昨日の投稿では、政治のロジックが、経済問題を解決するどころか、拡大しているのが今の世界的状況だと述べた。
それにしても酷いなあ、日本は。新聞を読んでいると、唸りたくなる時が多い。
与党民主党の執行部は、8月末までに菅首相をいかにして辞めさせるべきかで、頭を悩ませているという。集団辞任か、はたまたリコールが出来るように党規約を改正するか、あるいはまた、代表と首相を分けることにして、先ずは菅さんに代表を辞めてもらうことにするか。
集団辞任は足並みが揃わないと「ご苦労様でした」で終わりになるし、やめた後はどんな仕返しをされるか分からない。リコールありの党規約改正、代表が「やめておけ!」と言えば、決定は無理ではないか?代表だけでも辞めてくれないかなあ・・・とまあ、岡田幹事長以下、ハムレットのように悩みぬいているとの報道だ。これは日本経済新聞。
大いに悩んでください。ソ、ソ、ソ~クラテスも、プラトンもお、み~んな悩んで大きくなったあ~~。このCM、苔が生えるほど古いですけどね、大いにヒットしたものです。岡田さんも、仙石さんも、菅さんも、知っているはずです。
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日経は、明確に原発維持論に舵を切っているが、北海道新聞ははっきりと脱原発、更にはゼロ原発に舵を切りつつある。本日の社説は、<ぶれずに脱原発推進を>という題名である。
菅総理が、今月13日に久しぶりに記者を集めて、何を語るかと集まってみたら、総理は高らかに脱原発宣言をした。これは大衝撃であった。衝撃であると共に、そこには哲学があった(と思った)。これから日本国中が大騒動になって、攘夷論争に揺れた幕末もさながら、エネルギー大論争の口火がきられると予想した。小生は本ブログで菅総理はドン・キホーテだと形容した。
ところが官房長官が「総理の個人的思いです」というと、首相本人も「私の思いを述べたのです」と追認し、脱原発を言ったからといってゼロ原発にしろとは言ってないとか、脱原発というのはダツ原発依存なんですよ。屁理屈をこねて、言ったことの責任を全くとろうとしない。
道新が、「首相の発言がこれほど揺れるのは異例である」と、社の判断として断言するのも、これ自体、極めて異例である。
「首相として、いったん口にした以上、実現への道筋をつける責任がある。発言の迷走によって、政治不信はさらに増幅している・・・残された時間で、どこまで政府内で政策の具体的方向性を定め、党派を超えて賛同者を増やしていけるかだ」、これだけ言い切る地方新聞は、全国マスメディアの中でどの辺のポジションを占めているのだろう?
5月の主要国首脳会議では「最高水準の原子力安全を目指す」とアピールをしてフランス、米国を安心させたと思うと、浜岡原発を緊急停止させ、それ以外の原発再稼働にもストップをかけ、ドイツ、イタリアを喜ばせている。方針転換は、外国に向けても説明しなければならない。
一民間メディアから、箸の上げ下ろしのような、こんな基本的な事柄まで、手とり足取り助言されるなど、やはり異例の事態であるなあ。そう思っているわけだ。
まあ、とにかく現首相は似非ドン・キホーテでありましたな。右顧左眄する騎士など、いようはずもありませんから。時代錯誤な高杉晋作信奉者かと思いきや、やはりプラカードとアジ演説でのし上がった大物デマゴーグであったようだ。
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本日の道新、「電力改革の攻防」という連載記事の2回目を掲載している。今日のタイトルは「独立阻む、原子力村」。ここで「独立」というのは、原子力安全規制を担当する組織を経済産業省から独立させる、その独立である。
そもそも、現在は経済産業省内にある原子力安全・保安院だが、元々は科学技術庁原子力安全局として存在していた。科学技術庁は、文部省と統合されて、文部科学省(文科省)になっているわけであるから、文科省原子力安全局になっていても不思議はない。というより、1990年代の後半、中央省庁再編成が議論されていた時分、アメリカの原子力規制委員会に似た独立組織を設置しようという話もあったそうだ。科学技術庁は乗り気であったそうなのだが、原発推進の邪魔になると思った通産省(現・経産省)が話しをつぶして、あろうことか、自組織の内部に取り込んでしまった。ま、一口に言えば、座敷牢ですね。そんな話が紹介されている。
ちょうどその当時、動力炉・核燃料開発事業団(当時)の高速増殖炉原型炉「もんじゅ」が事故を起こしたり、東海村の再処理工場で事故があったりして、科学技術庁の信用がガタ落ちになっていたことも通産省には追い風となった。当時の橋本龍太郎首相も「科技庁には任せられない」と思っていたのでは・・・元の科技庁原子力安全局長のそんな追憶も紹介されている。当時は、省庁再編成も大事だが、不良債権もまだ未解決であり、そごうがいま倒産するか、ダイエーはいつ倒産するか、そんな時代であった。原子力安全部局を独立させるかどうかなど、細かなディテールに過ぎなかったかもしれない。
なるほどなあ、と。それで納得したわけだ。普通、推進部局と規制部局が同一組織内に共存するなど、ありえませんから。どちらの発言権が強いかで、片方の機能は死んでしまいますから。であれば、最初から片方はいらない、ということになる。道新の連載記事には「お巡りさんと泥棒が一緒にいる状態がいいんじゃないか」、これは原発推進派の官僚の弁であるとのこと。泥棒がお巡りさんを押さえこんじゃったわけだ。
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今、新たに原子力安全規制を所管する組織を立ち上げようという検討が進んでいるやに耳にする。民主党のマニフェストからして、原子力安全規制部局を経済産業省から独立させると記載している。小生も、どんどんその方向で進めてほしいのだが、原子力村というか専門家集団では余り評判は良くないらしいのだ。
某官僚の弁。「原発の検査だけをやる官庁に誰が入りますかね?」、と。そりゃあ、そうかもしれないなあ、と。小生も誠に情けない。同感したりもするのである。つまらないじゃないですか、仕事として。原子力工学なりを勉強する以上は、作りたいし、動かしたいし、開発したい、それが夢ってものだ。それが稼動している原発の検査ばかりして、一生を送る。検査でどんどん異常が出てくれば、それは面白いのだろうが、99%はOKでしょう。OKと言うために生きているようなものだ。
かと言って、経済産業省から出向してくるようじゃ世間が納得しないだろう。電力会社や原子炉メーカーから3年とか、5年で来てくれないか?そんな話になりそうでもある。
国民目線に立てば、こんな話はケシカランの一語に尽きるのであろう。公僕たるもの、与えられた職務を全うするべきなのであって、それを専門家として詰まらないとか、何を言っておるのか・・・御尤もである。しかし、世の中に<国民太郎さん>という御仁はおらぬ。いれば国民太郎さんが官僚の主人である。いるのは、全て一人の人間であり個人であり、全ての人は充実した人生を送る権利がある。生きがいのある仕事を提供できない組織には入らないという選択の権利がある。雇用する側には、送るに相応しいキャリア・パスを設計する義務がある。国民太郎さんの都合だけでは人は動かない。この事実にも、やはり目を向けなければ。そう考えた今日でありました。
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