2019年7月19日金曜日

「われらの敵」をつくる政治戦術は誰が始めたか?

WSJに中々洞察の利いた寄稿がある。特に次の下りは本筋を射ている。

われわれは抑制のない世界に生きている。アイゼンハワー大統領とその人生経験と、トランプ大統領とその人生経験には大きな隔たりがある。そして、核時代からサイバー時代に移行するのに伴って劣化したものは、米国のリーダーシップだけではない。世界的な機関や西側主要国のリーダーシップも劣化した。
(出所)WSJ、2019年7月18日

振り返ってみると、自分たち自身の中に「内なる敵」を特定し、「彼らは敵である」と指さして攻撃姿勢をとる政治戦術は、粗暴な戦前期・日本ではともかく、戦後はずっと自制されてきたように記憶している。その自制を解放したのは小泉純一郎元首相だったのではないか。「抵抗勢力」という一語は、よく言えば新鮮でメリハリがきいてはいたが、戦後論壇に慣れてきた世代がきくと「そこまで言うか、そこまでやるか」という気持ちにもなったものである。

が、更にその源を探っていくと1993年から2000まで米政権にあったクリントン大統領の政治姿勢に行き着くような気がする。彼らのキーワードは「グローバル・スタンダード」であった。また、巷のネット上の書き込みにはヒラリー大統領夫人について次のような一文もある。
かつて元共和党スピーチライターのペギー・ヌーナンは、ヒラリーの「純朴そうな自信」は「政治的なものであり、しゃくに障る」と評した。そこには「自分は道徳的に正しい政治を実践しているのであり、それを批判する人間は、自分より道徳的レベルが低いという暗黙の主張」があるというのだ。
URL:https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2019/01/22.php

言うまでもなくクリントン時代とは冷戦後の世界である。文字通りのアメリカ一強であり、1980年代までの挑戦者(?)であった日本は「失われた20年」の闇を歩み始めたところだった。簡単に言えば、国益と国益の調整が外交であるところに、クリントン時代の米政権は「何が正しいか」という大前提に立って「上から目線(?)」で圧力を加えるようになった、といえば言い過ぎになるだろうか。「何が正しいか」という発想を政治においてとれば、それは「われらの敵」をつくる戦術になる理屈だ。

そんな理屈、アッシにだってわかりますぜ。要するに、誰もが欲しがる「錦の御旗」。お偉い人たちが口にする「大義名分」って奴でしょう?

そういう事である。

ま、冷戦時代には「対決と自制のルール」があった。自制が失われれば世界が滅亡する可能性が高かったからだ。その敵が消滅した。しかし、政治は続く。敵が消滅した後に出現したのは、階層化された自分たちの社会であった。外なる敵が消えた後に敵となるのは、自らに敵対する勢力である。これは正に論理的必然だったのだろう。

とはいえ、このような政治戦術は社会のマネージメントである「政治」においては採用するべきではなかった。これがますます明白になりつつあるのが、最近の状況ではないだろうか。

競争原理は経済学から導かれる理念である。しかし、目の前の敵を屈服させる戦略は政治学からは最適戦略としては導かれないはずである。

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