日本だけではなかったのだなあ。そんな奇妙な仲間意識というか、同病相哀れむというか、そんな気持ちを日本人は感じているはずであり、マスメディアの欧州報道、アメリカ報道を読むにつけても、「ホント、難しいんだよなあ・・・」と割と優しい気持ちで記事を読んだりするわけである。
さてロイターによると
米下院が共和党の債務上限案を可決、合意なら1日にも最終採決(2011年 07月 30日 08:27 JST)
同法案は民主党が過半数議席を握る上院での否決が確実視されているものの、下院を通過したことで8月2日の期限までに超党派の合意が得られ、米国のデフォルト(債務不履行)が回避される可能性も出てきた。
同法案は債務上限を9000億ドル引き上げるもの。今後10年間に9170億ドルの歳出削減を行うことも盛り込まれている。
最終的にアメリカの財政がどの程度の緊縮財政になるかは不確定であるが、どちらにせよ今秋から相当の緊縮財政になっていくであろうことは確実である。この点の影響をどう見るかが何より大事ではないだろうか。
そもそもアメリカ国債やギリシア国債、イタリア国債が何故に国際的関心を呼ぶのだろうか?それはこれらの国の発行する債務証書がグローバルな広がりの中で保有されているからである。
資金循環の日米欧比較(日銀、2011年6月)
上の資料の4頁に掲載されている図の通り、日本国債を保有する外国人は全体の10%程度でしかない。それに対して、アメリカ国債は外国人比率が30%(数字は2011年3月末時点)。以前よりアメリカ国債の外国人比率、随分、下がったようであるが、まだまだ日本国債よりは世界に普及している。(注を追加7/31:縦軸目盛りにある数字はパーセントではなかった。比率は目で読みとってほしい)外国の証券に余裕資金を投資する以上、明記された金利を受け取り、定められた償還期日に元本が返済されると期待するのは当然であって、それが守られないのであれば、投資家はあらかじめ高いリスクプレミアムを求める理屈になる。ドイツの10年物国債の金利が3%程度であるのに対して、ギリシア国債には18%、ポルトガル国債が11%、アイルランド国債が12%の金利を求められるのは、リスク対応のためである(以上、ロイター6月15日による)。
アメリカ国債問題については、世界がアメリカに失望するという事態は一先ず回避できそうな案配になってきた ― 当たり前、とも言えようが。しかしアメリカという国家が被った傷跡も決して無視できる程のカスリ傷ではないようだ。
Dollar hegemony has been under threat for a long time now, but whatever the outcome of this latest political charade, it will come to be seen as a watershed moment when America finally lost the plot and condemned herself to lasting decline. Can a country that puts political bickering before the interests of economic and financial stability really be trusted with the world’s major reserve currency. I think not. The spell is broken. The age of the mighty dollar is over.
According to Winston Churchill, the US can in the end always be relied on to do the right thing, but only after all other possibilities have been exhausted. I wish we could be sure it was still true.
テレグラフはイギリス紙ではあるが、過ぎゆく時代への惜別感がほのかに伝わってくるではないか。確かに20世紀はアメリカの時代でありました。
もっとも、小生、ポスト・パックス・アメリカーナを考えるのは、まだ少し時期尚早ではないのかな、と。政府の金回りだけではなく、国家全体として借金ばかりしているわけであるが、それはアメリカにカネを貸そうとする主体がそれだけ多いからである。そのカネを米国人はドブに捨てている、投資をしてはすってばかりいるのでは決してない。マイクロソフトやアップル、グーグル、アマゾンなどのニュービジネスモデル。ファイナンシャル工学の研究開発。先端医療技術への挑戦。世を切り開くイノベーションは、余りにもアメリカ発が多いではないか。幕末の志士もそうだが、借金はその人の力でもある。カネ回りだけで相手の能力を見るばかりでは、良いバンカーにはなれません。日本は金持ちになったが、国内にカネを貸したいと思う人がいないからこそ、アメリカ人に貸して使ってもらっている。この事実の方こそ、より心配するべきではなかろうか?アメリカの心配をしている場合ではないのである。
それはともかく、新時代は西ではなく東である、とはロシアも考え始めている。
Look East, Russia(Sergey Karaganov, Project Syndecate)
北海道新聞は社説で日ロ・エネルギー協議を論じている。
ロシアのプーチン首相が対日支援の策定を部下に指示したのは震災の翌日だ。その10日後、セチン副首相は当時の河野雅治駐ロ大使に対日エネルギー支援策を提案している。
その柱は▽サハリン大陸棚の天然ガスを中心にロシアから日本への資源供給を大幅に増やす▽日ロ共同での長期的な資源開発-の二つだ。
ロシア提案の背景には、現在、大半が欧州向けとなっている天然ガスの輸出先を多角化しようとの新たな戦略があるようだ。
日本の北方ビジネス展開は、東アジア戦略と並ぶ柱になりうる。10年以上も前から地元社会では、ず~っと時間と資金の投入を重ねてきている。下の講演録は大企業からみた見方だが、北海道社会で事業プロジェクトに関係している人は多く、小生の勤務先にもサハリン、中国東北、シベリアといったり来たりしている人は何人かいる。
複数のカードを持っておくべきであると発想するのは、地元に居住する小生も同感なのだが、いかんせん戦後日本のOnly USA外交で酔生夢死の日々を送ってきた日本人は、日本海や北海道の更に北方の戦略的可能性にあまり目が向かない。実は、こんな方向感覚って、日本の歴史ではこの50年、60年だけのことなんですけどね。
エネルギーの話になってきた。となると、まずは東電の電力供給、意外とありましたなあ。余裕、あるじゃないですか。この辺から挙げておこう。
脱原発、いやゼロ原発でも<電力はある!>。あるってだけでは、ダメなんですけどね。語られつくされた観のあるドン・キホーテ宰相。
電力産業について、基本的にどう考えていけば良いのか?この問題については、エコノミストの間では大体の合意が形成されつつあるようだ。その好例となる見解。
電力不足、東電賠償問題、増税連合(への批判)、(REAL-JAPAN、田中秀臣)
また原発問題による被災者への東電の賠償問題については、(A)東電の利用者が料金増額で負担すべきことには一定の経済合理性がある(料金増額分はすべて課税すべきである)。政府案は基本的にこの(A)案の不出来な一種である。
ただし東電の利用者(=国民の一部)が負担するにせよ、その負担はできるだけ最小化されるべきである。(A)案は東電という地域独占体を維持することが前提になっているが、東電を解体すれば国民負担がかなり削減できる。
(B)東電を解体し、電力事業を継続したうえで、100%減資や債権カットを行うことで国民負担の最小化を目指す。高橋洋一氏の『これからの日本経済の大問題がすっきり解ける本』(アスコム)によれば、仮に賠償額を10兆円にすれば、政府案だと9.9兆円の国民負担が、この(B)案を推し進めれば3.8兆円まで縮減できるという。
損害賠償費用を商品の販売価格に上乗せして顧客に転嫁するなど、これほどの社会的不正義はないと、小生は考えるし、企業会計、原価計算論において如何なる論理でそれが正当化されるのか、是非考え方をお聞きしたいと思っているので、上に示された筆者の意見には一部同感しかねる点もある。とはいえ、あとは非常にオーソドックスな正論であると思う。
エネルギーについては、上のロシア・エネルギー戦略についてもそうだが、ビジネスは政治にはるかに先行して動いている。
ビジネスでは、役に立たないことは(基本的に)やらない。役に立たないことは(基本的に)誰も求めていないので、そんな事業に力を注ぐ企業は損失を計上し、事業を継続することができない。で、市場から淘汰される。このメカニズム、基本的に信頼しています。独善ではいけませんから。その独善が、まかり通る世界。一つには政治であり、それから官僚組織。それが小生の(いまの)見方である。その意味でも、時代の潮流を決めるのは、人の暮らしであり、生産であり、その流れを追認して時代の課題を流れに沿って解決できる政治家のみが最終的には選ばれて長期政権を構築する。小生はそんな風に考えている。
日本で政治家が消耗品のように使い捨てられるのは、選出システムにも問題があるが、トドの詰まりは「政治家は自由に政治ができる」、そう信じてやまぬ<お分かりでない>人だけが政治家になっている。理由はこれ以外に考えられない。
江戸幕府最後の将軍であった徳川慶喜が「幕府に人がいるか?西郷のようなものがおるか?大久保のようなものがおるか?おるまい!」と、土壇場でそう叫んだと、読んだことがある。人はいたのですね。勝も福沢も西周もいた。明治になって実力を発揮した譜代の臣は多数いた。トップが使わなかっただけです。
さて、中国は共産党という政党が国家を支配している。政治が経済に優越している。理念が現実を抑えている。ところが
中国でレジームスイッチは起こるか (池田信夫blog part 2)
池田氏の見解には、しばしば共感しかねる時もあるのだが、上の見方は同感。本筋をついていると思います。
さて今日の最後に最近の発見。
麻木久美子のニッポン政策研究所
上の二つのいずれも(小生には)大変面白かった。
ノルウェーの惨事と日本の東日本大震災。その二つがつながる視点がある。そんな風に物事を見る人が欧州にいるのかあ、そんな印象だった。衝撃に直面した両国が世界に示した行動と魂。これまた(一つの)ボディ・ランゲージというか、言葉を超える訴求力があったということなのだろうか?
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