2013年1月19日土曜日

断想 - 社会に貢献するというのは?

俳人蕪村にとって師は芭蕉であったそうだ。といっても、二人が生きて話をしたことは一度もない。芭蕉は元禄時代の人であり1694年には死んでいる。蕪村は享保から天明にかけての人であり生まれたのは1716年だ。二人が共有できた時間はない。が、そうであっても自分が学ぶ師は、同時代の人である必要はないということだ。

亡くなった父はエンジニアであったが専門外の本を読むのが好きだった。長寿社会の物差しによれば50代で他界した父の寿命は短かったので、父と話しごたえのある会話をしたことは一度もない。しかし、時間があれば本のページをぱらぱらとめくることが好きなところは父に似た、というか本を友にすることの有難さは数少ない父からの贈り物だと思う時がある。エッカーマンの『ゲーテとの対話』は、父が口にした何冊かの書名の一つだ。その全三冊を読了したのはつい最近のことで、遅まきながら約束を果たしたような心持になった。哲学者ニーチェはこの作品を「あるかぎりのドイツの書物の中の最良の書」と言っている位だから、再読、三読どころか、何度読み直しても、そのつど懐かしい気持ちになる、大仰にいえば福音書のような所があるとも言えるわけだ。ま、そんな本と一冊でも知り合うというのは、それだけ淋しさを減じてくれるわけでもあり、自分にとっては生きた親友と変わるところがない。
ゲーテはサン・シモン主義者について私の意見を求めた。「彼らの学説の主な方向は、」と私は答えた、「各人が自分の幸福を築くための不可欠な条件として、全体の幸福のために働かねばならないということのようです」。 
「私の考えでは」とゲーテは答えた、「だれしも、自分自身の足元からはじめ、自分の幸福をまず築かねばならないと思う。そうすれば、結局まちがいなく全体の幸福も生まれてくるだろう。とにかく、あの説は全く私には非実際的で実行できないことのように思うね。・・・私は作家という天職についているが、大衆が何を求めているかとか、私が全体のためにどう役立っているかなどということを決して問題にしてこなかった。それどころか、私がひたすら目指してきたのは、自分自身というものをさらに賢明に、さらに良くすること、自分自身の人格内容を高める、さらに自分が善だ、真実だと認めたものを表現することであった・・・」。
(出所)エッカーマン『ゲーテとの対話(下)』、岩波文庫、293~294ページ
人間は、自分が善いと思うことを行うか否かの自由意思を持つときにだけ、モラルを語りうる。そんな自由を持たないとき、人間は自分を拘束するものに従っているわけだから、自分が善であるかどうかを論じても意味がないわけだ ― たとえば「職業倫理」があるとしても、自分の意志でそうしようと欲するのでないなら、自分自身の意志決定がないのだから、是非もなく、善悪もなく、職業倫理は単なる<上意>に過ぎない、これは当たり前の議論だろう。要するに、信仰・崇拝あるところ、モラルは消え、すべては神の思し召しとなるのがロジックだ。


断想:自由とモラル・幸福

 このところiPadで愛用しているPenultimateで落書きしていた。2012年から13年にかけて、こんな事を考えていたのだなあと、後になって思い出せるように記録しておこう。

自分が善いと思うことを為して、自己の改良、自己の完成に努力することができるためには、そうする自由が不可欠である。これが図の上の矢印だな。

ここに幸福かどうかという視点はない。しかし、幸福追求の自由という言葉がある。幸福に生きるには、やはりそのための自由が不可欠だ。これも図のとおり。

それでは質問だ。善か悪かという区別と、幸福を追求するということは、独立した別々の事柄なのだろうか?この二つは互いに無関係のことであると言うならば、人間のモラルは幸福の実現とは関係ないということになる。確か哲学者カントもこれに似た議論をしていたと思うが、小生、どうしてもこれは奇妙だと感じるのだな。かと言って、一方、幸福を実現してこそモラルはモラルたりうるのだと。そう考えると、結果に依存して行動の是非が分かれる。功利主義的な見方に似てくる。善悪の区別は結果による、そう主張することになってしまうと、これまた小生は同感できない。といって、功利主義とは逆に古代ギリシア哲学のように考えて、人間は善であるとき、そのときにのみ、幸福になりうると。こう議論するなら、これは要するに、善と幸福の二つは相互に必要十分であって、同義であることになる。故に、幸福の追求=善の追求になり、功利主義との違いが出てこない。

上の落書きには、どうもそんな風に思いめぐらした形跡があるわけであり、書いた時には、まっとうな結論が得られなかった、そう思われる。

いずれにしても、自由なきところに幸福はなく、自由なきところ善も悪もない。これはロジカルな議論の断片として保存しておいてもよさそうだ。その自由は、信仰の自由、思想の自由、表現の自由、政治的な自由、経済的な自由、様々な自由を含んでいる。

表現の自由があってこそ、はじめて表現の是非・適否を批判することが可能になる。議論の対象になりうる。経済的な自由があってこそ、はじめて"自己責任"を問うことが可能になるわけだ。

では、自分が善いと考えることを為そうとするのではなく、社会が善いと言っていることを為そうとするのは善になるのか、ならないのか?これはゲーテのいうサン・シモン主義に該当しそうだ。思うに、全体に奉仕しようとする生き方をとって、それがモラルに沿うかどうかを議論しても、解答が得られるはずがない。善いと伝えるのが神であり祭政一致社会をとってみても、宗教とは関係のない至高の存在(=王、国民、党本部など)を想定してみても、全体の幸福が個人を正当化する社会は、目的合理的社会を目指すのが常であり、善とはプラス、悪とはマイナス。そのように思考する社会にならざるをえない。

ゲーテが生きた時代がそんな社会でなかったのは幸いなことだったと思う。

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