身の回りの世界や社会を専門家たちは理解したかのように説明しているのだが、たまたま地球上に進化の結果として生まれたに過ぎない人間が、人間の知性でもって宇宙や生物界のあり方を理解できるなど、<究極のラッキー>をはるかに超えることであろう。理解できたかのように信じているのは、人間の頭脳で理解できる形で理解しているからに過ぎない。宇宙自体、社会自体、物自体がいかにあるのか。それは人間には永遠の謎である。ま、カントはこんな風に考えているらしい(木田元「反哲学史」を参照)。
しょせん人間は、物事を自分が理解したいように理解している、生きるために都合のいいように理解している、というこの目線が、小生、昔から相当好きであり、いまでも土台になっている。
北海道は普通の住宅の庭にも白樺が植わっているし、大学の裏山の斜面も一面の白樺林になっている。白樺は春先に花粉を飛ばし、その花粉でアレルギーを引き起こしてしまう人も多い。その白樺は秋になると早々に葉を落としてしまう。この10月に描き上げた自作を一品。
北海道の秋
カンディンスキーを並べておけるのも自分のブログならではの贅沢。
Kandinsky, Munich-Schwabing with the Church of St. Ursula, 1908
1908年だから画家カンディンスキーとしては幸福な時期であったに違いない。
その後の彼の人生は予想もできない形で変転するのであるが、後年、彼の生涯を全体として見る人は、そこに何か一貫した方向や志向を見出そうとするものだ。そんな一貫した志向や理念など空念仏であるのに・・・盲目の意志でしょ?孔明だって、ナポレオンだって、合理的に生きたわけではない。豊臣秀吉が織田信長に出会って、とんとん拍子に出世して、ついには本能寺の変の後、天下を統一するまでの<英雄の人生>がいかに馬鹿らしく、空想の産物であるか、福沢諭吉が「文明論の概略」で議論している。ラスベガスのギャンブルで大勝した人がヒーローになるようなものだ。ギャンブルなら偶然の産物ということをすぐに理解できるのに、歴史には運命とか必然を言いたくなる。
何につけ説明をしたがるのは、人間が生まれつき持っている<理性>がそう働くようにできているだけのことで、その説明と世の中の現実とは、実はしばしば何の関係もなかったりする。今日の話は昨日とは正反対。どっちを言いたい?どっちも。人間など一面は実相、一面は空、である(福翁百話)。
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