2016年2月29日月曜日

一つの賛成 & 一つの反対

2月29日投稿は4年に一度しかチャンスがない。今月はもう十分じゃないかという気がしたが、やはりブログとはWebLog、つまりは航海日誌なので、覚え書をアップしておこう。

断片的だが、なるほどと思われること:

自衛隊作戦立案の一元化。こんな報道だ。全文は長いので一部抜粋させてもらう。
自衛隊の作戦計画策定をめぐっては従来、背広組を中心とする内部部局と制服組を中心とする統合幕僚監部との間で、機能の重複や時間的なロスの発生といった問題点が指摘されていた。形式上は背広組の役割とされている「指針の起案」や「防衛相への承認申請」でも、軍事の専門家である制服組のサポートを全面的に得なければ業務が進まないのが実情だ。策定手続きの統幕への一元化にはこれらの弊害を解消する狙いがある。 根拠となっているのは、昨年6月に成立した改正防衛省設置法だ。・・・(中略)作戦計画策定の統幕への一元化はこうした流れを受けたものだが、一部のメディアからは批判も出ている。制服組の権限拡大や文民統制の脆弱(ぜいじゃく)化を危惧する内容だが、的外れと指摘せざるを得ない。 法改正後の統幕には、統幕副長級の「総括官」や部課長級の「参事官」など文官ポストを新設。背広組を統幕の幹部に配置することで、統幕自体の業務プロセスに“背広組の目”が入る仕組みとした。統幕が作戦計画策定の主導権を握ったとしても、防衛相への報告など各段階で「内幕」の合意形成が必ず行われる。
(出所)産経ニュース、2月29日

作戦立案を制服組が専担するとしても、作戦実施の決定が内閣に属するなら言葉の定義からして「軍の暴走」はありえない。ありえるのは「内閣の暴走」である。加えて、予算は国会で議決するという原則を守るなら、自衛隊の暴走も内閣の暴走も不可能である。ありうるとすれば、「日本版ナチス」の出現する時だけである。が、タコツボ社会・日本では想像すらできない。

戦前期の軍部独走は、明治憲法がもっていた統治システムの欠陥によってはじめて可能になったことだ。明治から大正にかけては元老、文官、軍人それぞれがオリジナルの発想を(まあまあ)理解しており、その共有意識が憲法の欠陥を補っていた。制御不能な状態になったのは、そもそも法的な規定がそれを許していたからに他ならない。

というか、戦前期においても予算編成権は内閣に属していた。陸軍(海軍)大臣現役武官制が実現せず、軍部による倒閣の切り札が与えられなければ、1930年代以降の迷走は起こりえなかった。ま、この話題は何度書いても飽きないのだが、これ以上は脱線になるので、今回はここまでで。

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これはどうかと思うこと。
北城恪太郎・経済同友会終身幹事(国際基督教大学理事長)は国立大学の学長選考会議は3分の2以上を学外委員にして学外主導としないと大胆な改革はできないと指摘する。・・・(中略)2015年4月に、大学のガバナンス改革を進めるために学校教育法と国立大学法人法の改正が施行されて、1年がたとうとしている。重要な点は学校教育法93条の改正である。大学としての最終意思決定は学長が行い、教授会はその学長が決定を行うのに当たって教育研究に関する重要な事項に関して意見を述べることができると明記された。教授会は意見を出すが、それを受けて最終的に決めるのは学長ということで、両者の関係が法律で明確になった。
(出所)日本経済新聞、2月29日


大学運営は、雇用されている教職員の意見のみで決められるべきではなく、納税者の代表(≒ 文部科学省?)、授業料負担者、その他資金提供者の意見も反映されて、決められなければならない。

当然のことだ。

専任の教員のみが構成する会議である教授会がすべてを決定するのは「おかしい」わけであり、同じロジックで学長が着想するプランをそのまま実行するのも「おかしい」わけである。

そう考えれば、たとえ学外委員を3分の2という比率にするにしても、その学外委員は納税者の利益、つまり公益を代表する者として大学経営に参加しているという自覚を持つのか否か。誰を代表する委員であるのか。結局は、限定的な観点から個人的な見解を述べるだけなのではないか。

こういう言い方をすれば、適切な大学運営などは、詰まるところどうやってもダメだということになる。

議論が収束しないのは、組織のあり方を議論しているからだ。組織は戦略にしたがい、戦略は目的に従う。

国立大学の組織を語るのであれば、そもそも私立大学が多数ある中で、なぜ国立大学が設置されているか。その設置目的はなにか?この問いかけが出発点である。

国立大学はその設置目的が最も効率的に達成される組織の下で運営されるべきだと。これが本筋の議論になるはずだ。

目的なきガバナンス論というのは、最初から「おかしい」わけであるな。

2016年2月27日土曜日

これは一場の政治喜劇だ

野合ダ!
野合デナゼ悪イ?

民主党と維新の党 ー 但し元祖ではなく軒先を借りてから母屋をとった方である ー この両党が統合されることになった。

とはいえ、民間企業の合併とは異なり、政党ならではの独特の手順を踏むそうな。

ま、その詳細は省くとして、本日、上のような揶揄と反論が与党と民主党の間でかわされたと報道されている。

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 これより先、民主党から選出された衆議院議員・鈴木貴子氏が離党したいと幹事長に願い出たところ、えらく怒られたそうである。

ま、貴重な議員が一人いなくなるのであるから、激怒したいという感情は理解できる。が、それにしても「民主党の看板を使って比例当選したのだから、離党するというなら、議席を返上せよ(=議員を辞職せよという意味か)」という言い草は、実際の行動と、言っている発言が矛盾していて、実に滑稽である。

民主党は一度全員が離党するのではなかったか。維新の党に所属する議員がほぼ空っぽになった民主党に入った後、離党した民主党議員が復党して一体になる。要するに、維新の党が主張してきた「両党解党」に近いことを行動で示そうというので、話がまとまったときいている。党名も「民主党」から別の名に変更すると噂されている。

とすれば、前回選挙の当選時に存在していた民主党は一度消滅するという解釈にたって、自分は同調できないので離党すると言ったとしても、それは甚だ筋のとおった行動である。ただまあ、あれである・・・「離党する」ではなく、全員が離党した後で「別の政党になってしまったので自分は戻らない」と言っておいた方が話しのロジックは通る、と。そんな気はするのだな、確かに。まだ当選した時点の「民主党」でありますから。

ま、いずれにせよ、これを「政治喜劇」と言わずして、何という・・・

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政党は特定の政策を実行しようとして結成される団体である。国家観、憲法観、政策思想等々、基本的な部分で意識を共有する人間が政党を構成するのが建前だ。よく使われる「野合」という単語は、政策思想が実際には共有されていないにもかかわらず、選挙に有利、または交渉に有利という理由で数を増やす行為を指す。そんな意味合いで使われてきた。

「野合だ」という批判に対して「野合でなにが悪い」と反論をするのは、選挙に勝つためなら何をしてもよい。誰とでも組む、と。そんな政治思想を示唆する。

もしこれが真実なら、要するに「権力を握るためには何をやってもいい」という思想とどれだけ違うのだろうか?

「武力(=クーデター)」だけは使わないというのが、暗黙の前提だろうが、世論調査でもまだなお40%以上の国民が支持をしている現政権を倒すためなら、野合だろうが、何だろうが、どんなことでもやるというのは、そもそも政治家としては失格なのではないか。

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その感覚、アブナイねえ・・・思わずそう思った次第でありました。打倒藩閥を呼号した明治の自由民権運動の時代とは世の中違うのだ。

やっぱり、民主党って団体、ありゃあ危険ですぜ、権力についたら何をやりだすか知れたもんじゃねえ。そう思った人が多いのじゃないか。

その社会で最も危険な人物とは、仕事ではなく権力を欲してやまない人物である。これは永遠の真理だろう。

2016年2月26日金曜日

『一生懸命やっています』にそれ自体としての価値はない

頑張ッテルカイ?
一生懸命ヤッテマス!

もう少しで4月である。新年度だ。ルーキーがまた入ってくる。

上のようなやりとりが、恩師と弟子、先輩と後輩、友人、家族の間で何度も、何度もかわされるに違いない。


しかし、しばしば無視されたり、見逃されてしまうのだが、一生懸命やっているということそれ自体には何の価値もない。善くも悪くもなりうるのが「一生懸命」というヤツだ。

正しい出発点から、正しい方向に向かって、歩いている時にのみ、その人の毎日の努力は意味があり、正しく、やがて成果が出る。

そうでなければ、一生懸命にやっていることには全く意味はない。直ちに止めなければならない。吾レ日ニ吾ガ身ヲ三省ス、あるいは海軍の訓戒「五省」も、それ故にこそある。

最初が肝心。千里の道も一歩から。初心忘るべからず。

単なる格言をこえて人生に当てはまっている経験則だ。大事である。

2016年2月25日木曜日

Surface Pro 4: これは修正しておかねばならない

昨年末にマイクロソフトの最新タブレット(?)である"Surface Pro 4"の使用感を投稿したことがある。その時のタイトルは、ズバリ、「使えぬ・・・Surface Pro 4」だった。

現時点にあって、上のレポートは修正しておかないといけない。というのは、マイクロソフトが電源管理周辺の更新プログラムを提供してくれたからだ。

以下のように「報道」もされている。
 「Surface Book」と「Surface Pro 4」の一部のユーザーは電力管理機能の不具合に悩まされてきたが、Microsoftがそれを修正するフィックスをリリースした。
 これらの端末の一部ユーザーは、端末が正常にスリープモードに移行したことが一度もないと報告していた。その結果、マシンは熱をもったまま、バッテリを浪費してしまっていた。
 ブログ投稿によると、Microsoftが米国時間2月17日に公開したフィックスには、「Surface BookとSurface Pro 4向けのMicrosoftとIntelのドライバおよびファームウェアアップデートのセットが含まれており、これを適用することで、ユーザーはSurfaceが本来提供すべき電源管理オプションを最大限に利用し、Surfaceの生産性をさらに高め続けることができる」という。
(出所)CNET Japan, 2016-02-18

先にレポートしたような使い難さ、というか「障害」は見事に解決されている。

となれば、Surface Pro 4の強みだけが残ったことになる。

  • Windows 10 が動作するタブレットである。
  • タブレットとしてもノートPCとしても使える。
  • スリープモードから直ちに復帰する。
  • ディスク容量は大きくはないがクラウドサービスを使えば全く問題はない。
  • デジタル・スタイラスを使った手書きの使用感は、追随性能、筆触感などトップレベルである。
  • 瞬時に立ち上がるOne NoteはMetaMoji Noteなどの競合ソフトと比べて決して悪くはない。

Windows7(64 bit)では何故か正常に動作しなかったMaximaも問題なく走り、データ解析ではRStudioを不具合なく使っている。Pycharmも走る。PowerShellもある。Windowsでできることは何でもできるタブレットというポジションは確かに強力である。

名誉回復という意味で再レポートしておきたい。


2016年2月23日火曜日

覚え書: 法治主義国家の宗教は?

4年前にもなるが、こんなことを書いたことがある。

話題は次の報道だった。

天台宗総本山の比叡山延暦寺(大津市)が指定暴力団山口組(総本部・神戸市)に対し、寺内で安置し ている歴代組長の位牌への参拝を拒否する通知を送っていたことが17日、分かった。延暦寺では平成18年、山口組歴代組長の法要が営まれたことが発覚。今 後の法要を拒否する方針を表明しながら、その後も少人数の参拝は受け入れていた。近年、暴力団排除の機運が高まり、ようやく“絶縁”に踏み切った格好 だ。 
 延暦寺では18年4月、初代~4代目山口組組長の法要が阿弥陀 堂で営まれ、全国の直系組長ら幹部約90人が参列。滋賀県警が前日に中止を要請したが、延暦寺は「慰霊したいという宗教上の心情を拒否できない」として応 じなかった。(出所: MSN産経ニュース2011.11.17 14:39配信)
 これに関して、次のように書いている。
小生がずっと縁を有している宗派は浄土宗であり、延暦寺は天台宗なのだから、考え方が異なるのは異なるのだろう。しかし浄土信仰を宗派として開 いた法然は延暦寺で勉学した。そもそも延暦寺は日本の大乗仏教の総合大学とでも言える存在で、歴史に名を残す仏教思想家の多くは比叡山出身である。だか ら、延暦寺と浄土信仰とは全く無関係というわけではない。

倉田百三「出家とその弟子」は今でも中学生向けの推薦図書リストに入っているのではなかろうか?その最初の扉には
極重悪人唯称仏  我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見  大悲無倦常照我
の 正信念仏偈の仏句が掲げられている。この「出家とその弟子」という戯曲の主人公は親鸞である。親鸞が法然の弟子であり、現代日本でも最大の信徒を有する浄 土真宗の宗祖となったことは、歴史の授業で必ず登場する事柄だ。その親鸞といえば、どんな言葉を思い出すだろう?教科書にも登場しているので誰でも知って いると思う。

善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや

である。善人が極楽浄土で救済されるというのに、悪人が救済されないはずがないという文意だ。決して逆ではない。悪人すら救済される以上、善人が救済されないわけがない、こう言っているわけではない。あくまでも、悪人こそが救済されるはずなのだという思想である。
そして最後にその時の疑問を提示している。
さて、延暦寺は暴力団参拝を拒否するとのことだ。上に引用したような、悪人の魂をこそ救済しなければならないという思想は、この措置からは到底窺うことはできない。そんな考えは捨てたのか?もともと、そんな思想は天台宗にはなかったのか?
***

 不倫、家庭内とデートの二つのDV、覚醒剤、おれおれ詐欺、ブラック企業等々、現代型悪行が毎日報道されている。特に、組織暴力団が関係してくると、その人間は社会から抹殺される。法に反した以上はそれも当然であると世間も疑問に思わないようだ。

が、小生は極端なほどのへそ曲がりだ。

法に違反した人間は、事実上、社会から退出させる。復帰させない。法に反する事業を展開している「闇の事業主」には存在位置を与えない。裏社会なるものは許さない。あくまで否定する、と。

小生もこのロジックに反対はしない。ただ悲しく、情けなく、その器の小ささに失望するだけである。

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悪行を重ねる人間は悪行を重ねて生きるという正にその点でそんな運命を負って生きている。そのこと自体が汚辱であり苦しみである。畜生餓鬼の世界に沈んで生を送っているのである。だからこそ魂の救済の対象として真っ先に選ばれる。これが親鸞のいう悪人正機説の核心であると理解している。

悪行を重ねることなく、善い人生を送っている人は、人から親しまれ、友人に恵まれ、仕事でも成功し、家族とも円満に生を送る可能性が高い。であるが故に、その人はこの世において既に報酬をもらっているのであって、善人であるが故に来世においても救われる資格があると考えるとすれば、それは傲慢というものだ。

こんな思想は、日本の他力本願思想に限らず、バイブルの中にも窺われる。成文法を遵守しているか否かという視点とは別に、ドブ川のような空間で生きる人にこそ神の救いの手をみるという発想は国や民族を問わず広く人間社会にあるのだろう。

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 本来は、成文法を遵守するという法治主義と信仰する神(唯一神からもしれないし、阿弥陀如来かもしれず、あるいは八幡神かもしれないが)という次元の違うこの二つの観点は、方向が重なり合わないX軸とY軸のように交差して、現実社会を規律づけていたはずだ。

ある面では法により統治し、別の時は宗教的感情から裁定する。そのバランスに苦心してきたのが現実の歴史である。どちらか片方に偏ると、この世は非常に生きづらくなる。 そう思っているのだな。

だから、暴力を旨とする反社会的悪人がもしも魂の救済を求めて六字の名号を唱えたいと寺を訪れれば、社会の法に反して生きているかどうかにかかわらず、阿弥陀如来による救済を願う権利はある、というよりその種の人間こそ真っ先に救われるべきなのであるから、寺は迎え入れるべきである。宗教はその種の人を受け入れることをこそ任務としている。それが憲法の定める信仰の自由でもある、と。そう思っているのだな。


江戸期の大学者・新井白石は『読史余論』の中で、国家を覆すほどのエネルギーが宗教にはあった点をあげ、しかし織田・豊臣から徳川政権の下で概ね宗教的勢力を押さえ込むことに成功した。しかし、一向宗(=浄土真宗)だけは完全な押さえ込みに成功しないまま今日(=綱吉から家宣にかけての時代)に至っていると。そう書いている。

とすれば、(明治維新以後の近代化の激動の中でこう見ていいかどうか確信はないが)天台宗のような平安仏教や奈良仏教はもはや死火山なのかもしれないが、国内最大の信徒数をもつ浄土真宗はいまだ休火山であるかもしれず、誰かカリスマ性のある指導者が登場すれば、再び社会を動かすほどの熱狂に至る可能性はある。

格差拡大の時代の中でそんな宗教的熱狂の十分条件が整いつつある。そう思ったりしている。


2016年2月21日日曜日

統計音痴の一例: 介護施設の虐待件数

TVのワイドショーを見ていると、果たして介護施設内で発生した事件が話題になっていた。

そこでは虐待件数の急増ぶりが折れ線グラフで示されていた。

何か、老人虐待がどんどん増えていると言いたげである。


しかし、この話し、半分は真実かもしれないが、半分は誤解。というより嘘である。

そもそも高齢者の人口が増えれば、介護施設も増えるのは当然だ。そして介護施設が増えれば、母数が増えるのだから、虐待件数が増えても当然だ。

人口が2倍になって自動車の台数も2倍になれば交通事故も2倍に増えて当然である。人が倍になれば、窃盗事件、殺人事件の件数も増えるだろう。

こんな風にあからさまに言ってしまっては実に身もふたもないのだが、この世の現実は善いことばかりではなく、悪いこともある。現実を管理するには客観的事実をまず達観することから始めるべきであろう。

余計な道草を記してしまったが、つまりこうだ。

故に、介護施設の運営状況について何かの知見を得たいなら、虐待件数を介護施設数で割って標準化しなければならない。

また老人が虐待を受ける可能性について何かを知りたいなら、虐待件数を高齢者人口で割った数字を見なければならない。


主要経済指標の一つである全国百貨店販売額をみるときも、必ず店舗調整後販売額をみる。なぜなら百貨店の店舗数が増えれば、その分販売額は増えると予想されるからだ。だから所謂「客足」の好不調を判断するには店舗調整後の数字をみる。ただし、これにも異論はあって店舗調整後販売額は百貨店の経営効率をみるための指標であるという人もおり、その人は店舗調整前の数字を見るべきだという。確かにそれも理屈だ。

なので、虐待件数の生の数字にも読み取るべき社会的メッセージはある。それだけ多くの虐待が世の中で発生しているという事実に変わりはないということだ。この事実は、それだけで社会全体としての幸福に大きな影響をもたらすに違いない。しかし、だからといって個々の介護施設の運営の中で過去よりも多くの虐待行為が発生しつつあると示唆されるわけではない。それを言うには施設数調整後の数字をみなければならない。

個々の介護施設がいかに真剣に誠実に運営されているとしても、総数としては虐待事件が世の中で増えていく。それは将来の人口構造を考えれば、いまから当然に予測される。多くの人はこの予測に反対しないと思う。

であれば、当然に予測されることについて、その一々を善い悪いと評価しても仕方がない。少しでも予測を下回るように、施設運営システム、価格戦略、メニュー戦略、それに従業員の待遇等々、これらを少しでも改善していくしか道はない。 これが実行可能な努力目標だ。

総数としては、それでも望ましくない数字が結果としては出てくると思うのだが。

いずれにしても、到達可能な目標を設定するべきであり、絵に描いた餅を現場に強いるべきではない。

【加筆】 ここまで書いてきて、念のため統計データをあたってみた。各種介護施設が混合されており、また虐待についても様々なカテゴリーがある。ザックリと言えば、上のように言えるが、実際に施設数を調整した数値を算出するのはTV局のスタッフには難しいと思う。右から左には出ない。この件については、改めてまた覚え書を投稿したい。それにしても日本の統計ポータルサイトe-Statの使い難さはどうだ。最初から統計データの名称がわかっている場合はスラスラと検索結果が出てくるが、それは作成官庁のサイトからでも入手できる。データの名称すらわかっていない場合にポータルサイトが役立つはずだが、一番必要な時にほとんど助けにならないのがe-Statである。アメリカのData.govと比較する気にもならない(2/22)。

2016年2月20日土曜日

陳腐な話題: 個人情報保護は絶対か?

今さら『個人情報保護は絶対か?』という質問ほど退屈な問いかけはない。10年前も5年前も、そして今でも、時によりけりという答えと、絶対不可侵だという回答は、同じ程度に分布していると思うのだ。

いまアメリカのFBIとアップルが対立している。捜査の必要からiPhoneが保護している個人情報(通話履歴とかメールとかメモとか、その他諸々のデータだろう)のロックを解除するソフトを提供してほしいと捜査当局が要請したというのだな。で、アップルは拒否した。メディアでも盛んにとりあげられている。

確かに、パスワードを知らないまま5回だったか、いや今では10回になったのか、ログインに失敗すれば全データが消去されるように設定されていることもある – 現に小生はそうしていた。

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小生はアップルの姿勢に共感を感じる。

しかし、(よく考えてみると)小生の本音、というかずっと持ち続けてきた自分自身の意見とは違うことに気がついた。

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それは後で述べるとして・・・

日本でも10年ほど前に導入された個人情報保護法。あの時、日本のメディア業界、及びいわゆる「有識者・知識人」はおしなべて法制化には反対だった。理由は報道の自由を侵害する可能性があるというものだった(と記憶している)。

上のロジックに立てば、その時「個人情報保護法案」に反対した日本のメディア業界は、今回のFBI対アップルの対立ではFBIの立場を支援しなければならない。

特に今回は犯罪捜査という公共の利益に基づいている。

しかし、個人情報保護は絶対に必要であるという立場もある。その立場にたてば別の意見になる。

公共の利益が先だって?そんな理由は口先だけで意味がない。もし今回のケースで可とされれば、捜査当局は、犯人でなくとも、捜査当局が必要と考える個人なら誰であっても、個人情報を侵害しても良いと考えるに違いない。それは明白だからだ。

クレディットカードの使用履歴はすべて当局の手元にある・・・嫌だという人はやっぱり多いだろう。

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小生もまた個人情報保護法案には実は反対なのであった。というより、厳密に言えば、無関心であったと言うべきだろう。

というのは、小生のことを(どんな理由でか)調べられても、確かに気色は悪いが、何も困ることはないからだ。

知りたいなら、どうぞお調べになっておくんなせええ。困ることはなんもござんせん。そんな感じだ、な。

男子たるもの、一歩敷居を跨げば七人の敵あり。幾つも別荘をもっている富豪なら、自分の現在位置、保有資産、事業内容などは、いわば私的な軍事機密のようなものだから、隠しておきたいはずである。

持っていないっていうのは、弱みもないということなのだ。

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とはいうものの、金銭取引など勝手にハッキングすればそれは犯罪であると。この位の認識は制度化してくれないと困る。

それでもなお、知りたいなら勝手にどうぞ、と。しかし、もしも不正に情報を利用して私に損害を与えたなら、それは10倍返しだよ、と。当局に告発するからね。それで、当局は取引経路を何の手続きもなしに、いくらでも調べられるのだからね。しっかり賠償してもらうよ。

こんな風に、知りたいならどうぞ、しかし損害はしっかり10倍返し(ひょっとすると、100倍返し?)ですよ。このほうが世の中、ずっと活性化されて、面白いと思うのだ。大体、秘匿しておきたい個人情報、他人に知られると本当の意味で困る個人情報、そんな情報の多くは何らかの意味で当人の弱みにつながる情報ではないだろうか。この情報は漏えいの恐れがあると思えば、それでも隠す方法を考える人もいるだろうが、多くの人は「止めておくか」と思うだろう。これは他人の目が社会的規律として作用するという意味でもある。

事後的な損賠賠償を厳格化する。その反面、情報はそれ自体としては緩くする。このほうが小生の感覚にはマッチするのである。

故に、感覚的には「守るものは守る」と言っているアップルの姿勢に共感するのだが、昔から個人情報の保護なんて必要ないって言ってたよねと言われれば、確かにそうです、と。ということは、FBIに教えてもいいんじゃないの。そんな結論に個人的にはなってしまうのである。

珍しくも、メディアが多分とるだろう立場と小生の個人的意見が合致する見込みが出てくるわけだ。

★ ★ ★

それにしてもアップルという企業は度胸がある。ここに最も感心した。

仮に東京地検特捜部から協力依頼があったとして、その依頼を蹴っ飛ばせる日本企業があるか。犯罪捜査であっても守るものは守ると、NTTDoCoMoは言ってくれるか、AUやSoftbankは言ってくれるか・・・、個人情報保護法があるとしても実に心もとない。

大体、いまでも「必要性があれば」匿名のスパムメールが誰から送信されたものか、そのくらいなら警察に相談すれば、警察がプロバイダーから情報をとってくれるそうだ。

そんなお国柄だからねえ・・・。

2016年2月18日木曜日

リアルの"Amazon Books" ー これは行きたい

電子書籍の雄であるアマゾンがリアルの書店を大量に出店するという報道がある。
米インターネット通販大手アマゾン・ドット・コムが実際の書店400店を出店することを計画している。既存の書店との戦いの最前線に切り込む動きだ。
一部を引用しているのは、本年2月12日付け日経記事である。

★ ★ ★
■400店舗が目標
昨年11月にシアトル郊外に設置したアマゾン書店1号店(C)Shutterstock
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昨年11月にシアトル郊外に設置したアマゾン書店1号店(C)Shutterstock
 アマゾンの計画を認めたのは、米ショッピングセンター運営大手ゼネラル・グロース・プロパティーズのサンディープ・マスラニ最高経営責任者(CEO)。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルが2日付で報じた(注:マスラニ氏はその後、自らの発言はアマゾンの計画を反映していたわけではないと訂正している)。マスラニ氏は決算発表で客足について質問され、「アマゾンは実際の書店を出店する計画だ。私の理解では、300~400店舗を目標に掲げている」と答えた。
 だが、こんなことが本当にあり得るのだろうか。米ボーダーズなど老舗の書店チェーンを経営破綻に追い込んだに等しい企業が、デジタル時代以前の遺物が残したギャップを埋めようと考えるだろうか。実際には、それほど不自然な考えでもない。
 アマゾンは数カ月前にシアトルに初の書店を開店したばかり。1月にはオンラインで注文した商品を受け取り、同社の最新の機器もチェックできる有人の拠点をカリフォルニア大学バークレー校に開設した。年内に他の大学にもこうした拠点をオープンする方針を明らかにしている。

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Amazon Booksともなれば、書籍の他に”Kindle Fire”やら”Fire TV Stick”やら、Amazonが製造販売している今風の小道具の実物も展示され、そこで簡単に手に入るようになるのだろう。

店内のデザインがどんな趣味になるのか。それは進出してからのお楽しみになるが、もし日本店第1号が開店すれば、小生は東京まで見に行くかもしれない。

手に入ればいいという場合と手に触ってから買いたいという消費者の動機のバランスをとるには、やはりリアルの現場は販売戦略として必要だ。

楽天市場も最近は大手デパートとコラボして成功している。

電子商(e-Commerce)市場は、リアルの小売市場への浸潤、さらにはネットの中に現出する仮想現実店舗、つまりバーチャル空間の設計。この二つが競争優位に立つためのキーポイントであることが段々と見えてきた段階にある。



2016年2月17日水曜日

経済データ・天気予報と生活実感

小生が暮らしている町では昨晩から今朝にかけてまとまった雪が降り、住んでいるマンション駐車場には、今朝、除雪車が入った。除雪車が入ると、車を移動しなければならないので、アタフタする。できれば来てほしくない。

天気予報をきいていると、今日もまた深夜にかけて20センチ、明朝までに20センチ降る可能性があるという。

ヤレヤレ・・・、一軒家に暮らしている人に比べれば、そりゃあ遥かに楽だ。それにしても、2月は暖冬になるという予報ではなかったかいな・・・ぼやきも出るってものだ。

★ ★ ★

そういえば、今冬の長期予報はエルニーニョ現象の影響で暖冬であると、特に西日本は暖冬であると。北海道は「暖冬」とまではいえず、平年並みということであったが、厳しいという予報ではなかった。

確かに、12月は少雪傾向であり、スキー場はどこも心配していた。それが年末、年始にドカ雪が降り一安心したそうだが、その後はプラス5度、プラス8度の日もあったから、困っただろう。ジェットコースターのような気温、それがこの冬の特徴だ ― 幸いにして、「雪まつり」や「雪明りの路」開催期間中は、ハラハラと雪が舞う、祭り日和が続いたが。

マンション管理人のYさんによれば、除雪車出動の依頼回数は昨年より少なくなるだろうと思っていたところ、だんだん追いついてきて昨年並みになりそうだということだ。

Yさんと一緒に除雪を手伝っているKさんは、「それでも今年は雪少ないよ。今年は屋根の雪下ろし、まだやってないもん。去年はいまの時期、もう2,3回はやったからね」。

つまり、降るときはしっかりと降っている。それが気温の乱高下でとけてしまう。だから積雪量としては少ないのだ。

雪というのは、とけるときはとけるで危険である。屋根から落雪があるかもしれないし、とけた雪が夜間にはアイスバーンになって車がスリップしやすくなる。歩いていると思わぬところで滑って転倒して骨折することがある。

今年は<危ない冬>なのだ。

★ ★ ★

経済統計でも景気動向指数や実質GDPの、それも季節調整済前期比。消費者物価指数の対前年比もそうだ。

どの経済統計もサッパリ暮らしの実感と合致しない。そんな声をよく耳にする。

それを統計技術的な側面から説明してみても、感覚的に合わないと言われれば、合わないと言う事実はやはり認めなければならない。

だから、最近は街角の声をきく景気ウォッチャーなどというデータもある。

天気予報も同じだろうと思う。確かに、冬季の平均気温をとってみれば、今年は「暖冬」になるのかもしれない。

しかし、平均気温が高いか、低いかで毎日の過ごしやすさが決まるわけではない。それは必需財、贅沢財、公共料金等をすべて含めた価格の平均的変動で暮らしの実感が決まらないのと同じである。

言葉でいえば、この冬は<気温は高めだが荒れた冬>である。

★ ★ ★

雪国の人にとって毎日がどの程度しのぎやすいか。必ずしも気温だけが大事ではないし、降雪量で決まるわけでもない。

冬のしのぎやすさに影響する要因を集計して<冬の過酷度指数>でも作成、公表してはどうか。

ただ、こんな指数を作っても、北日本の雪国の人しか見ないはずだ。故に、国の機関である気象庁が作成する理由は乏しい。

何度も書くことだが、気象庁は基礎的データを整備することに専念するべきだと思う。もちろん大規模地震など国家的見地からとりくむ予報業務もある。しかし、気象予報の大半はローカルな機関が本来は担当するべきだろう。地元住民のニーズを熟知しているからだ。

データ解析技術は産官学のテーマとしても非常に有望だ。心配はまったくない。

冬の厳しさ、夏のしのぎやすさ、花粉飛散状況等々、ローカルな必要性に対応することで住民が大いに助かるサービスは特に気象という分野で非常に多く残されている。

2016年2月16日火曜日

愛 vs 不倫 vs 幸福

世は不倫騒動の真っ只中にある。もちろん某国会議員の不倫騒動が原因だ。いまみているTVのワイドショーでも『不倫って悪いことですか』、『もちろんそうですよ!』というやりとりがあった。


何度も断っていることだが、小生は骨の髄からへそ曲がりである。

ではあるが、何も渡辺淳一的世界を支持しているわけでもないし、太宰的人生をおくろうと思っているわけでもない。

ただ、思うのですけど、不倫を非難する立場もあるかもしれないが、男女の愛はそれ自体としては、この世の中で最も肯定されるべきことだ、と。そうも思うわけだ。


 不倫といえば、(まさか日本人の1ブロガーが引き合いに出すとはご本人は想像もしていないだろうが)クリントン元大統領夫妻。小生も具体的な知識はないし、風聞だけでこんなことを書けばそのうち本稿は削除される可能性もある。ではあるが、ここに記しておくと、世に名高いご夫君の多くの行為は、世間でいう所謂「不倫」とは違うのじゃないかと語る人も多いそうなのだな。ご夫君の元大統領は、育った過酷な環境がそうしたともいえるのだろうが、「異常」なほど弱い立場にある人への「愛情」が強かったそうである。ある日、選挙運動中に窓の外をみると足の不自由な老婆が歩いていた。それをみた元大統領は車を降りて、老婆に駆け寄り、歩行の困難なその人の支えになってあげ、ベンチまでたどり着くと座らせてあげ、老婆の手をとって接吻をしたそうな。単なるパフォーマンスかもしれないが、それにしても「ここまでやるか?」というヒトは多いだろう。これが常識論だろう。また、人を抱擁するというのは日本国外では普通の習慣だが、それにしても(これは元大統領とは関係のない話だが)若い女性を5分間も抱擁するとなれば、しかも同じ女性に対して「異常」なほど親しい態度をとれば、女性も誤解をするし、世間はそれを「不倫」と非難する可能性が高かろう。

要するに、「人はいろいろ」。そういうことである。


人間はなぜ生きているかといえば、幸福になるためであって、社会の一部品になるために生きているわけではない。

社会それ自体に価値があるのではなく、そこで生きている人間が幸福であるかかどうかで、その社会の存在の意味は決まる。

社会というシステムが機能するには、法もあるし、倫理もある。しかし、法を守る、倫理を守るという、そのこと自体に究極的価値があるわけではない。

幸福を実現するにはどう対処すればいいのか。最も大事であるのは、常にこの一点にある。これだけは永遠に真理である。というか、唯一の真理である。

そう思っているのだ、な。

故に、鬼の首をとったように「これは不倫ですよネ」と語っている画面を見ると、「あなた、そんな風に人を非難して給料をもらっているんだろうけど、いい加減にしなよ」と言いたくもなるのである。

2016年2月14日日曜日

日経平均株価1万5千円割れは一月早かったなあ・・・

今年の正月早々から株価の急低下が始まり『さすがにサル年の株価だ』と投稿したのだが、その後もドンドンと値を下げ、最初に予想の限界線として目安においていた日経平均1万5千円も先週末にあっさりと割ってしまった。

新聞の報道では黒田日銀総裁によるマイナス金利導入とか、アベノミクスの限界とか、日本国内限定で株価急落の犯人捜しをやっているのだが、そもそも株価は純粋に金融的な現象ではない。また東京市場が世界の株価の低下を招いているわけでもない。

実体経済が景気後退局面に入ると予想されれば、それに先行して株価は下がるものである。それでなくとも、東京市場の場合、年末総選挙で自民党が勝ちそうな状況であった2012年秋から株価は上昇に転じ、そのまま上昇トレンドを3年余りも続けてきた。下がって当然の時機ではあったのだな。

世界の景気をOECDのComposite Leading Indicatorsでみても世界経済は全体として後退局面に入っていることは明瞭である。



OECD全体として2015年は緩やかな後退局面にあった。景気のピークが公式にまだ認定されていないだけである。先行き懸念は潜在していたわけである。

アメリカはリーマン危機のあと曲がりなりにもジグザグ的な回復を続けてきたが、これも2015年に入ってから変化がみてとれる。FRBは金利引き上げをいつ行うかで結構論議を続けてきたようだが、時機の選択としては上の図を見る限り、遅きに失していると言えそうだ。日本経済もまた同様である。マイナス金利導入も「最後の手段」というなら使っても可という選択ではあったのだ。

脆弱と言われてきた欧州経済は、景気動向指数で見る限りは回復色が強い。

メディアの報道ぶりと数字が示す様子には結構大きな隔たりがあるものだ。

ま、いずれにせよ今回の株価低下は日銀のせいでも、金融政策判断の誤りでもないと思われる。いつものとおりの循環的現象である。

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それにしても、正月頃の予想では3月頃に1万5千円のラインに近づいて、4、5月とその線を更に割り込みながら、もう少し下げるかと予想していた。

日本株が先駆けてまず暴落し、4月から5月にかけてアメリカ株がもう少し下げる、と。そう憶測していたが、どうも展開が1月早い。

日本株はもっと下がるということなのか。底入れ時期が早いということなのか・・・。
迷うところである。


2016年2月12日金曜日

現場における禁句三例

ずいぶん昔のことになるが、仕事に取り組んでいく中でこれは使っちゃいかんという言語表現に(少なくとも)三つの例があることに気がついていた。

  1. 僕(私)だって・・・
  2. 忙しくって・・・
  3. 無理だって・・・
この三つだ。現場ではいまでも頻繁に耳にするのかもしれない。

上の#1を使うと、大事な議論を本筋から外してしまうことが多い。故に有害である。#2は論外である。#3も不誠実である。不可能である理由を具体的に示すべきである。そうすれば、可能とするための工夫を発見する道筋に立てる。

だから、上の三つの言葉を使われると、小生は真面目に対応しないことにしてきた。とはいえ、若い頃は、恥ずかしいことに多用していた記憶がある。というか、年若で配属されると、まず上の三つの言葉を真っ先に覚えるような気もする。

組織を不活性化するマジックワードなのだろう。

2016年2月10日水曜日

年齢と病院

先週はずっと福島・いわき市に滞在した。その前の週は腸炎でずっと床の中に居た。1月から2月まで本来は多忙だったが、まるで花火のように担当している仕事を代わってもらったり、強引に欠席したりで、暦はいつの間にか2月の中旬だ。

前の日曜に帰ったときは毎日服用する薬がちょうど切れるタイミングだった。

月曜は、泌尿器科にいって前立腺の薬を処方してもらった。次回行くのは春の彼岸に近いころだ。今日は市の総合病院の眼科にいってドライアイとアレルギー性結膜炎の薬を出してもらった。腸炎の薬は先週の金曜日できれている。ただ、腹痛はおさまっているので、市販薬のザ・ガードを飲んでお茶を濁している。おかしくなったら、また消化器内科に行かずばなるまい。

年齢が増すと世話になる薬も増える。いく病院も増えて、仕事の時間を圧迫する。「長寿社会」といえば聞こえはいいが、福禄寿が保障されているわけではない。むしろ現実には長寿リスクが顕在化しつつある。

長寿は日本の自慢の一つらしいが、GDPと同じで、平均寿命が長くなったから日本人がより幸福になるとは限らない。要するに、数字の上の話しだ。

成績確定作業をしなければならないが、気持ちがまだ仕事モードに戻らない。

2016年2月9日火曜日

覚え書: 俳句2句

芭蕉の名句に

旧里や 臍の緒に泣く としの暮れ

がある。確か『笈の小文』ではなかったかと記憶している。

この句自体はずっと好きであった。

が、実に迂闊なことに、「としの暮れ」とは芭蕉が旧里である伊賀上野を訪れた暦の上のことだと思っていた。

旧里の家で自分が誕生した時のへその緒を見て、亡き両親を偲ぶ心情がこめられている、と。そう理解してきたのだが、もう一つの意味もある。

自分の人生もまた、年が暮れていくように、こうして暮れていく。年の暮れという言葉には、自分の晩年を意識する芭蕉自身がいる。月並みに言えば「来し方、行く末」を思い、親を思い、漂白に暮れた自分の人生を振り返って、生あるものの儚さに涙をこぼす。まさに諸行無常にして歳月匆々。それでもなお、自分はいま現世におり、生きている。そんな「もののあはれ」に感じる心情もまた感じとれるのだ。

そういうことではないかと、気が付いた次第。

夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡

一場の夢のような人の生を思う心情は共通している。芭蕉の句に流れる意識は時間である。永井荷風の随筆とも相通じるモチーフだ。

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これ以上書き込むと理屈っぽくなる。今日はこの辺で。

2016年2月8日月曜日

挽歌 -池の畔

『そうか、もう君はいないのか』というエッセー集がある。が、小生には、そう必ずしも思われない。


上のエッセー集は作家・城山三郎が亡妻を偲んで綴ったエッセーをまとめた遺稿集である。TVでも放送されたことを記憶している。

その立場に他ならぬ実弟が置かれることになろうとは若いころに誰が想像したであろうか・・・と、こんなことを話しながら、小生はカミさんと昨日北海道に戻ってきた。


愛する人を失ったとき、流す涙がすべて目にあふれ出るわけではない。

流す涙の半分以上は心の中に流れ、やがて涙の池ができる。

心の傷はとじることなく池がかれることはない。

池の畔に、愛する人の魂が住まいをみつけ、そこに生き続けるのだ。


人生には春夏秋冬がある。

長い人生にも、短い人生にも、四つの季節があるものだ。

思い返すと、いつの間にか人生の夏が過ぎ、穏やかな秋をおくったあと、冬を迎えていたのかもしれない。周りのひとは、まだまだ夏の終わりと思っていたが、人生の季節ははやくも一巡りしていたのだろう。

人はいろいろな理屈をためしては起こった事実を解釈しようとするものだ。親しい人の死に面しても人の傾向は変わらない。

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今日は勤務先で試験監督の仕事がある。日常生活は、1日24時間、変わらぬ速度で回っている。

2016年2月4日木曜日

福島・いわき滞在4日目

今週月曜から福島県いわき市に滞在している。弟の恋女房が急逝したのだ。その急報が弟からあったのが2月1日、月曜早朝の電話であった。

『悪い知らせなんだけどね・・・あの・・・H美がね・・・死んだんだ』
『エッ!・・・・・・』
『昨日(1月31日)の夕方、5時39分。大動脈解離だって』

これだけを記録しておけば、何年たっても、その後のやりとりや、その時の気持ちを思い出すには十分だ。

14時のエアドゥの空席が運よくあったので、羽田経由常磐線で駆け付けた。今週は週半ばに最終回の授業があり、その後は毎日学部の定期試験の監督が入っていたが、授業は休講、試験監督は旧知の同僚に代わってもらった ― もちろん休講した授業には補講をするわけだ。

先週来、小生は腸炎で、加えて「一度殺菌しましょう」というので抗生物質を服用し、そのため絶え間のない下痢、というか便意に憔悴していたので、旅行は本当に大変であった。

いま福島県内のホテル事情は原発処理事業関係もあって、外からどんどん人が入ってきているということで、どこも満室状態で、1週間の滞在場所を確保するのは実に大変であった。

初日は弟宅に近い勿来の隣駅にある「ホテルみどり」がとれたが、その後はいわき駅前に移った。火曜、水曜が東洋ホテル、本日木曜から三泊がセレクトインである。

腹の痛みは次第にとれてきている。今日の夜は「大石」という店で鍋焼き饂飩を食った。結構大きな鍋でこれだけ食べてなんともなければ大丈夫だとカミさんは話している。

後から入ってきた男女連れが後ろの席に座ったが、話をきくともなく聞いていると、どうも小生とは同業の人たちらしく、年長の男性は原子力関係の専門家、どこかの大学で授業も担当している様子であり、女性のほうは新しく来た若い人で、この地域の大学事情をいろいろと教えてもらっている。そんな雰囲気で、カミさんもすぐに旦那と同じ職業人と気づいたそうである。

その大きな鍋焼きを食ってすでに3時間。特に何ともないので、腹のほうは北海道に帰るまでもちそうだ。