小生の亡くなった母は10代には戦争中だった。毎日、勤労奉仕ばかりさせられたそうである。みな同じであったが、戦後になって行政を不服として訴訟が起こされたというのは寡聞にして聞いたことがない。戦後になると食べるものは乏しく、父と結婚をしてからも狭い社宅で暮らし風呂は共同で時間を決めて交替で入浴したそうである。色々と気兼ねをする毎日だったろうなあと想像する。まあ、皆同じだったといえばその通りだが、母が若かった時代もやはり「生きづらかった」といえば言えたのではないだろうか。現代でも「つらいどころか生きているのが危険である国々」は決して少い数ではない。
しかし、母は戦時中や戦争直後の時代は辛かったとはあまり話しをすることなく、それよりは「女は三界に家無しなのヨ」とよく小生には話していた。
息子に何度も話すのだから、よほど情けない思いをしていたのだと推測される。「三界」とは、人生を幼い時代、壮年時代、老年時代の三つに切り分けた三つの時代という意味であったようであり、女性は幼いときは親に、大人になれば夫に従い、老いては子に従う。それが定めである、と。要するに、女性は自分では生きてはいけない、と。そういうことであったらしい。
これだけを聞くと酷いネエと思う。
***
とはいえ、当時から小中学校では女性教諭が増えてきていた。芸術、文学等の分野ではずいぶん女性が活躍していた。医学教育を目的とした女子医専も幾つかあり女性だからといって教育機会が得られないという状況ではなかった。が、もちろん社会に「男女差別」はあるにはあったのだ。そもそも「男女七歳にして席を同じうせず」というのは性差別の完璧な一例であるには違いない。むしろ差別というより分離の感覚であったかもしれない。だから近代になってから混雑する都電の車両の中で男女が混在する状況は日本人の感覚では許容できないはずだと考えたことが小生はあった。しかし、この点は江戸期の老中・松平定信が衛生上の懸念から新たに銭湯男女混浴禁止令を出すまでは日本人にとって混浴は自然の習慣であったことを知って理解できたように腑に落ちたものである。
他方、「これは男性が受け持つべし」と明確に意識されている役割もあったようだ。例えば戦前期、それも戦争前は学校が生徒の親と連絡をとる場合は父親に対して行うのが原則であったという。教師と何かを相談するときも父親と面談するのを当然としていたそうだ。育児の責任は最終的に父親がもつという感覚は、言うまでもなく「家制度」に由来していたに違いない。町内の集会も男性が出席をするのが慣行であったそうだ。よく「前時代的な言い方」の代表として「男は外で仕事をし女は家を守る」が挙げられる。この言い方がこれほど頻繁に使われていたのは、ほぼ100パーセント、文字通りにこの言葉が当てはまっていたのが戦前期・日本社会の雰囲気であったことを伝えている ― 少なくとも太平洋戦争が日本の社会を変えてしまうまではそうであったに違いない。
「男子厨房に入らず」という言葉も有名だ。祖母がよく口にしていたので小生も世代的には周辺部にいるのかもしれない。しかし、この言葉も多少曲解されている一面があるように感じている。むしろ「ここは女の仕事場」というニュアンスもあったようであり、他にも男が口出しをするべきではない世界が色々とあったとみている ― 戦後の日本社会は激しく変化してしまったので、この頃の家庭の雰囲気を支えた生活感覚を小生も体感感覚としては思い出すことはできないのだが。
ずっと昔になればなるほど女性の立場や権利が単線的に弱くなっていたと考えるべきではないと思っている。小生の父方の祖母の実家は「あの家は代々女が優秀で男は駄目だ」と言われていたそうであり、田畑の経営、使用人の差配、家計管理まで嫁入り先で活躍したという話を聞いたことがある。
現代日本で「女性が生きづらい社会」であれば、「男女差別」が強く、「男女不平等」であった昔の日本社会においてはより一層「女性が生きづらい社会」であったという理屈になる。しかし、小生が聴いてきた思い出話の範囲では、これは必ずしも事実ではなかったと想像される。
***
過去に向かってずっと遡るほどに男性は生きやすかったというわけでもなかった。
なにも家を代表して当主が責を追って切腹などと言う時代まで遡る必要はない。小生の母方祖父は次男であったが、次男であったが故に職業選択は自由であり、自身の適性にそって法律を勉強した。ところが兄は家業を継がなければならなかったので商業高校で多少の教育を受けることができたのみであった。「家」を継承する倫理上の義務がなければ別の人生を選択したかもしれない。
「生きづらい」というのは、このようにどこかで「個人」と「社会」とが相克し戦っている状況が、前提としてなければなるまい。ただ、その前提たる状況は社会的な「因襲」から由来するものであり、因襲が因襲たりえたにはそれだけの利益があってそうなった、全ての因襲はソーシャル・マネジメントとして継承されてきたものでもある。そんな事情もあるであろう。
母が「生きづらい」と感じていたのかどうかは分からないが、「女は自分の経済力で、自分の所得で生きてはいけない」ということだったとすれば、それは確かに自分が情けないと感じる理由になったと思う。その感覚は現実そのものを踏まえた感覚であったかもしれないが、森鴎外のいう日本社会の「因襲」がもたらしていた圧力であったのかもしれない。あるいはアメリカのヒラリー・クリントン夫人のいう「ガラスの天井」と同じだとすれば、男女をめぐる問題は洋の東西を問わないのだろう。ではあっても、漱石や鴎外、荷風などの作品に登場する女性たちには暗い影がさしているとは小生どうしても感じられない。ただそこには幸福な男女と虐げられて不幸な男女がいるだけである。むしろどの時代であっても女性は強くてしたたかだ。家族の中でも決して亭主には負けていない。イプセンの戯曲『人形の家』が輸入されてからはそれが追い風となり思想的な基盤にもなったろう。『人形の家』は夫と子を捨てて家を出て社会の因襲を破り捨てる女性の話である。その女性には喝さいがおくられたのだ。
***
そんな「因襲」が現代日本においてもまだ女性たちを「生きづらく」させているとすれば、「近代的なモラルと日本伝来の因襲」とを対比させた鴎外的観察もまだなお意味をもっているわけだ。鴎外中期の名作『青年』などは、まだまだ小中学校で課題図書に指定してもよい。
ただ、どうなのだろうネエ……。いまの日本社会に明治・大正から続いてきた「因襲」などがあるのだろうか?ちょっと疑問だ。
既に21世紀である。熟年離婚も増えている。三下り半をつきつけているのは寧ろ女性じゃないかという印象も小生にはある。財産分与も制度化され、「家」は100パーセント崩壊ずみだ。
だから「生きづらい」のは女性だけなのだろうかと思ったりもする。男性には生きやすいが、女性には生きづらい社会なのだろうか、今は?そんな視線にたつと、小生などは男の子ばかりを育てたせいか、いまは男が生きづらい時代じゃあないか、そう思うことが多いのだ、な。
正直な所、『男性も生きづらくはありませんか?』とアンケートを行ってみたくもある。
因襲的な「家」の中で、居心地が良かったのは男性であったのか、逆に女性であったのか。近代女性解放運動では女性は家の中に閉じ込められた存在であったのだが、幸福度意識調査を行ったわけでもあるまい。小生は、古い時代に生きた祖父や祖母の世代、そのまた親の世代がどのような感覚で毎日をおくっていたのか、リアルな感覚というのが全くない。想像すらもできないのだ。
***
そもそも日本で「生きやすい時代」というのはいつあったのだろうか?
多分、生きやすい社会であれば、満足度も高く、自殺率も低く、訴訟件数も少ないのであろうなあと思う。とすれば、一つのデータとしては毎年恒例の"World Happiness Report"でフィンランド、ノルウェー、デンマークという北欧諸国はトップを占め続けているわけである。ところが、フィンランドの自殺率は、近年低下してきたとはいえ2016年には15.9となっていて国際的には高い方に属する(Wikepediaより)。日本の18.5よりは低いが、イスラエルの5.4、トルコの7.3よりはずっと高い。そのイスラエルやトルコの国民の幸福度が高いとは誰も予想しないだろう。実際には上記の"World Happiness Report 2019"の幸福度ランキングではトルコが79位、イスラエルが13位である。
これだけの違いで大した結論を導くのは危険であるが、どうやら「幸福であると感じる事」と「この世に未練はないと感じる事」の二つはほぼ無関係のようである―順位相関係数などを求めて確認することが本当は望ましいのだが、省略する。
ちなみに日本の自殺率を男女別にみると、男性が26.0、女性が11.4と男性の方がずっと高い。金融パニック直後の2000年の日本で同じ数字をみると、男性の自殺率が35.8、女性の自殺率が13.9である。男性が9.8ポイントの低下、女性は2.5ポイントの低下で男性の方が低下幅が大きい。金融パニック直後の混乱した社会から男性は大きく低下しているが、女性は男性ほど低下していないとみる視点もあるだろうし、そもそも「生きていたくない」と感じている人の割合は女性より男性の方が高いという事実に着目するべきだという視点もあるだろう。今は昔に比べると、「生きていたくない」と感じる人がずいぶん減ってきたという見方もある。
いずれにせよ、幸福度と自殺率はそれほど関係しているわけでもなさそうだ。では、「生きづらい」というのは「不幸であること」を意味するのか、それとも「生きていても仕方がないと感じる」ということを意味するのか?それとも……
この問いかけに小生はいま非常に関心を刺激されている。
亡くなった母の話に戻るが、
つらかった時代は今までにもあったこれだけは否定できないようである。
***
色々と書いたが、「生きづらい」というより
ものいえば くちびる寒し 秋の風こんな感覚を最近は覚えることが増えた。ルール違反の言葉狩り、コンプライアンス、モラルと社会的制裁の横行の故である。
日本人が仕事から解放されて寛げるのは公私の私である空間である。その空間は家族と自宅であるにもかかわらず、そこも複数の人間の集合体として認識され、公私の公が支配する空間であると理解され、法律の適用範囲になってきた。保護されるのは個人情報であり、文字通りの一人ずつの個人であると理解されるようになってきている。このロジックを反駁するのは普通に人には難しかろう。
人間が独りで生きることを強要されれば、淋しく生きづらいと感じるのは当たり前である。
森鴎外が哲学者・ニーチェを所々で引用しているが、どの程度まで共感していたかは不明である。
「自然の合法則性」なるものは、ただ諸君のこじつけと下等な文献のおかげで成立しているに過ぎない。・・・「法則」の前に一切が平等である。これについては自然といえどもわれらと異ならず(投稿者追加:自然も自由気ままではなく法則には従う)、われらに優らない」などというのは小賢しい迷彩であり、その裏には、すべて特権あり卓越する者に対する賎民の敵意や、無神論のより洗練された後継者が隠れている。「神様もまっぴら、殿様もまっぴら」―諸君もこうしたいというのであろう。だからこそ「自然法則ばんざい」というわけだ・・・
上に引用した下りはニーチェの『善悪の彼岸』の22節にある。「自然の合法則性」を「社会の合法律性」、「自然法則」を社会の法則である「法律」で置き換えれば、現代社会のある一面を言い当てていると誰もが思うに違いない。こうしても文意はそれほどは変わるまい。
『善悪の彼岸』は1886年に出版された。19世紀末、「ベル・エポック」(=良き時代)と呼ばれる時代だ。第一次大戦の勃発で全ては崩壊したが、開戦は28年後のことだった。 わずか1世代の後のことである。
0 件のコメント:
コメントを投稿