それで、F30号を2枚張って、地塗りをしたところだ。一枚は茶系、もう一枚は緑系にした。間に合えば、市展にでも出すかなあ、と。3年連続だが、出す作品はだんだんと大きくなっている。その分、額縁代がかさむのが痛い。
岡鹿之助、雪の発電所、1956年
岡は、1898(明治31)年生まれだから、前衛派、野獣派で有名な佐伯祐三と同年の生まれである。佐伯は早熟であり、1928(昭和3)年にパリで客死したのだが、岡は1978(昭和53)年まで長命した。ただ岡は、同窓とはいえ親しく交流したのは佐伯祐三、荻須高徳らではなく、藤田嗣治の方であったようだ。大学を卒業してフランスに到着して、最初に下宿先でアトリエを構えたその家は、藤田が暮らしていた家であった由。
画風が全く違う。
佐伯祐三、ラ・クロッシュ、1927年
美術史や教科書には、佐伯が死の年に描いた「郵便配達夫」がよく掲載されている。しかし、彼の本分は、上のようなパリの下町の佇まい。その表現で格闘したのは<石と文字>。西洋を特徴付ける硬質の石、そこに佐伯は、形は西洋のアルファベットであるけれど、日本文字の感性で味付けをしている。
佐伯祐三、郵便配達夫、1928年
1860年代に、日本の浮世絵が西洋絵画に与えた影響は、強く深いものだった。その日本人が、欧州の油絵という素材で、油彩画を描く。日本人画家としてのアイデンティティを定めることは、自分の仕事の存在意義にもつながるわけで、そりゃすさまじく苦しいものであったはずだ。日本の文化の根を、欧州文化の伝統のどこと調和させ、根付かせることができるか?その提案を、ヨーロッパ人にするわけですから。
身も心ももたないなあ。西洋で育ったわけじゃありませんから。
このところ読んでいるのが、千住博の「NYアトリエ日記」。大正期に青春時代を送った佐伯に比べれば、そりゃまあ、悲壮感はなくなっているが、やはり日本人の感性を世界にどう発信していけばよいのか?同じような苦労を読み取るのは小生だけだろうか。
芸を、仕事にするのは、ホント、大変なことです。
とはいえ、知識よりも創造を上に置く、学問よりも芸術を上に置く、それがニーチェ以降に発展した現代哲学の<生>というテーマ。そのテーマに沿った大きな流れである。そうとも言われますので。
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