海というと大学生の頃に読んだ矢内原伊作の評論『海について』を思い出す。
心おとろえたときは海に行こう。心熾んなときも海に行こう。衰弱と燃焼とは別のものではない。倦怠と瞋恚とは別のものではない。この世は人を疲れさせる。・・・そのようなとき、逃れよう、逃れて海に行こう。・・・海は一切の刻印を否定し、心に自由を与え、われわれを解放する。(出所)矢内原伊作「顔について」(矢内原伊作の本、第1巻)みすず書房、61〜62頁宅の窓からも海が見える。北方の海である。湘南の海とも瀬戸内海とも色が違う。モネが描いた海は大体がフランスの海である。色が違う。ターナーの絵にあるイギリスの海とも違う。
フリードリヒ、氷の海−難破した希望号、1825年
(出所)美術:私のゆるゆる生活
凍結したドイツ・エルベ河口の風景が元になっているそうだ。窓の外に見る日本海に絵のような氷塊はない。氷ではなくて海猫が浮かんでいる。海猫かと思うとサーフィンをしている人の頭であったりする海である。
上の作品が描かれた時代は、1800年代はじめ、七月革命の前だからナポレオン没落後の最も激しい保守反動期である。ゲーテはまだワイマールに生存しており、ウィーンにはシューベルトがいた。時代は自由化への歩みを止めず、まずブルジョアが30年に政権交代を実現させ、48年に全欧州で勃発した暴動は革命に発展し、古い貴族階級を完全に打倒してしまった、と同時に19世紀後半から20世紀にかけて世界を動かした無産階級(=プロレタリアート)という新たな人間集団が登場しても来たわけだ。
今という時代をブルジョアやプロレタリアートという階級概念で読み解くのは難しいかもしれない。しかし、社会の発展と進歩を均衡というバランス論で解釈するのではなく、問題の所在・力のアンバランス・矛盾の解決という視点から見るのは、いまでも有効な世界観であるかもしれない。そう思うようになっている。
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