東日本大震災が今年の3月11日に日本を襲うとは誰も予測していなかったはずだ。このような事件はランダムで予測しようがない。しかし、1年間の交通事故死亡者数は、過去のデータからある程度予測できる。ただ、どこで誰が命を落とすか、それは分からない。小生が暮らしているO市内で、どこの家がいつ盗難事件に遭うかは全く分からないが、しかし今後半年間でどのくらいの盗難事件が起こるだろうかという予測は、それほど難しくはない。
国内には所得格差がある。収入の多い世帯や低い世帯が混在している。まるで理不尽な偶然から収入が低迷するのだと考えがちだし、高い収入を得るのも幸運であると考えがちだ。
しかし、同僚ともよく話すのだが、ある程度の必然性もあるように思う。小生は、随分前にサラリーマンから足を洗い、教師生活に転じた。授業のない日は割りと自由に過ごせる。中三日とか中四日となると、ある意味、プロ野球の投手のような生活だ ― もっとも彼らほど高給はもらっていない。その理由は彼らほど希少で価値のある才能を有していないからだ
自由時間が豊かにある一方で、カネはそれほどはない。小生の昔の友人は、小生の2倍から3倍は働いている。たまに会えば、彼らの髪は既に真っ白であり、随分、年齢を重ねたことを痛感する ― そういう出会いも最近数年間は少なくなった。彼らの仕事は生半可ではなく、負っている責任と求められるエネルギーに比例して、小生の2倍から3倍の収入を友人たちは得ているはずだ。「この大学にきて私の生涯収入は半分ですよ」、同僚はそんな風に言う。しかし、カネを求めて努力をすれば、カネ以外のものは、どうやら豊かではないらしい。ライバルとの出世競争、権力闘争にも勝たなければならないと思ってしまう。負ければ不幸だと思ってしまう。それもまた火宅の人生だ。自らは火宅を歩み、息子、娘そして妻とすら、語る時間もないままに歳月が過ぎ去ったと聞くことは多い。独立した息子とは何年も話したことはないという。一生の間に獲得できる成果は限られている。長生きをすれば老いの落日を経験しなければならない。カネの苦労をしなければならなくなるかもしれない。
ギリシアは国民投票を断念した。その結果、ギリシア以外の欧州主要国に安堵が広がっているようだ。しかしギリシアの首相は辞任するかもしれない。ギリシアは混乱するだろう。というか、ギリシアが<混乱するべき>なのかもしれない。だから混乱しているのかもしれない。
バブルとバブルの崩壊で日本経済は20年を失ったと言われる。その責任は政府・日銀の政策ミスにあると指摘されることが多い。しかし、80年代末のバブルが崩壊していなければ、経済格差の拡大、日本人の倫理観の混乱は、もっと激しいものになっていたかもしれない。日本が経験するべき混乱の総量は、そもそも何をどうやっても同じであり、一定の分量の混乱と衰退は必ず経なければならないのかもしれない ― おそらく100年もたてば、歴史必然論の観点から、この30年の日本経済と社会の歩みを総括する歴史家が現れてくるだろう。その議論は、1990年当時の日本社会が2090年当時の日本社会へと変容したその変化の過程は、「そうなるしかなかった」という意味で、避けることができなかったものである。そんな議論がおそらく現れるだろう。
スピノザが言うように、空中を飛んでいる石ころに理性があれば、「自分は自由意志でこうやって飛んでいるのだ」と、そう考えるだろう。今週は家内が松山に住むT一郎兄の見舞いに帰郷して、結構バタバタした。帰ってきた彼女から話を聞くと、どうも容態は楽観できないらしい。「これも運命だ」と考えることは、「そもそもこうなることは最初から決まっていたことで、避けようがなかったのだ」、人間はそう考えることで、また明日を迎える気になる生き物なのかもしれない。後悔は、その人の内面を食いあらす癌のようなものであり、心から死んでいく病である。
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