本人プロスポーツ選手が世界トップクラスの年俸を達成するというのは日本人にも励みになる話しだ。もちろんエンゼルスからドジャースへの移籍が決まったMLBの大谷翔平選手のことだ。

Winter Meetingが開催されてから日本国内のマスコミの「ハシャギ振り」は異常とも思われた。どのチームに移籍するだろうかということで、多くのOB、野球通(≒専門家?)が日替わりでTV画面に登場しては、マチマチ、バラバラの予想を語り、その予想には確かな根拠があるのだ、と。その根拠を語ってもらうのが視聴率獲得の定石であった事は理解できる。

ところが、ドジャース移籍が決まった後、今度は大谷選手がドジャースを選んだ「三つの決定的理由」、「五つの決定的理由」などと話し始めた。ところが「決定的理由」とは言っても、大谷選手自らが語っているわけではなく、本人の声はまだ伝わって来てはいない。

ということは、メディア各社が勝手に「ドジャースを選んだ決定的理由」と言っているだけの話しだ。

小生、へそ曲がりだものだから、

ドジャースを選んだ決定的理由があったなら、なぜ移籍先はドジャース以外にはないと、一貫して話さなかったのか?いまになって「決定的理由」があるなどと言うのは矛盾しているでしょう?

そう思いますネエ・・・。

そもそも、分からなかったんでしょ?分からないのに情報が出て来ないって、アメリカの記者たちも不満だって。そう伝わってましたゼ。分からなかったのが、今回決まって、やっと明らかになった。スッキリした。しかし、まだ本人の声は聞こえてこないんでしょ?じゃあ、選択の理由なんて今も分からないってことじゃないですか?

そう言いたくなっちまいます。


駄目だと言っているわけではない。

けど、何と言いましょうかネエ・・・


マア、日本社会の(と限った話でもないだろうが)傾向として以前から漠然とだが感じるのだが

率直さが足りない。Honestyが足りない。正直じゃない。

礼儀は正しいが、今ひとつ率直じゃなく、体裁を気にして他人行儀で、不正直だ。日本人の国際的イメージはこんな風な線で一致しているような気がするのだが、マスコミにもそんな日本人の国民性が反映されているような感覚を覚えるのは、小生だけだろうか?

Billy JoelのHonestyは小生の大好きな曲だ。そこでも

Honesty is such a lonely word.

Everyone is so untrue.

何度もそう歌っている。だから日本社会だけの話ではない。が、それでも正直であることを心から願望している。そんな思いが溢れている。日本にも『素直になろうよ』という歌はある。嘘を嫌う感情は万国共通なのだ。

しかし、率直を愛し、正直を評価する側面は、西洋社会ほど個人主義が根付いていない分、日本社会では弱いものになっている可能性はある。

社会が個人を縛る感覚が強い分、個人による正直や率直が社会的バッシングを招いてしまう。それを社会の側が止められない。社会が上だ。個人が下だ。あるでしょう?こんな一面が。その分、日本社会の集団行動としては、Honestyが裏に隠れ、率直な真意のありかが見え難くなってしまうのである。

特に最近はひどい。プラスの面ではなく、マイナスの面が顕在化している。こんな感覚です。


それにしても、思いつくことを漫談風に続けるのだが・・・

昭和の香りを色濃く残したシニア層が社会の最前線から引退し、昭和末期から平成生まれの現役層が日本社会の中核を占めつつある。

ところが日本社会は昭和の名残を捨てて自由闊達になるかと思いきや、その反対で近年ますます社会的な同調圧力が強まり、それでいながら反対運動もなく、抗議の声も上がらない。むしろ率直な個人の表現は「水を差すもの」と非難されて抑えられる。「個性的」な人物がその言動で大炎上する例が目立って増えてきた。

この世相をどうみればいいのか?小生にとっては「七不思議」である。


少なくとも団塊の世代までは、彼らはその青春時代において極めて自己主張が強く、反権力的で、世間の大勢と常識を侮蔑し、高校から大学にかけては校舎を壊しまくり、就職してからは、時に暴走ともいえる営業を続け、先輩世代を振り回したものである。

団塊の世代、即ち《暴走の世代》と小生は思っている。日大闘争を契機に頭角を現した田中・日大前理事長などは(団塊の世代の少し上だが)極めて「昭和的」である。

彼らの同年齢の頃と比較すると平成世代は(異論はあるだろうが、実は)非暴力的である。それは良いのだが、平成世代の人々は政治や社会というものに斜に構える雰囲気がある。世間の大勢には順応し、強者には従う。そんな所がある。そうかと思えば、目立ち過ぎる個性的な人物に集団的バッシングを加えるところもある ― あくまで印象論だが、昭和世代の暴力行為は、権力闘争的で、血腥く、爆発的である。そんな破壊的暴力行為は世代交代の中で下火になった。

昭和世代に対して平成世代はどう総括されるのだろうか?

ま、大谷翔平選手は記憶に残るだろう。彼はスポーツ界に現れた一人の天才である。では、平成世代は集団としてどんな気風(=エートス)を持っているのか?そんな問いを発したいのだ、な。


ひょっとしたら、日本社会の停滞には人的な原因があって、実は若手現役世代の精神的老化も現象として認め得るのではないか?小生の愚息の世代は、偏屈な小生と比べても、非活動的で非野心的である。クラーク博士の"Boys, be ambitious!"と真逆の方向に歩いているようにも観える。本当は十分な資金を形成した後は出家でもしたいのじゃあないか。そんな気風(=エートス)が染み通っているのじゃあないか、21世紀中盤にかけての日本人は?だとすれば、衰退するイギリスで半世紀も前にうまれたBeatlesの"Let it be"と同じ気分である。

ひょっとして、メディアはメディアで、各社とも若手が過渡に社の方針に順応しているのではないか?いわゆる「武闘派」も「理論派」もいなくなった。どの業界も似たようなものではないか?現在の社内事情は知らないが、そんな推測がないわけではない。


ま、最後は《嫌な奴》になってしまったが、これまたHonestyの発露ということで。


2023年12月8日金曜日

断想: 千年前の近代的小説を読む

古文の授業では必ず『源氏物語』(の断片)が教科書に登場する。そこでは「もののあわれは日本文化の粋と言えるでしょう」とか、「世界最古の長編小説」だなどと説明されるのであるが、実際に全編を通して読む人は極めて少ない。文庫本で5冊だ。瀬戸内寂聴の訳本なら全10巻になる。ディケンズの小説並みの長さである。

原文で読み通した人は、多分、小生の知り合いの中には一人もいない(と思っている)。というか、紫式部が書いた平安期・宮中の日本語は、同じ日常を送っていて分かる人には何を指しているか、その暗喩が分かるという女房言葉で、現代日本人にはもはや本当の意味では理解できない言葉になっている、というのが事実認識としては正しい。

ただ『日本人なら人生で一度は源氏物語を最初から最後まで読むべきだ」という人がいたので、谷崎潤一郎訳と瀬戸内寂聴訳の現代日本語版とKindle Unlimitedで提供されている原文を読み合わせながら、全編を読み通したのが今年の夏だった。

一言で言うなら

なるほど、日本人なら一度は読む方がよい

確かにそう言える。

例えば、夏目漱石の『明暗』は『源氏物語』があればなくてもいいかもしれない。志賀直哉の『暗夜行路』もなくてもいい、と言えるかもしれない。三島由紀夫の『豊饒の海―春の雪』も敢えて読まなくともよいだろう。

この位は言って差し支えはないと感じたから、やはりもっと早く読むべきであった、ということか。


『蛍』の帖にこんな下りがある。谷崎訳で引用すると:

・・・随分世の中には話し上手がいるものですね。大方こんな物語は、嘘を巧くつき馴れている人の口から出るのだと思いますが、そうでもないのでしょうかしら・・・わたくしなどは一途に本当のことと思うばかりでございます。

これは無風流な悪口を言ってしまいました。いや、ほんとうは、神代からあった出来事を記しておいたものなのでしょう。日本紀などはただ片端を述べているので、実はこれらの物語にこそ、詳しいことが道理正しく書いてあるのでしょうね。

一体物語というものは、・・・ありのままに写すのではありませんが、いいことでも悪いことでも、世間にある人の有様で、見るにも見飽きず、聞いてもそのままにしておけない、後の世までも伝えさせたいことのふしぶしを、・・・書き留めておいたのが始まりなのですね。・・・それらを一途に根なしごとだと言いきってしまうのも、事実と違うことになります。

まさに現代社会にも通じる

歴史から事実が分かるか、小説から事実が分かるか

という問題を、千年前の女流作家が考えて、意見を述べている。

いや驚きです。


確かに、歴史そのものは史料から確認された《事実》だけから構成されている。その事実の意味するところを歴史を専門とする学者は研究したり、議論をしている。一方、歴史を舞台にした歴史小説、つまり物語はフィクションである。故に、歴史が事実であり、小説は嘘である、というのがロジカルな結論であるが、本当にそう言えるのか、という意見である。

《人間性》というのは、結局、変わらないものであると考えるのであれば、

こんな時、こんな状況に置かれれば、人はこんな物言いをして、こんな行動をする

そういう認識で、語り伝えたいことがあるとすれば、その語り伝えられた非歴史的な作品こそ、むしろ断片的な事実だけを並べた歴史よりは、人間社会の道理を正しく描写しているのだという認識は、まったくの嘘というわけではない。


不倫もあれば、失恋もある、マザー・コンプレックスもある。三角関係、五角関係もある。コミュニケーション・ギャップもある。裏切りもある。格差社会の悲劇もある。意識の流れを表現している点では、マルセル・プルーストの近代小説『失われた時を求めて』にも似ているところがある。

千年前の小説と侮るのは間違いだ。違うのは生活習慣だけである。


それにしても千年という時間の長さは感覚的にピンと来ない。徳川家康が関ヶ原に勝った1600年の更に600年前。源頼朝が鎌倉幕府を開く更に200年前である。2023年の200年前は1823年。まだ黒船は来航せず、日本人は徳川幕府の下で文化文政時代の町人文化を栄えさせて浮かれ騒いでいた。200年ですらとても長い時間である。



2023年12月5日火曜日

ホンノ一言: 自衛隊の法的根拠を百年議論することの意味は何だろう?

この夏に大ヒットしたドラマ『Vivant』で自衛隊別班なる存在が派手に活動していた。誰もが知っている秘密の非公式組織だと、英国のMI6もずっとそうだったと……、そうだったんですか、というわけだ。

存在していない組織ならフィクションである。フィクションでよいなら日本が海外派兵したり、核武装してもドラマの中ならよいはずだ。本当に存在していると思うならその違法性に目をつぶって脚本化するのはどうかと思う。不見識だ。「さすがにTBSだネエ」と思わないでもない。


その自衛隊についてであるが、2023年という本年になって、まだなおこんな意見が述べられている。

日本の自衛隊とは、どんな存在なのか。ジャーナリストの池上彰さんは「『自衛隊の存在は憲法違反ではないか』と問われた裁判で、最高裁は合憲とも違憲とも判断しなかった。その後、自衛隊はあいまいな位置づけのまま、世界有数の軍隊並みの組織として成長し、国際社会で活躍の場を広げている」という――。

Source: PRESIDENT Online

Date: 2023-09-03

URL:https://president.jp/articles/-/73353?page=1

一昔前には多かった意見であるが、2023年という今、このような意見に珍奇さを感じ、「ハアッ?」と言いたくなる人が、あまり多くはないところが、戦後日本の珍奇なところであると思う。


戦後が始まってから既に78年。1954年の自衛隊創設から69年。もう親子2世代、というより祖父・親・当人の3世代という長い時間が過ぎた。それでも『自衛隊はあいまいな位置づけのまま』などという表現がオープンな言論の場で表明されている。

戦後ももうすぐ80年ですゼ。それでも結論が出ない。数学の難問じゃない。日本国の憲法と合致するかどうかという単純な問題だ。それが解けないでいる……。


もし日本人がバカの集団ではないなら、ここから言える結論はただ一つである。

日本人は法的正統性が曖昧でも現実の必要性があれば必要な組織や活動を受け入れる。そんな風に考える国民である。

だからこそ、法的に曖昧な正統性しかもたない国内軍事組織を、さして不安もなく、そのまま受け入れる。こう結論するしかないではないか。つまり、日本人の心の中では自衛隊は(西洋的な意味合いで)既に「合憲」なのである。現実に受け入れているのだから。自衛隊に関して憲法を改正する必要性はないという考え方にも一理ある。


即ち、自衛隊という存在は理屈が通るか通らないかという学理上の問題でしかない。

自衛隊は、日本人のホンネでは、大方、ロジックの整理がついているのである。

必要な時機が到来すれば、事後的にどうにでもなる。官僚と法学者が作文をすればイイだけのことだ。ホンネではそう思っている。こんな理解の他に理解の仕方があるのだろうか?


日本という国は、憲法と法律に基づく法治主義国とは言えないところが残っている。少なくとも日本人のメンタリティにはそんな傾向がある。多分、<自分たちが作った憲法と法律>という民主主義国なら不可欠のメンタリティが日本人には希薄なのだろうと思う。

 

2023年12月3日日曜日

断想: 世代対立……、政治の失敗。と同時に(またまた)メディアの失敗でもあるのかも

中国共産党が最近強調している政治理念の中に《共同富裕社会》というのがある。

そもそも共産主義理念は、資本主義の私益追及原理を否定して、社会的平等を実現することにより、従属的立場を強いられてきた人民を解放するというものだから、富裕層を解体し、資産再分配を目指すという路線は実に当たり前の方針であって、現代日本社会を支配する常識の視点から、中国はメチャクチャな事をやっていると批判するのは、《主義》というものが分かっていない証拠である。

今は遠い昔になったが文化大革命中のスローガンに《老中青三結合》というのもあった。老年層、中年層、青年層からバランスよく指導陣に抜擢して政治を運営するというものだ。

中国は憲法において(封建主義と)資本主義を否定すると規定しているから、原理として分権よりは集権、分断よりは結合(=共同)を目指すのが、至極当たり前である。更に、中国は(歴史を通して)「指導者」がハッキリしている社会であるから、こうした《裁量的な抜擢》という人事が出来る ― 日本でも出来ないわけではないが。

*

かたや最近の日本の「世論」なのだが、日本人の一般的感覚として資本主義の理念には肯定的なのだろうか、否定的なのだろうか?

「自己責任」という言葉に対する反発や、規制緩和・自由化などいわゆる「新自由主義」的政策へのアレルギーをみると、日本人は福祉国家を目指してほしいと願っているようだ。新・自由主義とは、資本主義の基盤である市場競争と民間重視に忠実であろうという「原理・資本主義」とも言えるような理念だから、資本主義をそもそも肯定する人は新自由主義を頭から否定はしないものである。だから小生は、日本人はホンネのところでは「資本主義」があまり好きではないのだと考えている。この点は、現代日本人と明治維新直後の文明開化期に育った日本人とで、同じ国の国民かと思えるほどに違っている。そう感じるのだ。

ところが、高福祉・高負担という福祉国家を目指そうとするとき、「何と」というべきか、「やはり」というべきか、《増税拒否》の世論が噴出する。

自由を重視する「小さな政府」も社会的な負担と給付を実現する「大きな政府」のどちらにもアレルギーを感じているように見える。

そこから導かれる結論はただ一つで

現状維持、つまり今までどおり。変える必要はない。

こんな《現状保守主義》が、(結果としては)日本人が、全体としては、選んでいる路線である。こう考えざるを得ない。

しかるに、多くの数値的シミュレーションから明らかなように

現状を維持するのは不可能である

こうした現状があって、日本人の大多数が願っている路線は放棄せざるを得ない。最も強く願望する選択肢は選択できないという厳しい現実に直面している。基本的ロジックはこうだろうと思っているのだ、な。


まるで平和を願いながら、戦争を選ばざるを得ないという状況にも似ている。

小さい政府路線は拒否する。高福祉・高負担という福祉国家理念も拒否する。現状の持続は不可能である。

だから、日本人はいま《閉塞感》を感じているのである。

その現代日本社会の足元で増えている《世論》だが、この1,2年で目立ってきたのが

世代対立を煽る感情的意見

こんな風に今の世相を観ている。

世代対立から導かれる路線は、「世代的分権」、つまり「世代ごとの自助原理」である。近代を支えてきた《自助の原理 》がここでも出てくるわけだ。自分の始末は自分でつける。自分たちの始末は自分たちでつけるという考え方である。理念としては資本主義社会の哲学に近い。しかし、これは、上にも述べた通り、「本当は資本主義を嫌っているのではないか」と疑われる日本人のメンタリティとは矛盾した理念だと感じるのだ。

このような世代ごとの分権主義というか、世代自助の感情は、かつての文化大革命期・中国の運動スローガンであった「老中青三結合」とは真逆である。文化大革命の発端となった毛沢東の復権願望を考慮すると、「老中青三結合」は実に都合の良い原理であったわけだが、そもそも中国社会の旧慣・伝統が老人支配を善しとする側面をもっていたとも思われる。しかし、現代日本社会が今更ながら「老・壮・青の協同社会」を唱えても、世間の風潮とは余りに乖離している気がする。

ここにも日本社会の閉塞感が目に見えるようだ。

*

日本社会は中国とは違う。と同時に、西洋社会とも本質的違いがある。


シルバー民主主義の視点に立てば負担率上昇・給付額維持という路線を放棄するはずはない。が、負担率上昇を受け入れるには「自助の原理」とは異なる「老中青三結合」の理念に沿うことが不可欠だ。そんな結合の理念に沿う政策は必ずあるはずなのだ ― もちろん可能な範囲の中の最良という意味だが。

要は、経済的には出来るはずの世代間協同政策が政治的に出来ずにいるということが問題の本質であるに違いない。


そんな中で、世代対立の感情が形成されるとすれば、それは現代日本の民主主義の原理とは矛盾している。統合の感情とは正反対の分断への感情が形成されているのは、政治的には望ましい方針が国民感情によって否定されているということだから、これは《政治の失敗》であるわけだ。と同時に、何を読者・視聴者に伝えるべきかという選択の失敗、つまり日本社会の公益を毀損しているという点では、《メディアの失敗》と言えるかもしれない。


民主主義・政治的選択・国民感情が互いに矛盾しているというのは、いま日本が大きな問題に直面しているということだ。が、問題を解決できる政治的指導者を欠いている。第一次大戦に敗北したあとのドイツ・ワイマール体制の不安定な政情を連想するとすれば不吉だが、

敗戦後に成立した理想主義的な政治体制

という点で、戦後日本とワイマール・ドイツは似ている。

何だか不吉な連想である。

*

実際、岸田内閣の迷走ぶりをみていると多くの人は不安に駆られるだろう。かなり前の投稿で書いているが、

要するに、子育て支援のコストを社会保険料でまかなう方向は最後には潰れると予想される。

(中略)

その無理を覚悟してもなお踏み切ることが必要である、というこの一点が最後に残った政治的ステップだ。この辺については少し前に投稿した。さもなくば、コロナ感染拡大後の給付金で所得制限を付けるか付けないかで迷走した時と同じ、岸田首相の決断力不足が(またも)視える化されるというものだろう。

迷走しているテーマは上の投稿とは異なるが、迷走しがちな内閣は、時間が経過すれば、予測通りに迷走するということなのか。 


【加筆修正】2023-12-04、12-05





2023年11月30日木曜日

覚え書き: 日本的な「報道の自由」の情けない現実を知った一年であった

本年も残すところ後一月になった。顧みると今年一年程<人権>という単語を使った一年も珍しい。人権は、現代日本社会でずっと空気のような存在感をもってきたが、もし空気がなくなるとすればという恐怖心を感じさせたのが、本年という年であったのかもしれない。

*

11月の最後はまったくの覚え書きということで人権保護に関する海外の制度についてメモしておきたい。

というのは、こんな記事をネットで見つけたのだ。

同質性が極めて高い島国の日本は戦前戦中に秘密警察(思想警察)の歴史があるだけに、「表現の自由」に基づく「報道の自由」や国民の「知る権利」は最大限に保障されるべきです。中国やロシア、北朝鮮と日本の最大の違いは「報道の自由」が認められているか否かです。

報道による二次被害やメディアスクラム(集団的過熱取材)への対応は英国のような独立報道基準機構(IPSO)を設けたり、警察や行政、民間団体によるリエゾンオフィサー(メディアと遺族の間に入る家族連絡担当者)を養成したりするのが良いと思います。

英国の民間団体「被害者支援(VICTIM SUPPORT)」はサイトで「報道被害への対処法」を詳しく紹介しています。メディアの過剰な取材にさらされた場合はIPSOに通報すれば、IPSOは当事者を守るためメディアに対して「停止通告」を発することができます。

日本でもメディアによる人権侵害が甚だしい場合は侵害差し止めの仮処分を起こして、訴訟費用も含めてメディア側に請求し、判例を積み重ねていく必要があるのではないでしょうか。

Source:ニューズウィーク日本版

Date:2019年09月18日(水)18時30分

URL: https://www.newsweekjapan.jp/kimura/2019/09/post-62.php

前稿でも述べたが、マスメディアという民間企業の自由がいかに日本の民主主義に必要だと言っても、だから個人の人権を侵害してもよいことにはならない。人権は常に守られるのが原理原則である。

同じ記事は以下のように続いている:

インターネットやソーシャルメディアの普及で報道機関とメディアの境界が曖昧(あいまい)になってきました。「報道の自由」が認められるのは、伝えることに「公共の利益」がある場合に限られます。

公共の利益に沿うと判定する作業は、自社利益を追求しているメディアではなく、第三者でなければならない。

ドイツについても紹介されている:

ドイツ・プレス評議会のガイドラインはかなり詳しく被害者保護について定めています。

「事故や自然災害が発生した場合、報道機関は被害者と危険にさらされている被災者に対する緊急支援が『知る権利』に優先することに留意しなければならない」

「被害者は身元に関して特別に守られる権利を持っています。一般的に被害者の身元に関して知ることは事故の発生、災害や犯罪の状況を理解するのに役に立ちません」

「被害者や家族、親族、権限を与えられたその他の人の同意がある場合か、被害者が公人である場合にのみ、被害者の名前と写真を報道することが許されます」

ルールはもっとあるが「後略」としておく。ともかく報道の「知る権利」が制限されるケースが具体的に列挙されている。 

*

やはり日本社会でも 上のイギリスが既に採用しているように

メディアの過剰な取材にさらされた場合はIPSOに通報すれば、IPSOは当事者を守るためメディアに対して「停止通告」を発することができます。

過度な取材の対象となった個人による人権擁護の申請に応じてメディア企業に取材の禁止を命令できる余地を設けておくことは日本の民主主義にとって何もマイナスにはならないだろう。

*

イギリス社会より日本社会の方がより民主主義的であるというザレ言を口にする人はいないはずだ。また、人権擁護のために取材制限を行えるイギリスの方が「報道の自由」が制限されていると主張する人もいないはずだ。

実際、報道の自由ランキングにおいて、日本は2023年に多少上昇したと言っても世界で68位。台湾の35位、韓国の47位よりずっと下である。ましてイギリスの26位とは比べるべくもない。

日本のメディア企業が言う「報道の自由」は、弱者である一人ゝの個人に対して行使される自由に過ぎない。

相手が、日本政府や警察・検察・最高裁、ジャニーズ事務所、旧・統一教会になると、決して報道の自由が行使されることはなかった。

本年一年で明らかになった事実は

個人は最も弱く、マスコミは個人より強く、日本国や(スポンサー)企業はそれよりも更に強い権力をもつ

日本社会を支配しているそんな《力の序列》である。人権侵害が蔓延するのは、序列で認められている力が社会的権威にもなって働き、個人が素のままでは決して尊重されないという序列観が日本人で共有されているからだろう。

確かにすべての個人は平等であるが、個人を超える権威が日本社会には多々ある。個人の人権は実のところ序列が上位にある権威に立ち向かう程には尊重されない……日本社会は歴史を通してずっとそんな階層構造であったのかもしれない。

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国や政府、会社や団体など全ての組織は生きている人間が考えて創った擬制的存在で、自然に存在するものではない。その擬制的存在が制度として継承され、定着し、権威になるに伴い、生きているリアリティである一人一人の個人を下位に置き、支配し始める。生きている人間は変えることすらできなくなる。

いずれこの日本では、AI(=人工知能)までも権威性を帯び、日本人を支配し始めるだろう。バカといえばバカとも思えるが、独立を嫌う日本人には確かにそんな情けない所がある。

哀しく厳しい現実である。