2019年12月19日木曜日

感想: 年末の「第九」について

先日、隣町の時計台近くにあるコンサートホールで『第九』を聴いてきた。佳かった。ただ、尾高忠明指揮のS響の音はホールの特性かもしれないが、残響の厚みと重量感があり、第4楽章の輝かしさをつくるには向いているが、あくまでも第4楽章という印象でもあった。

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それにしても、第九を聴くのはもう何度目になるだろうか。コンサートでも、レコードでも、CDでも、Youtubeでも、これまで数えきれないほど聴いてきた。

「何度聴いてもいいネエ」とは思う。が、正直なところ先日聴いて改めて気がついたのだが、実のところベートーベンの第九が「面白い」と心の底から感じてきたわけではなかった。本当に感動して涙が滲んだことはない。それほどまで感動したのは別の楽曲である。

意外なことに気がついたわけである。第九の中であれほど気に入っていた第3楽章のアダージョも、全体の中では好きだという事であって、無人島に独りで漂着する時にもっていきたい再生リストの中に入れておきたいわけではない、マ、要するにそれほどではない……。これが小生にとっての「第九」である。こんなことに改めて思い至ったのが先日である。

好きだ、好きだ、と思い続けてきた人を、本当の意味で愛しているわけではなかったと知る時がいつかやってくるだろうと、「誰かが言ってました」というと、某TVドラマの受け売りになるが、そういうことである。

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日本の年末は(事実上)『第九』しかクラシック音楽の公演がない。なのでクラシックを聴いて一年を締めたいと思っても『第九』を聴くしかないという状況だ。

もし同じベートーベンの『英雄(Eroica)』があれば、小生は確実にエロイカを聴く。こちらのほうが「ゆく年、くる年」を想い返す年の瀬には相応しいと感じる。個人的には、である。更にいえば、歳末特有の賑やかで輝かしく、一面では何かが過ぎ去っていくことに淋し味を感じ、今が愛おしく想うような気持ちにピッタリと合うのはむしろモーツアルトの38番「プラハ」ではないかなあ、と。そんな風に感じることもある。もちろん個人的には、だ。もし、いずれか交響曲をということならハイドンの交響曲101番「時計」が最初にあり、そのあとモーツアルトの38番「プラハ」、最後に41番「ジュピター」というプログラムであれば、先日の「第九」の2倍の価格であってもチケットを買うと思う。もちろん「個人的には」であり、主観的な需要者価格であるに過ぎない。ではあるが、上のような演目であれば、小生は正に「天上に昇る」ような高揚感を感じるだろうことは間違いない。

すべて「個人的な」感想である。ではあるが、「第九」もまた現代日本ではビジネス・ミュージックとして提供されているのであるから、もっとマーケティング・リサーチをしたほうが良いのではないか。そうも思われるのだ、な。

ある意味で、日本のクラシック音楽界は『年末には第九』という制約を課されている。その分、年間スケジュールが不自由になっているかもしれない。オーケストラ編成を決めるにも制約があり、年間の演目編成においてもまず年末が固定されるので個性化、差別化がやりづらいかもしれない、と。そんな要らぬ心配をしてしまう。

西洋では歳末に「第九」を聴くという習慣はない。むしろクリスマスを間近に控えた歳末は、クリスマス・オラトリオやカンタータ、ミサ曲など教会音楽の方が季節には合っている。日本で「第九」が盛んなのはキリスト教が普及していないから、と小生は理解している。ま、ベートーベンが作曲した「第九」の第4楽章「歓喜の歌」は宗教を問わない汎人類的色彩を帯びている。なので、極東の異教徒・日本人の感性にも受け入れやすいという事情はあると思っている。

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先日聴いたS響も相当の大編成だった。19世紀も後半に入るブルックナーやマーラー程ではないにしても、ベートーベンも「第九」になると、オーケストラ編成は18世紀音楽に比べて大規模になる。先日のS響もコントラバス5台(それとも4台?)が入っていたので驚いた。

しかし、交響楽団を大編成にすると、年間稼働率を維持するために又々プログラム編成に影響が出てくる。ロマン派に重点がかかってくる。本当は現代日本のクラシック・ファンは、18世紀のバッハ、ヘンデルはもちろんハイドン、モーツアルトもまた好んでいると思うのだ。その18世紀音楽は小規模でよい。ホールの定員もずっと少ない方がよい。そもそもモーツアルトの器楽曲はほとんどがザルツブルグの宮廷で貴族たちを聴衆にして演奏されたものである。ベートーベン以降のロマン派音楽のように、発達した市民社会で盛況を極める大コンサートホールで不特定人数を前にして鳴り響かせるために作曲されたものではない。モーツアルト、ハイドンの音楽なら先日の「第九」で入った半分の人数で足りるはずである。

「第九のワナ」である。

小生は、もっとモーツアルト、ハイドンの協奏曲や交響曲を聴きたいと願っている。現代日本のクラシック・ファンもモーツアルトをホールで実際に聴けば、そのシンフォニックな響きの深さと厚みに魔法のような驚異を感じるに違いないと信じる。

しかし、一度、大編成の交響楽団を持ってしまうと、常に年間収支をバランスさせることが経営管理上の主目的になる。フル編成の公演回数が多いと、小規模編成の第2オーケストラを編成して、フル編成とは独立して活動させるのは中々難しいかもしれない。それでも、フル編成の公演はもっと回数を減らして、チケット価格を上げてもよいから、小規模編成の曲目を増やしてほしいものだと小生は思う。

オーケストラは19世紀のロマン派全盛の中で次第に大規模化した。しかし、20世紀の後半から、特に21世紀に入り逆方向への流れが生まれているように思う。200年以上も昔の音楽をその時代のリアルな響きでもう一度聴きたいと思う人が増えていると思う。その時代、実際に聴くことが出来たのは宮廷に入ることができる貴族達だけであったのならば尚更の事である。

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