2011年7月10日日曜日

日曜日の話し(7/10)

ドイツ美術。馴染みが薄いですよね。ドイツとくれば音楽ですから。

敬虔なプロテスタント達は、カトリック諸国のようには彫刻・絵画に高い価値を置かなかった。そんな説明もあったりする。

ドイツ表現主義が立ち上がってきたのは、ドイツ帝国誕生後の19世紀後半。

カンディンスキーが青騎士を立ち上げたときの仲間の中ではマッケ(August Macke)がいい。

 Macke, Millner's Shop, 1913, Munchen Lenbachhaus所蔵

上の絵は、手元のPCのデスクトップにしばしば使っている。夏向きではないですけどね。所蔵されているレンバッハハウスは、カンディンスキーの教え子で、第2次大戦後まで生き抜いたガブリエレ・ミュンターが死去する前に、保管していた作品を寄贈したことで有名だ。青騎士の作品が散逸しなかったのは彼女のお陰だ。

カンディンスキーとミュンター。映画化されて当然の生涯でありますな。

下は1914年にマッケがクレー(Paul Klee)と一緒に旅行したチュニジアを描いたもの。

Macke, Markt in Algier, 1914

マッケはチュニジア旅行をした翌年、第一次世界大戦で戦死する。同じ青騎士の画家フランツ・マルクもそうだ。

下はチュニジア旅行に同行したクレーの作品。クレーは長生きをした。

Klee, Hammamet With Its Mosque, 1914

フランスでも1906年に死んだセザンヌの後、ピカソやら、マティスやらの後世代が続々と登場して、表現主導が時代の潮流となる。ドイツにはドイツの花が咲いていた。そんな感じがして、最近はますます一層好むようになってきている。

そういえば、フランス印象派が旗揚げした第1回印象派展は1874年。普仏戦争でフランスが敗北し、第3共和制政府が設けられたものの、首都パリはパリ・コミューンを結成して徹底抗戦。政府は、とうとう敵国ドイツの支援を得て、民衆へ発泡するという「血の一週間」を引き起こす。パリは屈服する。フランス印象派は、そんな中、戦塵おさまらぬ時代の申し子として活動したのだった。反アカデミズムの志が、現代美術に通じる道を切り開き、20世紀になって花開いた。

国難と文化の高まりの相関を感じずにはいられない。


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