2019年12月20日金曜日

現代民主主義に関する冗句

レイプ裁判があったかと思うと、セカンドレイプ提訴もなされる模様で、この分で行くと名誉棄損で反提訴→サードレイプ告発→名誉棄損で反提訴→4th レイプ告発と、延々と無限ループが続きそうな見通しである。

そもそもその国の法律に訴えても、どちらが正しいか、どちらが善であるかという問題に解答が得られるわけではない。法律とは要するにその国のローカル・ルールであり、「このように決める」と決めておくという内規に過ぎない。その国のソーシャル・マネジメントのツールである。法の根底に普遍的な哲学があると思うのは勘違いである。法が何かの普遍的価値基準に基づくべきならば、国によって法がバラバラであるのは許せない話になる。その時々の事情で法を改正しても可であるのは、法が学問的な真理であるというより、スポーツやゲームのルールと同じ本質を有しているからである。大体、国家が定める法律によって適法か違法かの判別はまだしも、倫理的な正邪善悪が決まってくるなどと考えるのは、国定教科書に基づく道徳教育よりもタチガ悪い思想であろう。

訴訟ゲームで勝敗が決まったとしても、現実と言うリアリティの中で正邪善悪の区別が刻印されるわけではない。どちらが正しいかとか、善であるかという問題に対して法律は回答する立場にない。実存する客観的世界に正邪善悪の線は引かれてはいないのである。

このような点は最近になってから何度か投稿していることである。

なので、儲かるのは弁護士だけであるという現実だけが意味のある結果である。そして、弁護士が利益を追求するためのプロモーションに注力するのは当然の理屈である。

嫌だネエ、こういう社会は……。小生の青春時代は遠く過ぎ去った過去になったが、乱暴であっても人情があった。


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こんな世相から思い浮かんだ冗句:

トーマス・ホッブズは原初自然の状態においては
人間社会は万人の万人に対する戦いである
こう想定した。この想定を置いたうえで野性・無法から脱却するための「社会契約」として国家と自然法(王権)を考えた。

ホッブズに対して同じ英国のジョン・ロックを置くと真面目な西洋哲学史になる。

小生は以下の冗句を思いついた:

原初の人間社会は「万人の万人に対する戦い」であった。現代の民主主義社会においては「万人が万人に従う社会」となる。 

原始時代が野性の暮らしであるとすれば、現代の民主主義社会は誰もが誰かに従う奴隷の社会に似ている。

「ノーブル」とか「独立」とは正反対の「卑屈」や「迎合」が世の中では歓迎されがちになる。誰かを尊敬すれば差別として、誰かと助け合えば戦略的結託として、誰かを愛すれば不公平として邪推されがちである。

自由がありそうで実は自由がない。人は誰でも自由に意思決定しているようで、実はルールが生活のあらゆる側面を束縛している。民主主義の名のもとに……。平等と公平の名のもとに。

現代社会特有の「閉塞感」は根源的には発達した民主主義の臭いだと言える。民主主義は多数者のモラルを少数者に押し付けて恥じない。法を超える力を行使しても恥じない。その様子は横暴な独裁者や、傲慢な貴族階級と違いはないようにみえる。肥大化した民主主義には臭いがある。腐敗した独裁制や退廃した宮廷政治とはまた違った臭いであるが、愉快ではないという点においては共通している。

時に、一代の遊蕩児ドン・ジュアンが魅力ある人間に映るのはごく自然な事である。江戸幕府初期の侠客・幡随院長兵衛に人気が集まるのと同じである。

善いことだからといって過剰に肯定するのは問題である。

先日の投稿でも書いたが、
社会は常に進歩し続けるものではない。慰めは、退化し続けるものでもないことだ。
改めてそう感じる。

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