2013年1月11日金曜日

正しい質問の仕方で既に物事の半分は理解できている

高校時代に読んだ本の中でまだ記憶に残っている一冊はポリヤ『いかにして問題をとくか』だ。著者は数学者なのだが、この本は数学の参考書ではなくて、もっと広く疑問一般を解き明かしていくためには、どんな風に思考を進めていけば正解にたどり着けるか、もし正解がない時には正解がないのだという真相にどう気づくか、というテーマがとりあげられていて、他には類書がないと思うのだ。

まず疑問を文章に書いてみる。それを細かい設問に分解してみる、この設問に答えが出れば、別の設問の答え方が決まってくる、そんな互いの関係が大事になってくる。その関係が頭に入ってくれば、いわゆる<論点整理>が完璧なものになり、論点が巧みに整理されていればディスカッションのレベルが高くなり、得られる結論も自然に素晴らしいものになる。

ズバリ、ビジネススクールのグループ・ワークにそのまま当てはまる思考の鉄則が満載の名著と言えるのだ。

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こんな風に質問してしまうと、答えようがなくなるでしょう。その典型は
体罰は是か非か?
ずいぶん昔、寺田寅彦が『数学と言葉』で述べているのだが、数学は思考をハイスピードで進める役割に特化した言葉だ。数学という道路を歩いている限り、横道に迷い込むことはないし、迷ってもすぐに迷った地点を見つけられる。しかし、普通の言葉で考えていると、少し話しを広げると言いたいことが重なり合って曖昧になり、間違って考えても、中々矛盾に気がつきにくい。そんな風なことを言っている。

上の質問にも自然言語の不完全さがあらわれていると思うのだな。

大阪・桜宮高校が体罰で揺れている。バスケットボール部のキャプテンが体罰を苦にして命を絶ったかと思うと、バレー部でも停職処分を受けたはずの顧問が体罰を続けていたという。こんな事情は、おそらく別の多くの高校にも隠れているだろうから、全国の関係者はいま日頃の行動を顧みて、当惑したり、困惑したり、意気阻喪したりしているに違いない。モラルの仮面をかぶった愚かな問いかけが、もしも現場の混乱をもたらしており、それをトップが放置すれば、人材育成の全体的レベルがさらに低迷することになるだろう。

元来、日本では現場が優秀である一方で、トップのマネジメント能力は極めて低いというのが国際的な相場になっている。今回もまた学校のマネジメント能力を問うものだ。

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質問を言い換えてみる、これはポリヤが示す問題解決への第一歩である。
すべての体罰は、常に非であると断定してよいか?
まずこう言い換えよう。もしYesであるなら、すべての身体的苦痛を伴う叱責は、この世から排除するべきだ。では、
身体的ならびに精神的な苦痛をともなう叱責は、すべて例外なく常に、非であると断定してよいか?
身体的苦痛がすべて容認できないと考えながら、精神的苦痛なら容認できる場合があるか、それとも苦痛はすべて叱責手段としては容認できないと言うべきなのか?

もしこの問いにもYesと答えるなら、
いずれにせよ苦痛を伴う叱責や指導は、教師であれ、親であれ、それを行うのがすべて非であるとすれば、では身体的苦痛をともなう矯正や、リハビリ、精神的苦痛を与える告知もまた実行できないと断定するべきか?
以下、進行が想像されるであろう。

まるでプラトンの対話編である。対話編の主人公であるソクラテスは、こうして質問を積み重ねながら、相手を矛盾に追い込んでいくのを常套手段にしている。見ようによっては<嫌なじいさん>であるが、まわりで対話を聴いていた人はすべての思い込みや常識、更には信じられていた権威までもが、その曖昧な根拠があらわになり、スカッとした気分を感じたのであろう、小生、そんな風に古代ギリシャのアテネの街を想像している。

ポリヤの『いかにして問題をとくか』は、対話編で書かれているわけではないが、その筋道は<質問と答え>を積み重ねながら、真実がどこに隠れているのか、その場所を探し出す定石を与えてくれるものだ。文字通り<真理という獲物の狩りかた>、その意味では著者ポリヤはやはり農耕民族ではなく、狩猟民族たるヨーロッパ人そのものである。トップ・マネジメントと作戦指導に巧みだというのは、狩りの文化と価値観にマッチしているのかもしれないねえ。



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