詩で伝えたいのは感情の流れとでも言えるのだろうか。作品と感性を同調できなければ、詩はわからない。
小生は仕事柄、統計学や数学の証明を読むことが多い。そこでは論理だけを読み取る。
AならBである、BならCである。Cでないことは明らかだ。故に、Aではない。そんな文章だ。
今日の北海道新聞に佐高信が「安全神話の責任追及を」というタイトルで寄稿している。内容は原発批判である。と言えば、同氏の立場を知っている方であれば、大体どんなことが書かれてあるか想像はつくだろう。
ロバストネス(robustness)という概念がある。頑健性と訳している。想定や前提がわずかに間違っていたときに、これまでの結論が全くオジャンになるようであれば、ロバストではない。そんな風に使う。津波の高さの想定が3メートル間違っていた。間違いがなければ損失はゼロ。間違えば損失は1兆円。1兆円の損失の原因は、最初の想定数値がわずか3メートル間違ったこと。だとすれば、そのシステムはロバストではなかったわけだ。
極論を仕掛けられたときに、自らの考え方がロバストであれば、(当初は吃驚するかもしれないが)十分ディフェンスできるはずだ。相手の批判・攻撃を恐れるのは、自分がロバストでないと自覚しているからだ。ロバストでない時、システムはヴァルネラブル(vulnerable)だという。脆弱だ、脆い、ひ弱いという語感だ。自分の脆さを意識すると、人は潜在的危険に対して非常に敏感になる。批判をする相手を敵視するようになる。
今日は、佐高氏の批判を奇襲攻撃と見なして、同氏の議論にどう対抗するかを考える。本日の投稿において、小生は<原発派>である。
× × ×
寄稿された文章全体を引用すると長くなるし、ここでは情緒でなくてロジックに注意を集中したい。そのため、文章の前後を入れ替えながら紹介させていただくことをお許し願いたいのだ。
- 木川田なら、安全確保のため、原発批判の急先鋒である科学者の高木仁三郎や作家の広瀬隆と、何時間でも議論しただろう。
- その思いを裏切る形で、東電は堕落していく。
- メディアもこれまでの姿勢が甘かったと贖罪の意識を持つなら、やはり徹底して固有名詞で、原発の安全神話をPRしてきた文化人を追求していかないとダメだと思う。
- 事故前と状況が変わっていないことの方が、深刻な事態だと思う。
- 福島第一原発の事故は、まぎれもなく人災であり、「企業災」、「政治災」である。
- 今、試されているのは、東電よりも、メディアだと思う。
骨子は上のように要約してもいいのではないかと思うが、文中、登場している木川田とは同社の元会長である木川田一隆氏のことである。
本文には実在の人物の固有名詞が幾人か挙げられており、批判の銃弾を浴びている。本気で社会評論をする覚悟が、同氏から伝わってくるように感じるのは、こんな点だ。反撃を恐れていない。発言することのリスクを率直に引き受けているのですね。
一寸整理しておこう。登場人物は以下のように扱われている。
- 木川田一隆。東電中興の祖。戦前期、電力国家管理に松永安左エ門とともに猛反対した。戦後、原発に反対、「あんな悪魔のような代物を受け入れるべきではない」と言う。国家管理を怖れ、容認に転じ、安全第一の原則のもと故郷福島へ建設する。木川田、松永両氏とも勲章を辞退した。
- 平岩外四。東電会長、経団連会長を歴任。勲章を受勲。
- 湯川秀樹。最初の原子力委員に任命される。政府の意図に気が付き1年で辞任。
- ビートたけし。地震が起きたら原発に逃げるのが一番安全と発言。
- 弘兼憲史。原発は安全とPR。
- 幸田真音。最近、事故未収束のまま、東電から還暦祝いをしてもらう。
- 広瀬隆。原発批判派。新聞、雑誌のインタビューを受けているもののTVでは「上映禁止物体」。
- 中曽根康弘。超A級戦犯。
- 正力松太郎。初代原子力委員長。超A級戦犯。
- 読売新聞。原子力新聞。
まあ、とにかく、すごいの一語に尽きるわけである。
ただ小生、思うわけである。たとえば上の要点1に挙げている「木川田なら何時間でも議論しただろう」。それはそうだろうが、ではそのことによって、東電は異なった行動を実際にとっていただろうか、と。それは無理ではなかったのだろうか、と。
木川田氏が、当時まだ福島県議だった天野光晴議員と肝胆相照らす間柄であり、同議員との信頼関係が背景ともなって、福島県内への原発建設を決意した動機は、確かに公益追求であり、故郷を私的利益追求に利用しようという意識はゼロであったとしても、それは木川田氏の個人的心情に過ぎない。寧ろ、木川田氏のような人が、東電の経営責任者でありながら、それでもなお同社は原発事業を始めざるを得なかった。その事実が一番重要だ。
人は自由意志を持つという。最高経営責任者であれば、経営判断を自由に下せる権限があると言われる。それでは、重要な意思決定において、人は完全な選択の自由をもっているだろうか?決して人は自由ではない。人は全て時代の子であり、社会の子であり、組織の弟子である。その人が置かれた状況をギブンとして、最も理にかなう選択が最初から与えられているのが現実である。一人の個人が、衆知を覆して、その人独自の考えに基づいて、自由に意思決定を行うのは、概ね不可能ではなかろうか?もしも時代の潮流に合致しない意思決定をしようとすれば、その人自身が組織から排除されてしまう確率が高い。これが現実ではないのだろうか?
だから、佐高氏が述べるような「このお人が、もし世にありせば・・・」という思考法は、小生には信用できないのだ。木川田氏もまた原発を導入したという事実こそ大事である。もし東電が、木川田氏とは別の人によって経営されていれば、同社はもっと早く原発事業を始め、原発依存率を高めていたかもしれないのだ。この同じ見方は、全ての電力会社が原発事業に取り組んできた経緯全体について言えることだと思っている。
東電が原発事業を始めたのは、個々の人間の思い、心情はどうであれ、原発が企業経営のロジックにかなっていたからであり、もしかなっていなければ、木川田氏は原発事業の不合理をあげて徹底的に反対していたに違いない。更に、東電が踏み出した原発事業を、広く社会が(曲りなりにも)受け入れ、継続が社会の大勢となったことも見落とすべきではない。日本の原子力発電は、戦後世界のエネルギー技術と日本の資源、日本経済の高度成長から、必然的に浮かび上がってきた一つの選択肢であった。もし本当に日本人の核アレルギーが本物であれば、止むことのない原発反対デモがずっと続いていなければならず、それが無視できない社会的勢力になっていなければならない。
あの人、この人、あの会社と指摘するのは誰しも可能である。しかし、極東軍事裁判ならいざ知らず、それは人間と企業の自由意志に期待しすぎている極論と思うのである。たとえて言えば、太平洋戦争を引き起こした戦争責任は、その職務にあった東條英機首相と宣戦布告をした東郷茂徳外務大臣の二人にある、そう断言するのと同じじゃなかろうか?そう感じるわけです。
そう考えると、日本が必要としている電力エネルギーを供給する電力会社を、サイドから支援するのは、人生意気に感じるからこそ支援するわけであって、結果として事故が起こったから、社会はその支援した人々まで断罪するべきである、そんな論法は、まるで幕末に新選組を扶けた京都市民を懲らしめろと云うのと同じではないか。そのようにも感じるわけだ。薩長藩閥政府が、いくら田舎者であったにしても、権力を奪取した後に、そんな無体な報復はしなかったわけである。
佐高氏の寄稿は、小生にとっても、非常に強い説得力をもっている。惜しむらくは、東電を「堕落」させた根本原因として、<独占>をもっと強調していない点にある。確かに以下のように言及はしているのだ。
国家に屈服し、民間企業としての誇りを捨て、官僚と野合して国家管理よりももっと始末の悪い、民間企業と役所の悪いところをアマルガム(合金)させたような、本当に無責任な会社になっていく。それはその通りだが、法で認められた独占は、どのように理屈付けようと<公認された利権>になるのであって、利権を半永久的に保証された組織は常に堕落する。人間も堕落する。木川田氏がいてもダメなのだ。平岩氏のような方がいてもダメなのだ。立派な人がいれば会社は立派に経営できるわけではないのだ。仕組みが間違っていれば、必ず失敗するのだ。この一般原理をこそ結論として挙げてほしかった。そう思ったりもしたのである。
いずれにせよ、流石、佐高さんですね。そう感じさせる快速球。それが本日の寄稿でした。
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