2019年7月7日日曜日

「世論」が重要である場合とはどんな場合か?

参院選挙前であるし、激化の一途にある日韓関係もあり、本日投稿は思いつくままのエッセーとして。


「国内世論」はどこで形成されているのだろう?

この問いかけである。

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こう聞かれれば、回答は幾つかに分かれるに違いない。

昔なら新聞、更には総合月刊誌でほぼ決まりだった。しかし、最近は毎日放送されるワイドショーや夜のニュース特番がある。そしてネットである。

が、どの媒体も世論形成の場としては一長一短で不完全。それが実際の状況だろう。

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ずっとTVや新聞、ネットをフォローしていると、特に米英 ― というのは仏独となると言語面での障壁が高くてとてもじゃないがフォローできない、その他は言うに及ばず ― のマスメディアと日本国内のメディアを比較して感じる印象がある。

それは日本の場合『誰が正しいのか?』という大前提を先ず置いたうえで、そのあとの議論を組み立てるところがある。少なくとも小生はそう感じることが非常に多いのだ。

少なくとも誰か一人は正しいことを言っているとなぜ言えるのか? ある人が正しいと、それ以外の人は正しくはないのか?……、小生は細かいことが気になる質なので、どうも最近のメディアの話しぶりには分りづらいことが増えてきた。

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『何が絶対的に正しいと無条件に認めておくか』という公理的前提は、議論をするなら必ず最初にしておかなければならないことである。福沢諭吉はこの大前提を<議論の本位>という言葉で表現した。

政治家の批評をするなら、「最大多数の最大幸福がそもそも政治の目標でしょう」という大前提もありうるし、そのときには望ましい政治家像も浮かび上がってくる。しかし「国の安全保障が危うくなって何が暮らしですか」という言い分もある。非常に多数ある理念や価値観の中から出発点となる大前提を確認しておかなければ、同じ問題に対して正解が複数出てくるわけだ。

これではまずい。故に、民主主義国家であれば、誰もが認める大前提を必ず持っているはずである。

その大前提とは何か?

それは、民主主義社会であれば世論がすべての基礎にある。これでしょう、と。そう述べる人は多いと思う。

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小生は偏屈でへそ曲がりであることは何度も断っている。

だから個人的意見を述べるのだが、「世論」が重要であると言えるのは、「政治的意思決定にとっては世論が重要である」ということであって、それ以外に世論が重要だという根拠はない。

大体、世論で科学的研究の結論を出すのは愚かである。家族旅行の行き先を世論で決めるのは余計なお世話である。品物を盗むのは善であるか、悪であるか。これを世論で決めるのは道理に合わない。財産を盗まれても構わない人を世論が選び出すのは非条理だろう。悪いことは悪いと考えるのが倫理であって、多数決の法律一片で悪いことが善くなるものではない。大体、多数を占める人々が昨日までは『善い』と判断していた行為が、今日になれば同じく多数の人が『悪い』と判断する。このような現象はいわゆる<衆愚>と呼ばれているわけで、世論による正邪善悪の判断は信頼できないというロジックになる。なぜ信頼できないかといえば、リアリティの裏付けのない観念的議論を多数決で解決しようとしても、それが正解であることを検証する手段がないからである。

さて、上で言う「政治的意思決定」で追求しているのは、民主主義国家においては「国益」をおいて他にはない。「公益」ともいう。国益とは国民の合計利益である。共有される利益もあれば、私的利益の合計値として表れる利益もある。『どうすれば国益に最も適うのか』という政治的意思決定において、個々人の利害得失は国益の構成要素であるから、一人一人の意見こそ欠かせないキーポイントになる。それを集計した世論は政治的意思決定を行う上で最も重要であるのは当たり前だ。これが基本的なロジックである。

それに対して、『誰が正しいか』という問題について個々人が出せる答えは大半が憶測であり主観である。憶測や主観を合計しても真相にはならない。『何が美しいか』という問いかけも同じである。なので、この種の問題を世論で解くのは不適切である。

端的にいえば、世論が重要であるのは、基本的に利害得失について社会的な意思決定をする場合である。その他の事柄で世論が重要になることはない。そう考えるようになったのは相当以前の事である。

「世論」が重要であるのはどんな時か? 常に「世論」が重要であるわけではないという当然のことに気がついて、小生は幾らかスッキリとした気分になったものである。

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WSJやTelegraph紙などを読んでいると、『米国としてはどうするのが得であるか?』、『英国としてはこうすると失うものが多い』等々、<利害得失>について国民が考える素材が提供されていることが多い。各紙とも党派色を持っているので純粋に客観的・科学的であるわけではない。が、特定の観点にたった利害得失上の見通しが筋道に沿って述べられている(ことが多い)。そこが、小生、非常に羨ましいのだ。

それに反して、日本で最近頻繁に行われる議論は

誰が正しいか? 
どちらが間違っているか?

こんなパターンがあまりにも多いのではないか。まったく……クイズ番組に登場しているのではないのだ。

上に述べたように、世論が正邪善悪の問題に答えを出すのは筋違いであると小生は思うようになった。というより、世論にそんな能力はないはずである。

過半数の日本人が「この考え方は正しい」と口にしたところで、本当に「この考え方は正しい」と結論できる根拠は小生には想像できない。半分以上の日本人が『ピタゴラスの定理は間違いだ』といったところで何の意味もない。3分の2を超える日本人が『明日は全国的に晴れるだろう』と言明したところで信ずるに足りない。全ての日本人が『うそをつくのは悪いことだ』と断定したところで、個別のケースで『本当の事は言わず、こういうことにしておこう』と考える人が多数出てきて世論はなかったことになる。

結論が明らかではない社会的問題の中で誰かが完全に正しいことを言うのは稀である。にも関わらず、誰それが正しい(と思われる)と。そう前提する議論は俗にいう<先入観>であって、<偏見>であることもある。

他方、(例えば)日本の道路交通法を改正して自動車の「左側通行」を「右側通行」に変更する議論をするとき、それに便利を感じ得をする人もいれば、面倒で損失を被る人もいる。だから、議論をするべきことは「右側通行と左側通行のどちらが正しいか?」ではなく、「右側通行に変えることによる利益全体と損失全体のどちらが大きいのか?」という問題である。この判定にはやはり個別の利害得失を合計した「世論」が最重要なキーポイントになる。世論に実質的内容が含まれることになる。

政治問題を世論で解決しようとするなら、その政治問題を利害得失を問う形式に落とし込んだうえで国民個々人の判定を待たなければならない。利害得失を問う限りは「世論」なるものに実質的意味合いが含まれることになる。

世論は民主主義の基盤であるが、世論では答えが出てこない問題と世論で解決するべき問題とがある。この点は案外大事な点だろう。ということは、世論に基づく「民主主義」が望ましい場合と、それは無意味な場合と、やはり二つの場合がある。これも意外と気がついていない点ではないだろうか。

民主主義を追求しながら試行錯誤を繰り返した年数の積み重ねの長短によって、「多数の支配(=デモクラシー)」の仕方にも国によって上手下手が分かれてくるに違いない。

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このところ日本のマスメディアが愛用している言葉。

誰が正しいことを言っているのでしょう?

こんな言葉がTV画面から流されるたびに、その不見識に呆れるのだ。

WSJでも、The Economistでも、"Who is right?"などという間抜けな報道を目にすることは、まずほとんどない ― 大体、"Who is right?"という疑問を抱くなら、疑問文などは使わず取材した根拠に基づいて"He/She is right"と明確な結論を伝えるのが「報道」であり「メディア活動」であるというものだ。

そのうち『この絵画は傑作とされていますが、果たして本当に正しく描かれているのでしょうか?』などとドン・キホーテ的妄言をはくプロデューサーがどこかのTV局あたりに出現するのではないかと、小生は妄想を抱くことがある。

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