2022年7月31日日曜日

コロナ第7波: 政府は一体どうするつもりなンでしょうネ?

加筆:2022-08-01、2022‐08‐03

2019年末近くに登場したCovid-19ウイルスを知らない人は世界にもう一人もいない程の馴染みになった。文字通りの《馴染み》である。

「馴染み」から「順応」、「順応」から「共存」へは生存のためには決まりきったルーティンだ。この理屈に抵抗してみても矛盾が表面化するだけだ。これが本来のロジックなのだろう。

インフルエンザもそんな軌跡をたどって今では馴染みの感染症になった。つまり、勘所は「慣れた」という感覚をいつ持てるのだろう、という点だけだ。


小生の学生時代を思い出そうとしても、毎年のインフルエンザ流行についてはスッカリ忘れてしまっている。ただ、大雑把な目安で1シーズンに1千万人が罹患して、1万人が死亡する、大体そんな目安だったと記憶している。

それを確認しようとネットを検索してみると(ここが情報化社会の利点だ)、以下の図が得られた。


URL:https://honkawa2.sakura.ne.jp/1955.html

インフルエンザを死因とする死亡者数データは確定した数値が得られ難く、毎年の超過死亡数から推定するしかないわけで、その推定方法によって結果は異なるものだ。それでも、マア、上の図を見ながら感じる所をメモっておきたい。

まずインフル死亡者数1万人というのは大仰で、高度成長時代であっても多い時に7~8千人というオーダーである。その後は大きく低下したが、2000年に入って以降、死亡者数は再び増え始め、最近年は3千人程度で推移していた。

ずっと以前にはなかった特効薬が現在はあるとはいうものの、例えば『タミフル』が本当に特効薬という名に値するかどうか、色々意見はあるようだ。実際、死亡者数は最近になって増加してきているが、これは多分、高齢化の進行によるものだろう。

いずれにしても、日本人の10人に1人はシーズンが来るとインフルエンザに罹って不思議ではなかった。小生も学生だった頃にはインフルで病院に行ったものだが、投与されるのは解熱剤と雑菌に感染しないための抗生物質だけだった — それでも大いに安心したものだ。マア、後知恵だが薬の効能としては、寧ろ『麻黄湯』、『銀翹散』などの漢方薬で十分だというのが、薬学的な説明なのだろうが、それでも余病を併発しやすいアレルギー体質である小生としては予防的な抗生物質には信頼を置いていたものだ。現在は、抗ウイルス作用のある『板藍茶(=板藍根)』を日常的に愛飲しているので、この10年程は風邪にもインフルエンザにも罹ったことがない。

要するに、特効薬がなくても、やれることはあるし、投与できる薬はある。


いまコロナ第7波というので世間は浮足立っている。

例えば<インフルエンザ>でブログ内検索をかけると、例えばこんな投稿がかかってくる:

確かに2019年末に確認され世界に拡散した新型コロナウイルスによる混乱は、程度の見方に違いがあるにせよ「ブラックスワン」、ある意味で「アノマリー」とも言える異常変動であった。それが、既に地球上に拡散し、定着し、今後の新型コロナ感染はウイルス側の変異と人類側の免疫適応とのバランスがとれた定常的な進化プロセスに収束していくだろう、という予測である。

日本人の感性であれば上の引用のうち

集団免疫力が高まるにつれ、死亡者数はいずれ大きく減少するだろうと同氏は言う。その代償として、コロナに最も感染しやすい人々の間で病気や死亡が増える公算が大きい。

という「言葉」には、それなりの社会的反発があるだろうし、世間の反発を怖れる日本国内のマスコミは、決してこんな表現はしない、もっとマイルドな文章で「一部の識者にはこんな見方をする向きもある」などという言い方をするはずだ。日本は何事も人の心を忖度する「ものも言いよう」のお国柄である。

とはいえ、小生は『アメリカ人ならこんな考え方をするだろうネエ』とも思った。


上に引用したのは、Wall Street Journalの2021 年 12 月 24 日付け記事に感想を述べたものだ。

中国のように<ゼロ・コロナ>の基本戦略を当初方針通りにどこまでも徹底するか、西洋のように<コロナとの共存>に舵を切るか。その中間の道を選んできた日本は、今に至ってから「さてどうしたものか?」と、道に迷っているようだ。情けないナア・・・

社会的合意に到達できないでいる日本の悩みは深い、というところか。

*

実は、《社会的合意》を文字通りに実現しようとすれば、言うは易く、行うは難し、である。

民主主義社会で実現可能であるのは《相対的多数の合意》に過ぎない。それを社会的合意として擬制できるのは、あらかじめ整備された法に基づいて議決するという《手続き》によるからである。

たとえ共産党支持者であり、共産党が国会で反対した法案であるにもかかわらず、いったん可決された法律には日本国民として従う義務があるのは、そのためである。

戦前期・日本のように総理大臣の任命と国会の多数党とが必ずしも連動しなくともよい制度の下では、内閣が求める法律や予算案を可決できず、政治的な不安定性を解消できない事態もあったわけだが、現在は議院内閣制である。内閣は多数党が編成する。故に、必要なことは国会で議決できる理屈だ。

にも拘わらず、日本全体として何か漂流している感覚が蔓延しているとすれば、国会が意思決定するに至らない。与党が多数党としての統治責任を果たそうとしていない。その理由を推しはかると、政権与党が相対的多数としての意思を貫こうとすれば、その議会運営振りに国民が反発して、次の選挙で敗北するかもしれない、と。そんな心配が先立って、多数党が少数党に遠慮する。そんな憶測もあったりするわけだ。だとすれば、一見筋が通っているように見えるが、まったく滑稽で奇妙な話であろう。

多数党が、議会で多数を占めている事実に基づいて、政党の目的を達成しようと努力しないのであれば、そもそも議会を中心にした民主主義が機能するはずはない。

行政、立法を含めて、「政治」への責任は、最終的には、時の政権与党が集団として負う。野党に責任はない。

世間では国会が紛糾して審議が遅れるとき、野党の対応を批判する御仁が多くいたりするが、反対だ。政策の企画、審議、実施は与党に完全な責任がある。野党には全く責任がない。野党が行うべき仕事は政策の評価だ。でなければ、「政権交代とは一体なんですか?」と聞きたいくらいだ。

これが今日の結論のようなものだが、7月最後の投稿だ。もう少し思いついたことをメモっておこう。

*

少なくない人たちは

投票率が50%か、60%である状態で多数を占めても、その結果は真の多数とは言えない

と、こんなコメントを加えることだろう。極端な物言いだと「投票率50%で半数の支持を得ても、全体の中では25%の支持を得たに過ぎない」と。ホントにネエ・・・阿呆じゃないか、と。未投票の半数は全員が不支持に回ると思い込んでオル。統計学(に限ったわけではないが)の知識から自由な御仁は(文字通り)自由自在に屁理屈を展開できるものだ。古代社会を支配した迷信と同じだ。

出口調査の結果と最終結果との間に大きな差は生じない。逆に言えば、何分の一かの票を集計するだけで全体の結果は概ね分かるということだ。極端な事をいえば、投票者を有権者という母集団からランダムに抽出して投票率をせいぜい1%に抑えても、結果の信頼度はそれほど大きく揺らぐものではない。投票率がたとえ90%を超えるとしても、政党別当選者数は実際の投票率で得られた結果と大きくは違わないことを確認するだけだろう。選挙の投票率が低いという問題は、世論とかけ離れた結果になることではなく、民主主義の土台である参政権行使への意志が弱まってきているということにある。

投票率の低下はむしろ今日の議会運営が招いた最終的な結果だという見方もある。選挙において多数を占めても少数野党への過剰な配慮を常に求められる。多数党の目指す政策を(なぜか?)実現できない。であれば、選挙結果とは関係なく、社会全体の最大公約数的な政策だけが進められる。どの党が勝とうが、多数を占めようが、選挙の前後でほぼ何も変更されない。となれば、投票しても結果は同じだ。だから、しない。確かに一つのロジックだ。もちろん別の見方もある。与党の政策には反対だが、野党が弱すぎる。だから最初から投票しようとはせず、諦める。投票率が上がれば野党の得票率は上がっていたはずだ。本当は与党の議席数はもっと少ないはずだ。こんな主張もあるかも。これもロジックだ。何だか白紙委任状を出して総会を欠席しておきながら総会決議にクレームをつけるマンション居住者に似ている面もある。まだ問題はあるという指摘もあるだろうがキリがないので止める。

なにが真相であるか分からない。

ともかく、こんな風では政策方針を変えるツールであるはずの選挙制度は機能しない。世界のどの国においても、選挙は戦いの場である。それは勝った側が目指す政策を実現できるからだ。こういう情況になれば、日本の投票率も必ず上がるはずである。

というより、たった1日の選挙の結果に基づいて、勝った側の政党が負けた側の反対を押さえて自党の政治目標を追求する状況を許してよいのか?日本人の心の奥底にはこんなホンネが見え隠れしていると感じるのは、小生だけだろうか?だとすると、ホンネのところでは、日本人は「選挙不信」、「与党不信」、「反・多数派支配」の感情を隠しもっている ・・・。まさかネ、とは思う。が、人様の気持ちだから、分かりかねるところがある。マ、そんなところだ。

*

議会の為すべき職務は、必要な法を立法する。法改正が必要な法はサッサと改正する。当たり前のことだ。行政府に「うまくやってくれ」では法治主義に反する。

議会の与党は、自党の代表者である総理と内閣に圧力を行使するべきなのである。仮に、内閣が自党とは異なる官僚組織の主張に従っているとみられる場合は、政党が中央官庁の意志を押さえ込まなければならない。民主主義の本質は、そうすることが制度上できる、という点にある。これ以外に民主主義の強みが何かあるのだろうか?

《政治主導》というのはこういうことだろう。国内のマスメディアも、内閣の無策を非難するよりは、議会の怠慢を非難する方が本筋だろう。調べてみればいい。G7諸国の国会の中では、日本の国会は最も仕事をしていない立法府になっているはずだ。人的資質のレベルが平均的に低いのだろう。候補者選定の党内手続きに問題があるに違いない。マスメディアは、A議員やB議員など個別議員に露見した金銭スキャンダルや、もっと下らない失言の類を、芸能ゴシップよろしく指弾するよりは、日本の<政党>というものに対して、もっと強い関心をもたなければならない。そう思うのだ、な。マ、マスメディア社内にも人材の多様性があるはずなので、解剖医のように政党内部に切り込んでいくような蛮勇(?)をもったメディア企業が日本にあるのかどうか、小生にはそこまでは分からないが。


ヤレヤレ、今日はコロナから政治主導とその泥船的様相に内容が飛躍した。まとまりのない投稿になってしまった。




2022年7月26日火曜日

ホンノ一言: 国内大手メディア企業のジャーナリズム失格が伝わってくる言葉の一例

加筆:2022-07-27


小生にとって《現代日本メディア企業批判》は何だか話題が枯れた時のキラー・トピックになってきた感がある。今日もそんな話題で・・・


日本国内の(ちゃんとした?)大手マスメディア企業は、もうずっと以前から《報道精神》、というか《ジャーナリスト・スピリット》というか、まあアメリカで言えばピュリッツァー賞にも値するような報道を長時間(かつリスクの伴う)取材に基づいて敢然と行う、こんな意志などはとっくに捨てているという事実は、国内メディアなどはもうどうでもよいと見切りをつけた小生にもハッキリ感じられてくる今日この頃である。

新聞、出版物というより政府から事業認可を受けている大手電波メディアに当てはまるのだが、最近もまた報道現場の基本姿勢がよく表れる言葉を耳にする:

いまの法制度では・・・とならざるを得ないわけです。

いや、マア、腹が立って仕方がない。

何を言いたいのか、と。

問題意識があるならば、「今の法制度がこれで良いかどうか考えるべき時です」と。率直にそう伝えればいい。いまの法制度の問題点を具体的に指摘すればよい。国会の怠慢を批判すればよい。New York TimesやGuardianのようなリベラルの証になるだろう。反対に、今の法制度を良しとするなら、「法の裁きとして受け止めるべきでしょう」と。ズバリ、そう伝えればよい。これならFox Newsのような保守系として筋が通る。


何だか21世紀になった頃から接客現場、営業現場で流行り始めた

取りあえず・・・させて頂きますネ

という言い回しと同じ価値観が共有されているではないか ― フランクに『・・・しておきます』と言えば済むことだ、と感じるのが世代ギャップなのだろう。学校のクラスで宿題をやってきたかどうかを聞かれた生徒が『宿題、させて頂くつもりでしたが、忙しさの余り休ませていただきました』なんて言えばギャグとしてもブラック過ぎる。シンプルに『テレビをみたのでやって来ませんでした』と言わなければ意味が通じない。但し、こんな価値観というか、感性が共有されている空間は日本という狭く限られた範囲ではある。イヤ、かなり昔、ある時代劇で『アヤツ、殺しますか』と言う所を『アヤツ、死なせますか』と言ったセリフには笑ったものだ。まさかふざけ半分のコミカルな台詞が大真面目にビジネス現場で使われるようになるとはネエ・・・


マ、ともかく、メディアは、伝えるべき事実を取捨選択している段階で既に暗黙のうちに一定の価値観を主張している。にも拘らず、報道する言葉の表現においては、自社の立場を曖昧にしておくというのは、あまりに不誠実だ。

こんな鳥だか獣だか分からない 蝙蝠 ( こうもり ) だか 鵺 ( ぬえ ) のような報道姿勢は、不愉快というよりも、気持ちが悪くって仕方がない。

こんな気色の悪い報道姿勢は(それほど事情に精通しているわけではないが)欧米、というか海外では稀なのじゃないだろうか ― そもそも自社の立場を曖昧にするという戦術で損にこそなれ得にはならないだろう。


経営の勘所は《選択と集中》とよく言われるが、これは商品メニュー、つまり製品戦略について言っているのではない。潜在顧客の全てに売ろうとするのではなく、自社製品を高く評価する顧客層を選んで集中せよ、ということだ。裏からいえば、その他の顧客は切り捨てよ、ということである。「視聴者はすべて神様です」などと考えているようでは、早晩、日本の民間放送業界は絶滅するであろう。全国民向けのNHKが存在すれば十分だ。

視聴率をメイン・インディケーターに置く限り、『選択と集中』などはスポンサーの手前、夢であることは分かっているが・・・というか、スポンサーを選び、コンテンツを絞るということか・・・やはり、広告媒体ビジネスである地上デジタルとショッピング・エクスペリエンスを提供するデパートと、基本的にはオワコン化しつつあるのだろう。

日本国内の大手マスメディア企業が、(ごく一部を除いて)軽んじられ、見限られつつある流れは、今後ますます加速するのではないかと予想している。

2022年7月24日日曜日

断想: 演繹的論理と帰納的論理が対立する時は

加筆:2022-07-24、2022-07-25


 疑いを入れぬ大前提から出発して、

これが正しいならば、こう結論できる。であれば、・・・

と思考を進めるのが演繹的論理だ。数学や論理学はその典型であるし、アリストテレスが唯一の信頼できる思考形式として挙げた<三段論法>もそうである。アリストテレスの論理学は、中世のキリスト教神学を支えた基盤である。

人間はすべて死ぬ。ソクラテスは人間だ。故に、ソクラテスは死ぬ。

例えば、こんな議論は三段論法の一つの例になるが、その他にも色々な型がある。アリストテレスは、全ての真である命題は最終的に三段論法に帰着すると述べている(そうだ)が、ラッセルはこれは間違いであると指摘している。

もし観察される事実が大前提から結論される状態と違うなら、それは<あるべき状態>へ向かう過程にあるからだ、と説明されるわけで、最終的には、ありとあらゆるものは<あるべき状態(=自然な状態)>へと向かいそこで静止する。こんな世界観になる。

大前提から出発する演繹的論理で世界を観察するなら、肝心要の大前提(=公理)に何がしかの価値観が織り込まれるのは、自然なことである。たとえばその価値観が<善>であったりする。故に、演繹的論理で議論する時は、議論がどことなく倫理的になる。ソクラテス、プラトン以来の古代ギリシア哲学が全体として『世界は善に向かっている』という風な<目的論的な>論調になるのは、全体系が演繹的であるためである。


これに対する帰納的論理は演繹的論理とは逆である。より多くの観察事実をより簡潔に、より正しく、説明できる前提を経験的に推測するという議論をする。文字通り演繹的議論とは逆の議論になる。例えば近代科学の一大成果である「ケプラーの法則」や「ニュートン力学」は、何の大前提も置かれないまま、ただ観察された天文データを正確に、簡潔に説明できる力学モデルを<発見>したに過ぎない。このように、帰納的議論によって自然現象や社会現象を理解しようとすれば、全体としては目的論的にはならず、<機械論的>になる。マルクス流の「必然的なプロレタリアート革命」は社会の矛盾を解決する過程から生まれる経済発展段階から導かれる結論である。演繹的議論と異なるのは、何らかの価値観が大前提とはならない点であり、データ分析に倫理的要素が混入しない。


マルクス(というよりエンゲルス)自身が「科学的社会主義」と自身のアプローチを特徴づけているように、マルクス経済学においては資本主義から社会主義への移行はソーシャル・メカニズムの必然的結果である。『それが善い』とか、『資本主義は本質的に不正義だから社会主義社会の到来は当然の帰結である』という議論の仕方は、最も非マルクス的な思考なのである。同じように、不平等よりは平等の方が正しく、善であるのに決まっているから、世界は平等に向かって進んでいくはずであるし、それが正しいのだ、というか進んでいかなければならない、と。こんな議論は、プラトンやアリストテレスのような古代ギリシアの哲学者が考えるだろう思考であって、近代社会をもたらした科学的発想とは逆転した議論である。マ、簡単に言えば《非科学的》である。


1980年代初め以降、所得分配の不平等化が進んできたのは、世界共通の現象である。

それは何故か?

と、議論するのが科学であり、例えば

新自由主義による政策が多くの国で実施されたからである

こうした事実が共通して認められるなら、次に

なぜ新自由主義的な政策が実施されたのか?

と、どこまでも結果から原因にさかのぼる。ここに帰納的議論の特徴がある。観察される結果の原因を観察可能な特定因子に求める。そこには一切の価値観もイデオロギーも混在しない。故に形而上学にはならない。科学の基礎に帰納的論理があるのはこういう意味である。最終的に「所得分配過程を支配する長期的変動法則」のような規則性が「発見」されるなら、社会科学としては大きな成果になるわけだ。演繹的に議論するとこうはならない。


少なくとも、足元で世界的スローガンになっている《共有された価値観》から出発して、

この価値観から出発するなら、世界はこうなるはずであり、寧ろこうならなければならない

と議論するのは、2400年ほども昔のペロポネソス戦争を始めたアテネ市民の論理と大差はない。更に、北方の蛮族であったマケドニア王国の王であるアレクサンドロスに征服される直前のアテネ国家の価値観外交を連想してしまう ― どちらにおいても、アテネの価値観は現実には有効でなかった。アテネの民主主義は政治的パワーとしては機能せず、現実には敗北を重ね、政治的には没落した。

が、結果としてはアレクサンドロス死後の広大なヘレニズム世界において、アテネは政治ではなく文化によって諸国民を魅惑するという想定外のポジションにつくことができた。アテネの民主主義が後世代から評価されたのではなく、特に哲学という文化的精華に人々が魅惑され、アテネは存続した。いわばアテネにとって結果オーライであった。そして、そのアテネで勉学した哲学者だが、プラトンは全体主義、アリストテレスは君主制の支持者である。ギリシア文化を吸収した古代ローマも共和制末期の混乱から帝政へと移行し、それ以後のローマ帝国は時代を経るごとにより一層皇帝独裁の度合いを高めた。それが歴史の歩みである。

小生が古代社会の興亡に興味を感じるのは、初期状態から終末期までが完結した一つの時代を構成しているからだ。そこから伝わってくる印象は、世界はなにか善い時代に向かって歩んでいるという目的論的歴史観は観察事実とは違うということだ。


ペロポネソス戦争は、経済的利害の対立も背景にあったが、やはり民主主義と非民主主義の戦いでもあった。価値観の対立がひき起こした戦争であったのはそうだと思う。それより50年前にあったペルシア戦争では全ギリシア国家が団結して敵国・ペルシアと戦ったが、それを支えたのは<民族>という価値観だった。確かに価値観は、戦争をさえひき起こす程の影響力をもつが、価値観は要するに価値観でしかなく、人間がイメージする価値の通りに世界が動いてくれる因果関係はない。それはアテネの失敗からも分かることである。大体、第二次大戦で民主主義的な連合軍が勝利したのは、民主主義であったからではなく、民主主義的なアメリカの工業力が世界で隔絶しており、加えて自給自足を超えるほどの資源と農業生産力に恵まれていたからである。そしてアメリカが民主主義であった理由は、英国の植民地からスタートしたことと、国土が広大で中央集権的な政府が形成されていなかったなど、主に歴史的な偶然によると観るのが自然だろう。

歴史的な偶然を歴史的な必然と錯覚すると災難をもたらすものだ。

自然にせよ、社会にせよ、因果関係によってメカニックに理解するときに、迷っている私たちは適切な行動を選べるというのが本筋のロジックであって、価値観に基づいて予測をしたり、そんな予測に基づいて行動プランを立てるとすれば、それはとても愚かである。

どうしてもそう思いますがネエ・・・同じ主旨のことは何度も投稿しているが。

2022年7月22日金曜日

天動説 vs 地動説の戦いは形を変えていまもある

中世の暗闇から脱出できたのは(自然)科学の誕生のお陰であるのは誰もが知っている。その中でも《天動説 vs 地動説》の激論は小生のお気に入りで、このブログでも何度か話題にしている。マスメディアと絡ませればどんな世相になるか想像できるというものだ。残念ながらコペルニクスやガリレオが生きた時代に拡声器のようなマスコミはなかった。

今日においては、全ての運動は相対的なものだから天動説と地動説とで本質的な中身の違いなどありようもなく、要は地動説に基づいてデータを解釈する方が、遥かに簡単である。そういうことに落ち着いているのだが、地動説が信仰を揺るがすトンデモナイ邪説であった時代は、たしかに現実にあったのだ。

愚かで、何の足しにもならない争いを最終的に消失させるのは、ただ人間の知識の蓄積だけが為しえることだ。逆に言えば、争いの種になる知識は本当の知識ではない。単なる思い込みである。こう考えるのが理屈というものだろう。


マスメディアというのは、誰かに聴いてほしい、読んでほしいというのが唯一の動機であって、何が真理であるとか、何が重要であるとか、正しい認識を形成するという目的とは最初から無縁なのだというのは、一貫して書いて来た点だ。たとえばずっと以前の投稿だが

しかし、まあ、ジャーナリズムというのはこんなものなのだろう。

いま天動説と地動説とが論争したとして、天動説を唱える学者が何百年ぶりかで現れたとする。

記者: 科学的には地動説が確立されているわけですが、敢えていま天動説が正しいと主張されるのは何故ですか?

学者: 月面に人間が着陸する時代になりましたが、地球は動いて見えましたか? 地球は一定不変の位置に止まっていて、月が動いているように見えませんでしたか?

記者: やはり地球は止まっていると、動いているのは太陽や月の方だと・・・

学者: 明らかな事実だと考えています。

記者: 中世ヨーロッパで激論になった天動説と地動説の対立ですが、どうやらまだ決着はついていないようです。どんな結論になるのでしょうか!?歴史的論争の行方が気になります。

こんな「報道」のあとに

政府高官は「地動説が唯一の真理であるとは言えない」、本日の記者会見でそう発言しました。

こんな話題をワイドショーで放送すれば、事の詳細を知らない世間では『理科の教科書に書いてあったことは間違いだったんだ』などと言って、大騒ぎをすることだろう。科学オンチからイデオロギー主導社会へはほんの一歩である。これが歴史上何度もあった文明の退化である。怖い、怖い……。


情報化社会であるはずのネット社会でも同じことが(やっぱり)起きている:


URL: https://news.livedoor.com/article/detail/22543205/
Source: livedoor NEWS, 2022年7月21日 21時0分

人間社会って、いつまでたっても変わらないんだネエ

これが感想。


もちろんトンチ科学クイズのようなものでエンターテインメントであるのは分かっている。が、思わず「エッ、そうなの?」と言う人も多いかも ― 一辺の長さが1の正方形に内接する円の円周と正方形の外周の長さを考えれば、直ぐにおかしいと分かる。

数学では一度証明された定理と矛盾した命題はすべて偽に決まっているが(でなければ「数学」にならない)、これが政治経済の話しになると、分からない。

二つある仮説のうち一方を「正しい」、他方を「邪説」にしたいと思う人間心理は、永遠に変わらないだろう。どちらも真ではありえないと疑う「懐疑主義」に徹するのは、これはこれで疲れるものである。

2022年7月19日火曜日

ホンノ一言: 上げても問題あり、下げても問題あり、では専門家とは言えません

 日本経済新聞と言えば経済専門紙だ。こんな記事がある:

世界の債券価値が急減している。今年1~6月の減少額は17兆ドル(約2300兆円)と、6カ月の期間では遡れる1990年以降で最大となった。各国の金融引き締めで債券利回りが急上昇し、利回りと反対に動く価格は急落した。債券市場が収縮し、債務に依存してきた世界経済が曲がり角に差し掛かっている。下落が続けば、国債を多く持つ金融機関の経営リスクも高まる。

URL: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB07B490X00C22A7000000/
Source:日本経済新聞、2022年7月19日 1:30 (2022年7月19日 5:07更新)

周知のように、債券の市場価格は、ザックリと言えば $$ 市場価格 \,=\, \frac{利息}{金利} $$

で決まる。

しかし、カミさんに『金利が上がれば自動的に債券価格は下がるンだよ。債券価格が下がりゃあ、株から債券にカネが流れるからネ、株価も下がる。これはもうネ、自動的にそうなるンだよ』と話しても、どうにも腑に落ちない様子だ。経済が分かるか分からないかは、金利と債券価格、株価の連動性が体感として分かっているかどうかで判別できるのが、面白い所だ。

上の式は、ひょっとすると

$$ 市場価格 \times 金利 \,=\, 利息 $$

と書く方が分かりやすいかもしれない。

毎年得られる利息は満期まで固定されているから右辺は一定だ。となると、左辺の金利が中央銀行の市場金利操作によって上げられれば、市場価格は下がらなければ両辺がバランスしない。市場価格が下がることによって、定額の利息と利回りとのバランスがとれるわけだ。

なので、アメリカのFRBが金利引き上げを行えば、債券価格は自動的に下がるし、株価下落にも波及する結果になる。

ということは、上げるのと反対で低金利政策をとれば、債券価格は上がり、株価も上がる結果になる。株価が上がれば株を多く保有している富裕層の資産価値が上昇し、資産分配の格差拡大をもたらす。債券価格も上がるので銀行も困らない。これは金利を下げることの自動的結果である。だから、それを格差拡大だと非難するのは的外れだと、「世間の非難」を批判したのはクルーグマンだった。実際、低金利にすることで金利収入は低下するので、資産分配ではなく、所得分配において格差は縮小する方向へ向かうはずだ。今は、金利を引き上げている。だから債券、株価は下がっている。しかし、金利収入は増えるのである。住宅ローン債務者の金利負担も増える。資産分配格差は改善されている理屈だが、経済状況としてどちらが善いか、判断はそれほど難しくはない。有資産階層でなければ金利は高いより低い方を喜ぶ理屈だ。

上の日経記事は、金利が上昇し債券価格が低下することで、債券を保有している金融機関にキャピタルロスが発生することを心配するものだ -- 日本国内では金利引き上げ路線はまだ選ばれていないのだが。しかし、金利が上がれば債券一般、株価一般を新規購入する資産家の投資利回りは上がる。新規投資を考えている人にとっては金利上昇期は投資のチャンスである。しかし、このチャンスは投資するべき元本を持っている資産家にとってのチャンスである。反対に事業を展開している企業にとっては金利負担は重しとなる。従業員にとっても決して嬉しくはないはずだ。とはいえ、金利が上がれば金融資産の評価額は低下する。資産家の資産額が低下するので資産分配格差は縮小する。株価上昇は格差拡大の象徴だと非難していた人は喜ばなければならない理屈だ。

金利を下げて株価が上昇すると「富裕層優遇」だと言って格差拡大を非難し、金利を上げれば上げればで、その自動的結果を「問題あり」と批判する。一体どちらがイイんですか、と。つまるところ、その時点の経済状況によって、適切な政策目標が決まる。目標が決まって、上げるか、下げるかが決まる。今はインフレ心理の定着を抑制する。それによってインフレ継続を防止する。だから金利を上げているわけだ。上げれば必然的にこうなるという結果を心配してみても仕方がないだろう。

2022年7月17日日曜日

ホンノ一言: 「殉職」による2階級特進を連想しました

安倍元首相の「国葬」について、結構、異論がある様子で、こんな状況では海外から弔問に来日する方々も日本国内の一方の勢力に加担するようで何だか気が引ける、もしこんな居心地の悪さを感じさせてしまうとすれば、どこか葬式当日に衆人環視の中で家庭内不和を露呈する遺族のようでもあって、実に決まりが悪いというものだ。

国葬だろうと、国民葬だろうと、内閣・自民党合同葬だろうと、小生にはどうでもよい。『あっしには関わりないことでござんす』と思うが、ほとんどの人にとっても、事情は同じじゃあないか。盛んに発言している人は、要するに、野党議員か何かで反安倍関係者であるか、でなければ暇で、時間がタップリあって、何かの思い込みがあり、発信しないではおられないのだろう、と。そんな風に憶測しているのだが、だから悪いってことではありませヌ。職務は職務で、信条は信条で、忠実に為さればよろしい。幕末、尊皇攘夷に燃えた志士たちも、その時はその時で、マジで「攘夷」と叫んでいた。もし長生きしていれば、めでたく倒幕を成し遂げたあと、正反対の方向に国が進んでいく非条理な現実を見ざるを得なかった。非命に斃れた人こそ夢の中で死ぬことが出来た。その意味では寧ろ幸福であったかもしれませヌ。

大村益次郎が上野の山に立て籠る彰義隊を掃討するため砲撃を加える様子をよそに、ウェーランド(Francis Wayland)の『経済入門(The Elements of Political Economy)』をテキストに授業を止めなかった福沢諭吉は、確かに一つの見識ではあった。

為すべき事を為すという選択にも、その人の感性、志は反映されるものだ

ま、そんなところだろう。


「安倍首相」でブログ内検索をかけると、長期間にわたって内閣を率いたからか、夥しい投稿がかかってくる。その中でも、まだ第2次政権初期の頃であったが、その頃の投稿で記した感想はずっと絵画の下塗りのように主観的な印象を彩り続けた。


明治維新以来の歴代の国葬、国民葬で送られた人たちをWikipediaでみると、元首相はやはり「国葬」というより、「国家、もしくは国家機関が関与した葬儀」であるほうが、ピッタリと来るように感じる。ではあるが、元首相は選挙遊説中に凶弾に斃れたいわば「殉職」に該当する。のであれば、二階級特進があっても、おかしな処遇ではない。理解は出来る。そんな人も多いのではないだろうか。

まあ、そうであっても、現職総理として「殉職」した原敬、浜口雄幸、犬養毅といった人たちは「国葬」でも、「国民葬」でも送られていない。どの人も、在任期間は長いとは言えないが、信念のある歴史に残る名宰相であった。殉職ではないものの「大正政変」で志半ばで急逝した戦前の大宰相・桂太郎ですら、国葬・国民葬いずれでもない。更にあげれば、普通選挙導入を決断した憲政会内閣の総理・加藤高明は総理在職中に病死したが、やはり国葬・国民葬から外れている。原敬と加藤高明の二人を外せば、近代日本のデモクラシーは語れないはずだ。それでも外れている。やはり与野党対立が激しかったという時代背景が見送り方にも影響するのであろうか。

とすれば、今のように元首相をどう見送るかで、異論・反論が出始めているのも、これはこれで自然な成り行きである。

色々と感想を書いたが、結局、どれほど大勢の人が別れを惜しんで集まるか。単なる「国葬」であるか、「国民葬」であるか、何であるかは、形式ではなく、結果としての実質で決まる。これに尽きるのだろう。

ただ冷静に事の進展を観ていれば十分ではないだろうか。よほどの政治好きでなければ利害得失には縁のない話だ。面白い資料がネットにある。

簡単にいえば、

これが岸田首相の政治のやり方である

異論を出すなら反主流派、賛同するなら主流派。そういうことだと思う。マ、言葉の意味だけから考えれば、「国葬」の意志決定ができるのは国家元首以外にはないはずだ、とも思われるのだが、そこはコロナ対応でも明らかになったように、法的筋論には緩い日本ならではの<融通がきく>という長所でもあるわけで。全ての性質についてアリストテレスが<中庸の徳>として強調したように、ルーズでイイ加減であるという短所の裏面にはフレキシブルであるという長所がある。



2022年7月14日木曜日

ホンノ一言: 不良債権と福一原発事故、10年ほどが経って一つの節目を迎えたか

長期間ブログを書き続けていると、ずっと以前に書いたことを撤回せざるを得なくなる場合も出てくる。先日もそんな例が一つ出たが、また一つ撤回することになった。

日経でも報道しているが、東電株主代表訴訟で地裁判決が出た:

東京電力福島第1原子力発電所事故の株主代表訴訟で、東京地裁判決は13日、東電旧経営陣に13兆円余りの賠償を命じた。原発事故の責任追及を巡る様々な民事裁判が起きる中、国の責任を否定し、東電側に全責任を負わせる司法判断が確立しつつある。巨額の賠償命令は全額の支払いが現実的に困難といえ、事業者が責任を負う原子力損害賠償法(原賠法)のあり方に議論が及ぶ可能性もある。

Source: 日本経済新聞、2022年7月13日 21:41 (2022年7月14日 5:21更新)

経営者がいったん経営判断を誤れば、損賠賠償額は少し以前の何10億円から遂に何兆円というオーダーに増えてしまったわけだ。

まだ一審であるからどう確定するかは不透明だ。が、どうやら今回の判決を書いた裁判官は司法界の中でも一流の人材であるようでもあり、判決文のレベルを考慮すると今後の控訴審(そして上告審)で一審判決が根本的に覆る可能性は低いのではないか。国民一般の視線を考慮しても、裁判所は一審判決を基本とするのではないか。そんな予想を勝手にしているところだ。

ずっと以前になるが、こんな投稿をしたことがある:

福島第一原発事故とバブル処理と、どちらが大きな問題であるか。意味のない問いかけだが、どちらも日常の経営活動で恒常的に発生するマネジメントの範囲には入らない。どんな大事件にもあることだが、ちょっとしたチョンボや思い込みが重大な結果を招いてしまった、そんな側面も共通しているようだ。どちらも特異かつ例外的なスケールをもつ。経済史年表にも記載されることは間違いない大事件である。

それにしては、原発事故とその後の東電処理は外から見ていると「甘々の処分」でお茶を濁している、というイメージを拭きれない。

 確かにバブル期からバブル崩壊期にかけての金融機関の経営判断はその不健全ぶりを責めるに値するものがあった。そして、厳しい責任追及の中で自ら命を絶つ最高経営責任者もあった。上の投稿は、「それに比べて・・・」という主旨だった。

上の投稿で書いた内容は、今回の東電判決が出たいま、撤回しなければならなくなった。ずいぶん時間がかかったものだと言う人も多かろうが、不良債権の時も実際に不動産バブルに踊り巨額の不健全融資を続けていた1980年代後半から法の裁きを受ける90年代末まで時間的には足掛け10年がかかっている。

そろそろ福一原発事故も《裁きのとき》がやって来たということなのだろう。そう思いながらニュースを聴いていた。