2020年2月29日土曜日

昨日の補足: 政治と行政

前稿の補足。

昨日投稿にはこんな下りがある:

もちろん、大きな成果を狙えば大きな失敗をするリスクが生まれる。しかし、官僚ではなく政治家は本来リスク・テイカーであって、失敗すれば地位を失う。その意味では、民主主義社会はフェアである。

日本国内では今回の首相の要請に対して賛否半々という状況だ。地元の道新は、昨日の鈴木道知事の「非常事態宣言」と「外出自粛の要請」も含めて、今回の「政治的要請」は基本的人権の侵害に該当すると考える憲法学者もいると指摘している。

しかし、海外の論調と日本国内の論調には差があるようだ。海外の反応はばらつきがありながらも一定の平均的な傾向を示し、日本だけが海外とは異なった反応をするとすれば、日本の側にバイアスがあるという証拠になるだろう。

話題とは離れるが、長年購読してきた道新をこの3月で停止することにした。小生がこの町に移ってきた頃とは違って、左翼的になり過ぎた。

話しを戻す。


昨日投稿ではこんなことも書いている:

本来は着実であるべき行政府の最高責任者になぜ行政のプロである官僚出身者ではなく、政治家が就く必要があるのか。それは単にそのほうが民主主義に適っているからというのとは別に、もっと重要な本質的理由があるのかもしれない。

現在時点で書けることをメモしておきたい。

一口に言えば、行政はソーシャル・マネジメントであり、社会の「定常性」を前提する業務であるが、政治は社会が本来もっている「非定常性」に対応する行動であるからだ。こんな風に言えることまではすぐに見当がつく。

例えば・・・自動車を運転するドライバーは道路交通法に従って安全に運転する義務をおう。が、事故や危険を緊急に回避する場合であれば、道交法の定める規則には反してでも、そのとき最も必要な回避行動をとるべきである。これは当たり前の理屈だろう。そして、事実、誰もがそうするはずである。法は人が決めたルールに過ぎないが、実際に存在するのは人の生命であり、現実の生活なのだから。何が必要であるかはリアリティが決める。

社会の非定常性をもたらす原因は複数ある。そもそも自然環境は決して定常的ではない。定常であると考えているのは、宇宙的スケールではなく、人の尺度で時間をはかっているからに過ぎない。地球も太陽系も最後には消滅するのである。

技術もまた非定常的である。というより、毎年、新しい知識が獲得されるので、いわゆる「拡大情報系」にあたる。技術を基礎にした生産活動、生産活動から派生する消費社会もまた定常的ではない。新しい種類の問題が常に発生する。

あるいはまた、「ブラック・スワン」とただ一言いえば、足りるかもしれない。

定常性を前提とする法律は、だから必然的に陳腐化し、リアルな社会状況とは合致しなくなる。

法と社会的現実が合致しなくなったことに目をつぶり、現行方式の行政を続けることは非合理である。非合理な統治は持続可能ではない。ある意味で、政治は行政をリセットする行動であり、幾分か破壊的で、かつ急進的である。

破壊的な政治現象が社会的には多数の歓迎を得て、むしろ社会を進歩させる契機にもなりうることがある。それは法治主義に基づいた行政は時間の進行とともに破綻する確率が高まるからである。

こんな印象論的なイメージなら容易に書けるのだが、きちんと議論するとなると大変そうだ。

2020年2月28日金曜日

一言メモ: 政治的現象には特有のスピードと変化がある

以前、小池百合子氏が自民党都連の意志に反抗して都知事選に立候補することを決めた時、1日単位で情勢が激しく変化し、毎日吃驚するほどのニュースが出てきたものである。小池氏が都知事に就任してから、次に民主党の当時の代表であった前原氏と連携し、「希望の党」を結成したときにも、国政選挙を控えて情勢は激しく変化し、ニュースは毎日更新されていった。

政治の本質はスピードにあると小生はずっと考えている。
『正攻法で行こう』という姿勢は基本的に正しい考え方だが、執着するとすればその人は政治家ではない。正道と詭道の両方に通じなければ政治はできない理屈だ。

今度は新コロナ型ウイルスである。昨日、安倍首相が主導する形で日本全国の小・中・高等学校の一斉臨時休校が要請された。唐突な印象もあるようだ。駅前ではこれを報じる号外が街ゆく人に配られた。

インフルエンザ流行では、まず欠席する生徒児童の増加に伴って学級閉鎖をする、状況を見ながら学校閉鎖も選択するという漸進的なスタイルで対処してきた。インフル流行の現場を担当する個々の学校運営責任者の判断によって必要に応じて閉鎖措置が採られてきたわけだ。事前に全国一斉臨時休校への感触を官邸から打診された文科省は「現実的には実行困難である」と回答したよし。

ウイルス流行への対処は緩やかに進行するものである。これに対して、1日単位で予想外の決定が続き、皆が驚くというこんな状況は、リアルな社会状況が迫っている問題を解決するというより、「政治」という行為が行われていることが示唆される。

昨日の首相による要請は「政治」である。小池百合子氏の都知事選立候補、希望の党結成と同じ性質を共有する、政治家による政治現象がいま進行中であると観る。外見は公衆衛生だが、それは外観で、これは政治である。政治家が政治をしているのは当たり前であるが、日本にはまるで行政官のような政治家が多い。安倍首相という人物は「行政」よりも「政治」が好きなのだろうとつくづくと感じるのだ、な。

★ ★ ★

いま三重県に配属されている下の愚息によく話していることだが、
大胆であることの裏面には鈍感という欠点がある。繊細であることの裏には神経質という短所がある。短所を直そうとすれば長所が死ぬ。
小生が好きな警句である。

新コロナ型ウイルスの国内感染確認者がまだ千人もいない中で、全国一斉休校を決断できるのは、大胆な決定である。と同時に、現場の事情を無視する鈍感な決定でもある。安倍総理から時に固有の鈍感さを感じるのは小生だけだろうか。また、鈍感であると同時に大胆でもあると感じる人は案外多いかもしれない。

やっていることは、それほど効率的ではない可能性がある。ひょっとして終わってみれば英断かもしれない。成否は不確実である。どちらにしても政治という行為は未来にかける投資に似ているところがある。結果が全てだ。しかし、大きな結果は大胆な行動から、大胆な行動のみから得られるのも古今の経験則である。政治にもこの経験則が当てはまる。

細部を丁寧に検証しつつ着実に計画をつくって行動へ移すという繊細緻密な行動原理では大きな決断は出来ない。不確実な現実の中では『下手な考え、休むに似たり』という格言が意味をもつ。繊細にして大胆であるのが理想だが、そんな理想的人物は現実にはいない。

小池都知事がせっかく希望の党を結成して大きな結果を得られる寸前で失敗したのは、自らの地位をどう守るかという細かな配慮をしてしまったからである。

もちろん、大きな成果を狙えば大きな失敗をするリスクが生まれる。しかし、官僚ではなく政治家は本来リスク・テイカーであって、失敗すれば地位を失う。その意味では、民主主義社会はフェアである。

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本来は着実であるべき行政府の最高責任者になぜ行政のプロである官僚出身者ではなく、政治家が就く必要があるのか。それは単にそのほうが民主主義に適っているからというのとは別に、もっと重要な本質的理由があるのかもしれない。が、これはまた別の話題であるので後で。



2020年2月27日木曜日

昨日の補足: 新型コロナについて

昨日の投稿でこんな下りを書いた:

風邪は引き始めが肝心である 。インフルエンザもそうである。『風邪は万病のもと』という格言は生きている。
重くなってから病院に来てください、と。
それじゃあ、助かる人も助からないんじゃないですか?

どうやら(一部の)医療関係者にとっては上のような認識は間違っているようだ。
こんな投稿もある。:

モーニングショーで軽傷者を早く見つけて重症化を防ぐとテレビで述べていた医師がいましたが、早期診断してもしなくても新型コロナウイルス患者の転機は変わりませんし、早期に見つければ重症化させない方法なんて実験的投薬含めてまだ確立されていません。

URL:https://blogos.com/article/438799/

 投稿者は早期治療に意味はないと考えている。まあ、ウイルスを直接的に攻撃する薬剤はないわけだから、それはそうなのだろう。インフルエンザなら(発症後一定の時間内であれば)検査をしたり、特効薬を投与したりと、医師がすることはあるが、新型コロナによる風邪には出来ることがないということなのだろう。出来ることはないのだから、自宅で安静にして休んでいなさいという判断は理に適っている。

重くなったら来てください、と言うのもネエ……、という気持ちも残るのだが。

上の引用の冒頭にも引き合いに出されているが、同じ医師でも軽症者を早期に見つけて重症化を防ぐという人もいる。要するに、医師によって治療方針は異なるようである。これまた、当たり前の状況だろう。

★ ★ ★

治療方針は医師によって異なるだろうが、早期に治療を始めることに意味があるという医師がいる限り、早期治療を選択可能にしておくことは無意味ではないと小生は思う。

ただ、新型コロナ。最終的な収束点を見通しておくことも大事かもしれない。何しろ、海外専門家の一部には『人類の3分の1が罹患する』と予測する向きもあるのだ。

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いゆわる普通の風邪はコロナ型ウイルスが病原となっているものが多いと聞く。小生は一度風邪にかかると熱は出ないまでも、いつまでも咽喉に違和感が残り、時には咳も長く続きがちである。治ったと思っても、またぶり返したりする。友人の中には『風邪なんてかかったことがない」という御仁もいた。それほどではないが、風邪で病院に行くと聞いて、「ホントか」と驚かれたことも多い。風邪に対する抵抗力は人によって様々である。

ウイルスという異物が体内に侵入(=感染)したときの反応は、個人差が大きいはずだ。これはアレルギー症状にも似ている。同じ果物でも平気な人がいれば、激しくアレルギー反応を起こす人がいる。

新型コロナ・ウイルスに感染した人の大部分は軽症であるようだ。無症状の人もいる ― 無症状感染というのは検査をしているから初めて分かることで、無症状であれば普通は検査はしないはずだ。ところが、一部の人は激しく症状が出て、重症化する。まるで花粉症か何かのようである。

***

多分、重症化する人には何かの共通点があるのだろう。研究が進めば明らかになってくるだろうが、やはり1年、2年、あるいはもっとかかるかもしれない。アレルギー症状には抗ヒスタミン剤やステロイド剤が開発されているように、症状を緩和する薬剤も開発されるだろう。

治ったと思っても新型コロナ・ウイルスは感染者の体内で死滅はせず、幾分かは生存し、多くの人はそのまま検査をしても陰性で、普通に暮らしていくのではないか。その場合でも、ウイルスは放出され、生活の中で感染する人がおり、感染した人は「どこかで風邪をもらった」と思いながら症状を緩和する薬を服用するも、耐性のない一部の人は激しく症状が出て(小生も風邪で病院にいったが)病院外来で診察を請う。今でもインフル以外の通常の風邪は対処療法である。

多分、最終的にはそんな世界に(数年をかけて?)なっていくのではないかと、専門外の小生は予想している。

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なので、現時点の「陽性・陰性」という検査自体には、もはやそれほどの意味合いはなくなりつつあるという、上の引用は主旨としては同感である。

最も知りたいのは、新型コロナ・ウイルスに対して自分は<耐性>があるのかどうかという判定結果である。アレルギー検査と似ている ― まあ、当分はこんな判定など不可能だろうが。

新型コロナ・ウイルスがいつこの世界に誕生したのか。それは分からない。が、人類社会に入ってきたのは、(最近の報道を信じれば)中国・武漢でヒト・ヒト感染が確認された時である。武漢市当局の責任(?)は大きい。今後の新型コロナ・ウイルスの消長は予測しようもないが、今は「世界にはその種のウイルスもいる」という現実を認めて対応しながら生きていく。そんな段階になった、と思う。

2020年2月26日水曜日

新型コロナ: 「選択と集中」と「一点突破」とはまったく違いますぜ

小生の少年~青年期の頃はまだDNA解析はもちろん、電子顕微鏡の性能もそれ程のレベルではなかった。だから風邪といっても、せいぜいが「季節性感冒」と「流行性感冒」の二種に区別されていただけではなかったろうか。風邪をひいて母に連れられて小児科で診察を受けたときに「流感ですネ」と言われ、「流感って風邪と違うん?」と聞いたことは一度や二度ではない。まあ、流感つまりインフルエンザであっても、当時はゾフルーザもタミフルもなく、そもそも「検査キット」そのものがなかったのである。服用した抗生物質は炎症部分が細菌に感染しないための予防策であったのだろう。それでも大抵の場合、一週間程度で治っていたものだ。

ある年の夏休みであったが、風邪ではなく腹痛がおさまらず熱も下がらなかったときがあった。間もなく始業式だという頃になって、住んでいた社宅で親しくしていた「お婆ちゃん」がある神社の御札と怪しげな朱色の丸薬を持ってきて飲んでみなさい、と。お札は枕の下に置きなさい、と。母はウロン気であったが不思議なことにそれを境に熱が下がり、腹痛もおさまったのである。ま、治るタイミングでもあったかもしれない。何とも言えない。お婆ちゃんには母が懇ろに御礼をいったと後できいた。

病気はかかったら治す。病気にならないようにするという予防はもちろん大事だが、かかったらあらゆる手段を講じて治す。治すためにはそれなりの日数と体力、免疫力が要る。健康的な生活が大事だ。

いつの時代でもこれが大原則だと思っている。

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今回の「新型コロナウイルス」も、小生の子供時代であれば、新型コロナか旧型コロナか、そんな区別も出来るはずがなく、せいぜいが『今冬の風邪はタチが悪く、特にお年寄りは感染しないように気を付けてください』と、NHKのニュース辺りで注意を喚起するくらいの対応であったと想像する。まして、毎年の風邪流行で経済活動を自粛するなどは議論されようもなく、実際小生の記憶には残っていない。

現時点のイベント自粛、卒業式自粛、スポーツの無観客開催、等々は、ウイルスの遺伝子情報までもがグローバルに公開される時代になってこその現代特有の事象である、と。そう思いながらTVのワイドショーを観ているから小生もあまり良い性格ではない。


★ ★ ★


日本政府が設けた「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」もすっかり有名になったが、その初回会合のあと、専門家のこんな予想もあるという記事をネットで見かけたのは数日前である。
 専門家会議は患者が急速に増加する「国内感染期」との判断を示さなかったが、世界全体の新型コロナウイルスの感染者数は7万人を超え、終息の兆しはまったく見えていない。

 世界保健機関(WHO)の非常勤顧問を務める感染症の権威であるアイラ・ロンジーニ氏は、「新型コロナウイルスの最終的な感染者数は数十億人に達する可能性がある」という驚くべき試算を明らかにした(2月13日付ZeroHedge)。現在米フロリダ大学で感染症を統計的手法に基づき定量的に分析する研究所の共同所長を務めるロンジーニ氏は、「中国の大規模な隔離措置が世界での感染拡大を半分に抑えたとしても、世界の約3分の1が感染することになる」と警告を発している。

 爆発的な流行の可能性を警告するのは、ロンジーニ氏だけではない。香港大学のガブリエル・レオン教授(公衆衛生学が専門)も「このまま放置すれば世界の3分の2近くが新型コロナウイルスに感染する恐れがある」との見解を示している(2月14日付ブルームバーグ)。
(出所)Business Journal , 2020-02-17配信、藤和彦『日本と世界の先を読む』

 今回の新型コロナウイルスは、比較的軽症で治るケースが多いようだが、無症状者から感染する場合もあれば、一度回復し陰性になったあとで再び発症して陽転するケースもあるという。こういう特性をもっているのであれば、最終的には人類全体の3分の1乃至3分の2が罹患するという上の記事をみても、小生はそれほどの衝撃は受けない。

先日のTVで、「今日の感染者数増加は〇〇十人、先生、この先いかにしてこの増加を抑えていくかですよね」と、まあこんな趣旨の質問をMCが医師であるコメンテーターにしたところ、「いや、こんな数字ではおさまらないと思います」と応えていたが、その通りだと思う。日本国内のワイドショーは、要するにプロデューサーの発想とMCの進行振りで内容はあらかじめ決まっているはずなのだが、放送局側の意識が現実に追い付いていないのではないかと。観ていてそう思うことが増えてきた。

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風邪は引き始めが肝心である 。インフルエンザもそうである。『風邪は万病のもと』という格言は生きている。

重くなってから病院に来てください、と。

それじゃあ、助かる人も助からないんじゃないですか?

政府の方針を聞いている人のほとんどは素朴な疑問を抱いているだろう。常識とは真逆であるからだ。

ただ……

いかなる戦略も目的に従うものである。政府のいまの戦略は
重症患者を救う。死者の数を可能な限り抑える
政府の方針は公表された通りだが、風邪って重くなってからだと治りにくいのじゃないですか。この疑問をなぜ記者さんたちは方針発表時にぶつけなかったのだろうと不思議で仕方がない。やり方など、このネット時代である。中国ではこの機を活用して大学のネット授業、遠隔授業を本式に立ち上げようと新たな行動段階に入っている。この分野が活性化している。

『いまは止めておこう」と、それだけじゃあ、ダメだよ。それじゃあマイナスの影響が出るだけだヨ。
いくらでも新規作戦は立案できるじゃあないか。そう感じた次第。

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前回投稿での下り。

そもそも公衆衛生行政は「政治主導」で進めるべき事とも小生には思えない。

この点を補足しておきたい。

公衆衛生と経済運営と、方向が異なる二つの目的の一側面であっても 有識者をまじえた政治の場で「目標」が明確に設定されたことは、それはそれなりに評価に値すると思う。

ただ、この目的設定は太平洋戦争開戦時に「米国の海軍勢力をたたいて短期間の戦力的優位を築く」という目的を戦略だと思って設定してしまった史実を思い出す。これは「当面の戦術」であって、戦争を始めるための基本戦略ではない。

その意味で、政府が公表した上の戦略には欠けている部分が多々あると思う。政府の発表は、戦略ではなく、戦術であって、せいぜいが「当面のアクション・プログラム」である。

中央政府の政策は、目的を設定して基本戦略を策定し、同時並行的に複数の戦術を重層的に進めなければならない。そうなっていない。つまり、政府が打ち出している対処方針は<体系的>でなく、総合戦略になっていない。

体系的でないのは、作戦の立案調整を担当する司令塔がいないからである。総理大臣は司令塔ではない。文字通りのトップは司令塔ではない。こんな当たり前のことは民間企業の社内でも同じである。組織のトップがやるべき事は最も基本的な目的を明示することである。そして、その目的を全員で共有させることが最大の責任である。目的を達成するために時間コスト、経済コストを最小化する戦略を策定するのが司令塔である。軍事組織では参謀本部になる。即ち、官僚・専門家で構成される職業的な人材集団が戦略立案に参画し、その長は司令塔となって調整するのである。そんな参謀本部という存在が今回のウイルス禍で伝わってこない。発表される内容はどれも断片的であり、かつ(逆説的だが)スピード感に欠け、事態の変化を後追いしている。後手をふんでいる。そんな感覚はそれこそ広く国民に共有されつつあるのではないか。

その意味で、安倍内閣の国内行政能力の限界を(もともと国内行政についてはそれほど高いレベルの内閣ではなかったと小生は観ているが)いまヒシヒシと感じる。

更に、実働部隊の戦術能力についても疑問を感じる。上で述べたように設定された目標を達成するための戦術に話を限定するとしても、戦術が最善であるかどうかについては、やはり疑問を感じる。いま展開されている政府の行動プランには、まだ改善の余地が幾つかあるのではないか。

普段の<PDCAサイクル>の忠実な実行が何より大事だ。特に「問題発見」と「解決案の実行」までの時間的ラグを短縮化する努力が最もカギになるだろう。

2020年2月24日月曜日

政治主導にもさすがに「倦怠感」が出て来たか? 

政治家の数は少ない。政治家=議員と狭く解釈しよう。そうすると国会議員に限ると、衆議院(465人)、参議院(248人)を合わせて713人だけである。規模の大きい高校なら1学年の生徒数程度である。

国の行政を政治家で主導するといっても、マンパワー的にはどうであろう……、秀・優・良・可・不可という出来不出来はどんな人間集団にもある。なので、政治家全体のせいぜい1割として70名程度が休みなく何かの役職を勤め続けて頑張り続けなければならない、そんな現実的な事情は否定できないのではないか。役人であれば試験に合格した新世代が毎年採用され、定年に達した旧世代が退職することによって新陳代謝がルーティン化されている。しかし、政治家にはそんなメカニズムはない。ただ選挙でより多くの票を集めるかどうかだけである。

結局、政治主導という理念も何年かたつうちに政治家の方が疲弊してくるのではないか、と。そんなことを考えたのはもう何年前の事だろうか。「政治家なんて頼まれても絶対にやりたくはないネエ、〇〇長なんて役回りが巨大化したのが政治家だからネ、自分とは関係のないあらゆる種類の雑用やら苦情の処理係で、泥まみれになって、疲弊するばかりサ」などと嘯いていた日が今は懐かしい。

政治家が疲弊しないために実働部隊がいる。公務員の人数は、国の一般職(含む、検察官、特定独立行政法人職員)だけでも34万人にのぼるのだ。

官僚という実働部隊に任せないのは「民主主義」に忠実であろうと願うからである。官僚は選挙で選ばれた人間集団ではなく、選挙で選ばれた議員が民意を反映している。これが現代社会をみる基軸になっている。では、なぜ民主主義によらねばならないか。人々の幸福のためである、と回答するのが学問的認識としては標準だろう。しかし、何度か投稿(最近ではこれ)したように、国は人々の幸福を達成するために出来たものではないのだ。小生は偏屈なへそ曲がりなのでこう考えている。

***

最近の感想を二つ。

ますます紛糾しそうな「検察官の定年延長」。実際に定年が間近に迫ってきた今になってから提案するよりも、定年延長される御当人が東京高検検事長ではなく法務省の事務方トップであったときに、公務員の定年管理の一環として済ませておくべきであったのではないか。法務省の行政事務として問題提起するなら、まだ筋道に適っている。そのときに済ませておくべき事柄を差し迫ってから「急ぎ働き」でやるのは、所謂「焼きが回った」という奴である。ゆとりがあれば絶対にしないはずだ。

次に、新型コロナウイルス感染防止対策に関連して。ウイルス感染防止対策はマスコミがそれこそ急性の強迫神経症に陥ったかのように狂熱的にとりあげているので、政治的重要性については理解できる。しかし、この種の公衆衛生行政には感染防止の基本戦略があり、何より科学的視点と国際協調の感覚が非常に大切であるはずだ。

そもそも公衆衛生行政は「政治主導」で進めるべき事とも小生には思えない。

首相官邸が「かかりっきり」になるのは理解できないわけではないが、それより消費税率引き上げ後の需要減退、景気循環的な後退局面入りの可能性、感染源である中国初のサプライサイド混乱によるショック、過剰な懸念と外出自粛ムード、etc. etc.がもたらすはずの経済的ショックの影響をどのように予測し、どのように対処していくのか?こちらのほうが「政治的」には遥かに緊急性がある。

こちらの問題に頭を使う時間とエネルギーは残っているのだろうか?こちらのほうが「政治家が担当するべき問題」であるのではないだろうか。

***

波に揺られた小舟に安定性を取り戻すには船を操るスキルが要る。しかし、周りの海に目を転じ、次の波、その次の波、吹いている風の方向をまず知らなければ、安全な操船という目的を達成することはできない。

マスメディアも疲弊してきて単細胞動物に似てきた。大臣、副大臣、政務官をやっている政治家たちも疲弊しているか、茫然自失しているか、怠けているか。そのいずれかである雰囲気だ。

政治主導にもそろそろ「倦怠感」、「疲弊感」が出て来たか……。

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民主主義社会は、上手に運営しないと疲弊しやすいのだ。上手に運営するには知性が必要だ。それも一定人数を超えたソーシャル・クラスが人間集団として継続的に存在し、社会の事を考えるだけの知性と余裕をもち、一定の社会的責任感を併せ持ち、そして自由に発言し続ける、そんな社会状況が民主主義には必要だ。そうでなければいくら力があっても政治家数10名程度で1億の住民がいる国を主導できるわけがない。

いや、話は逆だろう。そんな社会集団があればその社会は自ら民主主義を選んでいく。そんな社会集団が失われれば、民主主義を捨てる方が問題解決には有益である。有益であるならそちらを選んでいくはずだ。この考え方の方が正解かもしれない。

民主主義は紀元前5世紀半ばに古代ギリシアのアテネで原始的な形で運用されそれが政治の理想形として遺った。しかし、その黄金時代の後30年に及ぶペロポネソス戦争で敗戦国となり理想の政治が崩壊したのはアテネの側である。アテネ・モデルには「うまく行く」ための前提があったのだ。その前提が崩れれば民主主義で社会はうまく統治できない ― ここでいう「前提」についてはツキディデス『戦史』を参照のこと。崩壊の契機は(偶然であるが)疫病の流行である。時系列の順に挙げれば、疫病の発生とその後の一連の迷走と政争がアテネの民主主義を崩壊させている。民主主義の天敵は強力な敵国ではない。

どんな望ましい結論にも前提がある。民主主義にも前提がある。最近、こんな風に思うことが多い。

2020年2月22日土曜日

一言メモ: ダイヤモンド・プリンセス船内隔離について今いえること

クルーズ船・ダイヤモンドプリンセス号の顛末は、ニュースやワイドショーが連日とりあげていて、一大騒動になっている。そして、とうとう新コロナ型ウイルス感染者の死亡例まで発生するという段階に至っている。今後、国内感染が一層広がることが予想されている。

クルーズ船検疫をめぐる今回の対応振りは詳細に検証されるに違いない。検証されれば、あらゆる細部にわたって報告書が作成されるに違いない。ただ、作成された大部の報告書を精読する人がどれほどいるかは分からない。提言されるはずの多くの細かな事柄が何年先になるか分からないが次回発生する緊急事態までどれほど継承されていてそこで生かされるのか、まったく心もとない。今回の経験についての検証それ自体は一生懸命に行われ、報告書を書く人も真剣に取り組むだろうが、検証それ自体が目的となってしまう事態も大いに予想される。

何事も<選択と集中>である。責任問題はともかくとして、いまの時点で気がつくことがあれば、気がついた時点で発言し、認めることは認めるという姿勢が業務のPDCAサイクルでは最も大事な事である。<重点志向の原理>を忘れてはならない。

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一つだけ記しておきたい。

香港で下船した乗客が新コロナ型に感染していたことから、ダイヤモンドプリンセス号の再度の検疫が必要になった。

ところが3700人を超える乗客・乗員を検疫のために滞在させうる施設がない。

そこで全員を船内隔離する方針が決まった。

この選択には合理性があった。国内外の誰もが理解したと思われる。

しかし、新コロナ型ウイルス感染が憂慮されるが故に全員を船内隔離するのであれば、検疫体制の整備と併せて十分な医療体制をも確保しておくべきであった。この二つは切り離すことができない二大要素であったはずだ。投入するのであれば同時投入するべきであったのではないか。

実際は、2月3日夜から検疫が開始されたのだが、船内の医療体制の不備を補うため災害派遣医療チーム(DMAT)が投入されたのは2月9日ではなかったか。

この間1週間。

現実には、検疫、医療双方においてキャパシティ不足に悩みぬいた2週間となった。検疫が不十分でも医療は十分にできなかったか。医療の不十分が与件となるのであれば、検疫も不十分なレベルで覚悟せざるをえなかったのではないか。最も合理的な救助作戦は何であったのか。色々な設問がありうるだろう。

***

発生源である中国・武漢市が交通遮断され封じ込め作戦が発動されたものの、遮断と同時に確保するべき十分な医療資源が武漢市内にはなかったために市内は大変な惨状を呈することになった。遮断作戦を発動するなら、十分な医療資源を同時かつ即時に投入するべきであった。その失敗と混乱を見ているにも拘らず、ほとんど同種のことをダイヤモンドプリンセス号を舞台に演じてしまった。この指摘は免れないのではないか。

『今回の対応は船籍、運航会社、寄港地が異なり複雑な意思決定の下で対応せざるを得なかった。現実の過程において政府の対応にも反省すべき点はあったと思う。この点については遺憾に感じている。今後同様の事態で適切に対応できるよう真摯に検証していきたい』と、この位のことは国会か、記者会見か、どこかで言っておいたほうがいいのじゃないかネエ。

今回の対応に間違いはなかったといえば、確かに「間違い」はなかったかもしれない。しかし、改善できる余地はあったはずだ。

どんな組織でも「カイゼン」の必要性の指摘それ自体までを否定するような姿勢では、旧・日本軍とまったく同じ体質で、部内の士気が退廃するばかりだ。いずれ大崩壊することは確実である。


2020年2月19日水曜日

一言メモ: 「大臣記者会見」が増えているが

新型コロナ流行防止に向けて厚労大臣が毎日のようにTV画面に登場している。厚生労働省だけではなく、各省庁の担当業務について記者会見を行うとき大臣が自ら前に立って細かな内容をレクチャーする情景が日常的になっている。こんな情景は小生が小役人をしているときにはなかった。

海外、たとえばアメリカにせよ、中国にせよ、政府機関が記者会見を行う時は「報道官」なる人が登場して、質疑応答までを行っているのが通例だ。米・ホワイトハウスにも国務省にも報道官がいるし、中国・外交部の報道官は日本でもよくTV画面に登場するので有名である。

新コロナ型ウイルスの感染者数の増加について厚生労働大臣が自ら記者に逐一説明するべき必要があるとは小生には思えない。担当局長は民主的手続きによって選ばれてはいないので不適任だというのであれば、たとえば(原則)「政務官」が報道を担当しても問題はないだろう。「激職」にはなるだろうが、省庁全体の業務内容、要注意ポイントを把握するには報道担当業務が最適である。若手国会議員の修行の場にもなるだろう。

大きな政治判断に必要なリソースは、集計されたデータの大きな動きをみる眼力と洞察力である。内訳を確認するような、まるで経理部のような細かな質問に大臣が直接回答する必要はまったくないと小生は思う。政務官が勉強するべき事柄だろう ― 担当局長なら当然頭に入っていることではあるが。そもそも大臣の見解について聞くべきポイントを適切に質問できる能力、及びバックグラウンドたる経験を有しているのは、出先の記者ではなく編集局長クラスではないだろうか。

2020年2月15日土曜日

【改稿】政治と官僚人事について

官僚行政から政治家による行政へと大きく舵が切られたのは2014年に内閣人事局が開設されたことを契機とする。各省庁の幹部人事(≒高級官僚|指定職)は内閣官房で一元的に管理されるようになった。官僚による「忖度」がマスコミや世間でしきりに口にされるようになったのはそれ以降のことである 。

内閣人事局開設前は政治家による官僚人事介入がまったくなかったかといえば、それは誤りで、田中角栄・福田赳夫の二人の大物政治家の意向に発した大蔵事務次官人事の葛藤などはノンフィクション小説にまでなったほどだ。なので、内閣人事局によって官僚人事が大きくゆがめられることになったという指摘には、そう語っている人の政治的立場が自ずから反映されており、相当のマユツバである。これが第一点。

選挙を経ていない官僚が各省庁に割拠して、政治家の介入を排しつつ行政を行うのは、民主主義とはほど遠い社会のあり様だと頻りに批判していたのは関係学界の専門家、マスメディアの側である。政治家による官僚人事一元管理は左翼、リベラル派の「永年の夢」であったことを忘れるべきではない。これが第2点。

その内閣人事局が安倍政権発足後に開設され、その果実を縦横に安倍内閣が活用している。その現状が、民主党の流れをくむ現・野党、及びリベラル派のメディア各社には腹立たしい。この心情もまた理解できる。まさに『トンビに油揚げをさらわれた』のが現状であり、こんなはずではなかったのである。政治家による官僚人事一元管理は、恩師・田中角栄を「闇将軍」という離れ座敷に追い込み、更には自身にとっても不倶戴天の敵である法務官僚とその他すべての霞ヶ関官僚に対する小沢一郎による仇討でもあったのだから、現状への無念の心情もムベなるかな、である。まさか政敵である清和会に属する右翼の代表・安倍晋三によってウマウマと活用されるとは。変えられぬ現状への無念は余りあるはずだ。

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最近になって法務省の大物官房長、大物事務次官を経た東京高検検事長の定年が国家公務員法の規定を根拠に半年間延長されたというので結構な騒動になっている。もしこれが通れば、検察内部の既定路線である総長継承の順番が政治によってかく乱される可能性が出てくる。それは「法の番人」である検察当局に対する不法な政治的介入であるというのだ。

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ただ、どうなのだろうなあ……、とは思う。

国権には三権あり、国会は「法律の立法」、政府は「法律の執行・運用」、そして司法が正当な法解釈を示すという意味で「法の番人」となる理屈で、もしもそうではない理屈があるならキチンと考えをうかがってみたいものである。

検察とは、言うまでもないが、国による公訴権を実行する機関である。「検察官」の英名である"prosecutor"の動詞形、"prosecute"は「起訴する」という意味であり、行政府が司法府に法を犯した(と行政府が判断する)者を訴えて刑罰を求める、即ち公訴という行為を実行する主体が検察である。

公訴権を実行するという行為は行政権に基づく。告発は、国税、公正取引委員会、厚生労働省など複数の行政機関も行う。しかし、査察権限をもつ個別の行政機関が裁判所に対して直接的に公訴することは認められておらず、日本では一元的に検察によって公訴される。捜査機関である警察も容疑者を送検して、検察が起訴することで裁判が開始される。ただ一つの例外といえば、司法改革によって権限が強化された検察委員会による「強制起訴」であろう。

その職務内容の専門性の故に検察官は法律を熟知し法曹資格のある専門家が「検事」という職名で任用されて仕事をしている。ちょうど厚生労働省では医師免許をもっている専門家が「医系技官」として任用され政府の医療・公衆衛生行政を担っている状況と相似関係にある。検察人事に内閣の意向が反映されること自体が司法の独立性を脅かすのであれば、医系技官人事に内閣が意見を述べることも日本の医療を脅かすことになるのではないか。公平であるべき税務行政を総括する国税庁長官人事は内閣の意志とは独立して決めるべきであるという主張にもなる。

要するに、『安倍内閣は信用できない』と一言いえば済むのだ。学問的正論であるかのように政治的敵愾心を展開するのは(政治家としては当然であるかもしれないが)不誠実であって不快である。

ここまで書いておけば、今回の結論もあるということで内容としては十分だ。ただ、小生の「思想」というほどのものではないが、基本的な観方を書いておくのも覚え書きとしては無駄ではない。

★ ★ ★

司法制度は国によって(また時代によって)大きく異なっている。たとえば米国では「地方検事」が通常事件の容疑者を公訴しているが、この「地方検事」という職は選挙で選ばれている ― 「連邦検事」はまた別。アメリカのミステリー小説に地方検事が頻繁に登場するのでこの辺りの事情はよく知られている。司法試験によって任用される検事と選挙によって選ばれる地方検事と、やはり同じプロフェッショナルでも目指すところ、期待されている職務イメージは両者で大きく異なるものと予想される。任命方式は異なるとしても、検察が担当する職務は主として公訴権の実行であり、少なくとも捜査と公訴が一体的に実行される在り方はノーマルとは言えないはずである。例えばヴァン・ダインの小説では、地方検事・マーカムが名探偵・ファイロ=ヴァンスに見解を聴きながら、警察の捜査活動を指揮しているが、小説はあくまでも小説である。

公訴・公判、捜査+公訴・公判、事案によって様々だろうが、裁判所による判決が出るまでは推定無罪である。公訴権を実行して刑罰を求刑する検察庁が「法の番人」であるなどという見方は(小生の感覚では)許容できないほど酷い言い方である。検察と弁護人は常に対立しつつ同じ場を共有して判事の判決へと向かうべきである、というのが世界的には本筋であろう。

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こう考えると、検察官の人事もまた行政庁の人事であって、またそうあるべきであって、政治家による人事一元管理の対象内であると考えても理屈は通ると小生には思われる。

人事をめぐっての葛藤というのは、内閣人事局があろうとなかろうと時には発生することである。特に、同期入省者の中に実力実績共に匹敵する二名がいれば、それぞれの人物をバックアップする(=人脈となる)政治家がつき、ルーティンであるはずの官僚人事が政治家同士の代理戦争になってしまうという事態は、起こるべくして起こる事象である。

今回の法務省人事も葛藤パターンに合致しており珍しいものではない。となれば、どんな紛争があっても所詮は対立する政治家同士の代理戦争であると認識しておくのが本筋の見方だ。

仮に、どの政治家も背後にはおらず、純粋に法務官僚のみの意図的行為によって内閣人事局における人事方針の転覆が企てられるなら、それは「官僚による政治への介入」となる理屈である。戦前期・日本で横暴を極めた陸軍省、海軍省による様々な妨害行為を思い起こすべきだろう。官僚の割拠を見方はどうあれ容認すれば、むしろこちらのほうこそ遥かに憂慮されて然るべきである。

今回の第2の結論があるとすればここだろう。

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まあ、政界を巻き込む疑獄事件の捜査を地検特捜部が担当しているという状況もあるので、内閣による検察人事管理が捜査妨害につながるのではないかと警戒する心情が生じるだろうとは思う。

が、「だから検察人事は内閣とは独立した神聖なものであるべきだ」と言い出せば、果ては「国防という限りなく重要な職務を担っている自衛官の人事に政治家が口を出すことは言語道断」という言い分にもなりうる。「警察官僚が内閣官房の枢要な地位に就くこと自体、警察の中立性を損ない、警察に対する政治家の介入を疑わせる人事である」と非難する人が出てきてもよいことになる。こちらのほうが遥かに危険な考え方であろう。

権力を行使する実働部隊である官僚の活動には内閣による統制が不可欠である所以である。

が、言うまでもないが、なにごとにも完璧な社会システムは存在しない。
既に何度も投稿しているように、「絶対的に正しいこと」というもの。これまたこの世に存在しない。

そもそも絶対的な真理は、社会科学にも自然科学にすらもなく、ただ数学的な命題にのみ存在するものだ。社会や人間について「正しい」と人がいうとき、それはその人が立っている価値観や理念を認めるという前提あっての結論である。

純粋の論理を別とすれば、「これが正しい」とか、「これが善い」という判断もまた特定の目的追求を前提としたマネジメントの一部である、というのが小生の「社会哲学」かもしれない。

民主主義、そして自由経済を是とする資本主義を大前提とすれば、行政府の全ての公務員人事は選挙で選ばれた政治家が構成する内閣によって管理されるべきである。この過程に多数派の利益動機が混在するとしても、それは仕方がないことであって、エリート層による独断専行を防止するという意味では、むしろ望ましい事なのだ。こう考えておくことは自然に出てくる結論のように思われる。

この結論を変えるには、大前提である<民主主義>か、<資本主義>かのいずれかに手を入れるしかないのではないか。そう思われるのだ、な。





2020年2月14日金曜日

一言メモ: 芸術とドラッグ

槇原敬之氏が違法ドラッグ所有でまた逮捕されたとの報道だ。覚醒剤である。

言うまでもなく、同氏は過去にも一度逮捕されている。その時も覚醒剤であった。それから20年余の時間が経った。

芸術とドラッグはどうも深い縁で結ばれているようだ。

ずっと昔の状況は記録には残っていないが、物語上では著名な存在である私立探偵・シャーロック=ホームズもコカイン常用者として知られている。相棒・ワトソンはホームズの悪い習慣を止めるように注意しているのだが、仕事がなく手持無沙汰のときはコカイン服用で憂さをはらすのがホームズの習慣であった。事件解決が佳境に入り精神を鎮静させる必要を感じるとき、独りでヴァイオリンをとりだして演奏する。これもホームズの習慣の一つである。

既に何度も投稿したが、昨秋の10月頃から今年に入ってしばらく、聴く音楽は文字通りモーツアルトだけだった。モーツアルト以外は何も聴かなかった。何か月かをこんな風に過ごしたのは初めてである。Amazon PrimeとYoutubeを併用すると、ケッヘル番号のついている楽曲はほぼ全てが鑑賞可能になっているご時世である。この事実自体にずっと気がつかなかったのは大変な損失だ。ケッヘル番号は『レクイエム』の626番が最後である。生涯に作った曲は900に上るとも言われており、今でも草稿がたまに出てきたりする。シンフォニー『プラハ』の初演当日のように聴衆のリクエストに応えて即興で弾き楽譜が残っていないという例もある。スマホがあれば録音されていただろうに、と思う。

この半年で最も頻繁に聴いているのはピアノ協奏曲14番である。どの楽章もいい。第2楽章は春爛漫に散りゆく桜を想わせるようなAndantinoだが、第3楽章のロンドも実にノリがいい。このロンドでピアノと管弦とが猛烈な速度でかけあうところなど、まるでジャズのBud Powellを思い起こさせるようなスイング振りで、自ら演奏するのが常であった生前のモーツアルト、『こりゃあ、キテルわ』。ドラッグといっても、ハーブと言ってもいいのだろうが、正常の神経ではあんな楽曲はそもそも創れないのじゃないか。どうしてもそう感じてしまうのだ、な。他にも例えばフルート四重奏曲1番の第3楽章からも異様な飛翔感を感じる。ちなみに時々ジャズを聴くようになったのは旧友の影響である。

いま「異様な飛翔感」と書いたが、そういえばベートーベンのピアノソナタや交響曲にも心的な燃焼の炎が直接的に伝わってくるような瞬間がある。あれほど異様なほどの高揚感や真逆の絶望感は普通の精神状態では持てないと思う。そんな瞬間はショパンにもある。ワーグナーにもブルックナーにもブラームスにもある。

そういえば芥川龍之介の後期の作品。彼はヘビースモーカーで、加えて睡眠薬を常用していたらしいが、であるからこそ日中覚醒しては、あのような凡人には思いもつかない世界を文章の世界に遺すことが出来たのだと思う。本当に服用していたのは、睡眠薬だけだったのか……、そう思いめぐらすことも1度や2度ではない。

普通の生活をして、普通に生きて、安全な人生を安んじて生きる人物は、芸術を志して成功する可能性はないのではないかと思う。芸術ばかりではない。大学の一教師ならともかく、学者の道を志し、真理を本気で探究するなら普通の生活は(心構えとして)諦める必要がある。

ま、モーツアルトは35歳で死んだ。ギャンブル好きで派手な生活振りであったという。不健康な生活習慣もあったに違いない。いったん音楽に没入すると誰が何を話しかけても聞こえず食事も睡眠も忘れたらしい。音楽は残り至宝になった。自分の死後、200年以上も経ってから、極東の一日本人が自分の曲をWalkmanで聴いては感動に震えている、そんな情景など生きていたモーツアルトが想像すらしなかったろう。

芸術で生きる人間というのは、自分の寿命よりも楽曲を遺すほうが大事であるのだろう。歴史に遺る名演をやってのけて後世の語り草になれば死んでも本望なのだろう。この「本望」という言葉、現代社会からフェードアウトしてから、もう何年がたつだろう。

創造より、美より、真理探究よりも法律やルールを尊重することに高い価値が与えられる。中身よりも規格が優先される。実質より形式を先に見る。時にはモラルさえもが社会の表舞台に出てきて大きな顔をする。

一言で現代日本社会の傾向を表すと、<杓子定規>。この四文字熟語に尽きる。

現代社会のスピリットであることに旧世代から異を唱えるつもりはないが、『これが俺の本望さ』というセリフがめっきり時代遅れになった現代社会は、その分、コンプライアンスこそ徹底されてはいるが、「結局、生き延びる人は人畜無害。『沈香も焚かず屁もひらず』でつまらない。つまらない社会になってしまったネエ」、そんな風に語り始めそうだ。何だか途方に暮れた羊の群れが一億総不安になっているようでもあり、だからこそ「安心社会」が願望されているのだろうか、「昭和も遠くなりにけり」というのはこういう事か、と。それにしても平成コンプライアンスよりは大正デモクラシーの方がスケールの大きい理想があったネエ。どうしてもそんな風に感じてしまう自分がいる。

上でいま思いついて「平成コンプライアンス」と書いた。連想ゲームのようだが、下に時代の区切りを言葉にして遊んでみよう。


  1. 明治維新 ⇒ Meiji Restoration(メイジ・リストーレイション)
  2. 大正「民主主義」 ⇒ Taisho Democracy (タイショー・デモクラシー)
  3. 昭和時代:敗亡、回心、再生 ⇒ The Era of Showa: Catastrophy, Metanoia and Reborn (ショウワ・カタストロフィ・メタノイア・アンド・リボーン)
  4. 平成「法令主義」 ⇒ Heisei Compliance (ヘイセイ・コンプライアンス)

こうして言葉遊びをしても日本の近現代史の大きな流れがやはり見えてくる。昭和時代の激動はとても一つの言葉では伝えられない。明治日本の敗亡と戦後日本の再生が、今に至るまで日本人の潜在意識で深い刻印になって残っている(はずである)ことも改めて意識される。最近「極右」という言葉が語られたりするが、そうした運動は表層部分で踊っているだけであることにも推察がつく。

2020年2月9日日曜日

メモ: 「野党合同ヒアリング」は国政調査権を根拠にしているのだろうか?

現行憲法では国会が有する権限が強化されており「国政調査権」もその一つに挙げられている。

その最大の根拠である憲法では
両議院は、各々国政に関する調査を行い、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。(62条)
こう規定されている。

しかし、国政調査権は「両議院」が有する権限、つまり衆議院、参議院が有する権限であって、「議員」である個々の国会議員の自由裁量で行使できるとは規定されていない。所属する政党なら行使できるとも規定されていない。具体的には、衆議院、参議院のいずれかの意思決定によって国会は行政府(及び司法府にも)に国政調査権を行使することができるという意味であると素直に読めば読み取れる。

小生は憲法、行政法には素人である。

しかし、以下の点が分からないと書いても、大方の人には自然に感じられると思う。

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最近、盛んに実施されている官僚に対する「野党合同ヒアリング」と呼ばれる会議である。国会の時間外に大臣ではなく部下の役人を直接的に招致(?)して質疑応答を行う場であるのだが、最近になってから(以前は聞いたことがなかった)、何かといえば開催されるようになった。これは国会の国政調査権を行使している公的なヒアリングなのだろうか?

国会の中のどの委員会でもよい。委員会の決定として国政調査権を行使することは、委員会の決定が即ち「議院の意思」であると拡大解釈すれば、出来る理屈だと思う。しかし、国会の状況は与党が多数派であり、野党が少数派である。であるから、「野党合同ヒアリング」と称して野党の諸政党が国政調査権を行使できるというのは、小生、理解できない。野党のみの意思がなぜ議院の意思たりうるのか?理にかなわないのではないか。

米議会でも下院は民主党が多数であるので大統領弾劾訴追が決議された。しかし、上院は共和党が多数を占めるので弾劾は否決された。個々の議員に大統領弾劾に賛同する人々がいるということと、議院の意思決定とは別々の事柄である。議院の意思は裁決によって全体意思として定まる。

「野党合同ヒアリング」は法的に正当な手続きを経て実行されている行為なのだろうか?
「野党合同ヒアリング」はいずれかの委員会で採決されて実施されているのだろうか?
裁決されていないならば、議院の意思ではなく、国政調査権の行使には該当しないのではないか?

 出席する行政府の官僚には税金から俸給が支払われている。官僚の出席には機会費用としてコストが生じている。正当な法的根拠のない税金の支出は認められない理屈だ。

「野党合同ヒアリング」については分からないことが多い。

2020年2月8日土曜日

昔と今の日本人の違いに関連して

「ジェネレーション・ギャップ」が指摘されるようになってから久しい。昔と今とでは同じ日本人でも感覚、常識、価値観、全てが違っているものだ。

世代ごとに感覚、価値観、常識が激しく変化していれば、互いに理解しあうのも困難なのは当たり前だ。

人間、心と心が通じ合えば、分かりあえるものだというのが原理だが、とにかく時間がかかるのは事実だろう。

「家」や「家族」が社会を構成する基本単位として制度化されていた旧い日本社会では、たとえジェネレーション・ギャップがあっても、家族の資産管理(=当時の日本は農業国だった)、生産基盤(=農業経営は主に家族経営だった)までが世代ごとに解体されることはなかった。親が死ねば子が家を継承することで何代も世代交代を続けた。というより、家業、家産を継承していくのが、最も安全確実な人生でもあったのだ ― こう書くと、固定した継承・相続と最終的な不平等拡大を容認するのではないかと言われそうだ。小生は、資産や所得分配の平等を守ることがそれ自体として善であるとする立場はとらないのだが、書き始めると複雑になりそうなので、これはまた別の機会に【この部分あとで加筆】。

ジェネレーション・ギャップはいつの時代にもあったろう。しかし、現代日本においては理解しあえない家族はただ離れるばかりである。家族が離散しても仕事には困らない社会である。

小生はその社会で支配的な生産関係が「下部構造」となって、その社会の文化、文明、価値観、常識などの「上部構造」を規定するというマルクスの社会観に全面的に賛同している、という点は以前にも何度か投稿したことがある。

★ ★ ★

「不倫」が世間を騒がせるようになってから久しい。ちょうど100年前に「白蓮事件」があって世間は騒然となった。人妻であった天皇の従妹が左翼青年と突然の逃避行を敢行したのである。現代日本でも同じことがあれば世間は吃驚するだろう。吃驚すると同時に、現代の日本人はモラルの観点から社会的制裁を二人に対して激しく加えるだろう。100年前、九州の石炭王であった夫は柳原白蓮から離婚を新聞紙上で公然と求められたことに激怒した。当たり前である。が、世間の人々は面白がりこそすれ、「駆け落ち」をした二人を世間から葬り去るような行動はとっていない。

「不倫」といえば歴史上の有名な人物も「不倫」をしている。山本五十六にも吉田茂にも身辺の世話をした公認の愛人がいたことは大変有名である。本来は人に知られぬはずの女性が有名な存在であったというのだから、やはり時代が違っていたということか。

バルザックの作品を読むと19世紀初期のフランス家庭のあり様に驚く。公的に結婚した夫婦はそれぞれ自由に社交や恋愛を楽しんでいる。結婚は、親から財産を継承した男女が新たに経済単位を形成するための手続き、つまりは結婚とは「政略結婚」であり生活の基盤。それに対して、すべて恋愛は夫と妻が幸福を実現するための自由な行動であった、そんなフランス社会の生活感覚が伝わってくるのだ。

旧制度(=アンシャン・レジーム)の日本社会で、夫は自由に愛人を囲み、妻はその逆で家に縛り付けられ何の楽しみも娯楽も幸福もなかったという現実が本当にあったのか。小生は疑わしいと思う。どの時代でも、男女は対等にそれぞれの幸福を求めていたことに変わりはなかったはずで、後の世の価値観を尺度に旧い世の中を振り返ると、自分には理解ができない。単にそれだけの話であろうと小生は思っている。

★ ★ ★

現代日本では「家」という制度はなくなった。土地に縛り付けられていない現代の日本人にとって「家」は生活基盤でもない。ただ「家族」が愛情をもった幸福な生活をおくるための基盤としてまだなお機能し続けている。昔の日本人にとって家族は生活基盤であり現実そのものであったが、現代日本人にとっての家族とは愛情にあふれた幸福を実現する場であって、現実の生活とは切り離されつつある、ある意味で精神的な基盤になってきた。

現実の基盤から、精神的な基盤への変容と言うべきか。

そのためかどうか小生にはまだ分からないが、現代日本では男女の恋愛までが社会的規律に従うよう求められ始めているようだ。「家庭」、「家族」なるものが社会の中で果たすべき機能について、何か大きな意識上の変化が日本人に生じつつあるのではないだろうか。とにかく、もはや「家族」は生産基盤でも生活基盤でもない。家族が離れ離れになっても、それぞれの個人は(幼少期の子供を例外として)ちゃんと生きていける。そんな世の中になってしまったのだ。

「食べていく」ことに困らなくなれば、「心の平安」を保障してほしいと願うのが自然である。人は欲深な存在なのだ。今風の家族とは何よりも幸福を築く共同体なのだろう。故に、その努力を台無しにする人物を許そうとしない…まあ、小生はこう思考する。

だからなのか、本来は男女の愛は自然発生的な感情であり、法やモラルとは関係がない。ないはずなのだが、違法ではないにせよモラルに反した行為をとった場合、「幸せを奪った」、「家庭を壊した」などと声をあげ世間は激しい社会的制裁を二人に加えるようになった。

う~ん、恋をするにも社会の指導を仰ぐ必要があるのか……。住みにくくなったネエ、と感じるのはジェネレーション・ギャップだろう。そのうち「家族外異性を対象とした恋愛行動を規制する法律」が国会に上程されるのではないか……。そんな世の中になってキタネエ。

★ ★ ★


既に子供を叱責するあり様にも法律の名の下で社会的規制が加えられるようになってきた。

本来は公私のうちの私的空間であった「家族」に社会という名の「公的管理」の視線が届くようになった。

これって日本人の幸福に国が責任をもつってことなの?

こう感じるのもジェネレーション・ギャップなのだろう。であれば、最近の投稿に話は戻る。

親と子の関係にも法的管理が届く。夫と妻の関係にも社会の目が届く。

旧制度の下では、家族は家を構成するメンバーで家の運営と管理は戸主が担っていた。土地や家が守られていれば、暮らしには最低限困らなかった。それで安心したのだ。

家族が助け合って暮らした昔と、物質的充足を得て今度は幸せを守ってもらおうとする現代日本と。こんな風に割り切ると見当違いだろうか。

漱石の『三四郎』に出てくる広田先生と同じく『亡びるね』と言いたくなるのはジェネレーション・ギャップだろう。ではあるが、「家族」は何よりも生活基盤であった時代に育った小生の感覚では、どんな「家族」なら社会的モラルに合致して非難されずにすむのか、よく分からない。多分、「家族」とは何なのか、その存在の定義が陳腐化してきているのだろう。これもまたジェネレーション・ギャップかもしれない。



2020年2月7日金曜日

メモ: この感覚は余りに「日本的」ではないか

トランプ大統領に対する弾劾発議。民主党が下院で主導して上院で否決されるという予想通りの結末となった。「いま流」の表現をすれば、民主党によるイメージ操作にもなろうか。

それにしても、大統領選挙運動がいよいよ始まるかというこの時機にこんな戦術に打って出るかネエ、というのが小生のイメージなのだが、こんな受けとめ方は世間的には偏っているのだろうか。

というのは、

これに関して共同通信は以下のような報道をしているのだ:

【ワシントン共同】米上院の弾劾裁判での無罪評決から一夜明けた6日、トランプ大統領はホワイトハウスで演説し、弾劾裁判について「地獄をくぐり抜けた」と振り返った。弾劾訴追を主導したペロシ下院議長(野党民主党)らを「邪悪」「うそつき」「ひどい人間」と約1時間にわたり罵倒。反省や国民への謝罪の言葉は一切なかった。【 2020年2月7日 6時12分配信】

『反省や国民への謝罪の言葉は一切なかった』というのは、日本人であれば極々自然な受けとめ方になるだろうが、これはロジカルではない。

そもそもト大統領は全て否認していたわけである。ロシア疑惑を調査したムラー特別検察官による報告書でも、大統領の罪を問えるだけの十分な証拠はないと結論している。にも拘わらず、大統領弾劾を発議したのは政敵である民主党議員であった。「無罪」と評決された後に、ト大統領が「謝罪する」と発言すれば、何を謝罪するのかという議論になる。疑いをもつのは政敵の側の自由意志である。政敵が疑惑をもったことに対して、持たれた側が謝罪すれば、それこそ政敵の「思う壺」というもので「お人好し」に過ぎよう。濡れ衣となった疑惑を世間に広めた側(=民主党)が謝罪するならまだわかるという理屈になる。

「世を騒がせしこと、余の不徳のいたすところ、このとおりじゃ」と国民に向かって頭をさげるのは、日本的感覚では奥床しい動作であり、それでこそ啓蒙専制君主たりうるのだが、民主主義政治のロジックとしては可笑しい。君側の宰相が「上様が頭を下げるなどもったいのう御座います」と、そんなヤリトリを期待したいのかもしれないが、時代劇の見過ぎである。現代社会は殿中の作法が支配するアンシャン・レジームではない。ト大統領は持たれた疑惑を手続きに沿って晴らしてきただけである。謝るべき対象はない。

ト大統領の立場からロジックを通せばこんな主張になるのではないか。

日本の通信社はどうやら米国の野党にシンパシーを感じているようだ。しかし、今秋の選挙で米政権が交代するとして日本の対米外交がより有利になるとも言えないだろう。そもそも米・民主党は共和党と比較すれば伝統的に親中的である。やはり報道はニュートラルな立場に立っておく方がよい。

2020年2月4日火曜日

一言メモ: 「死刑」と「社会的制裁」との関係についての憶測

数日前の投稿で「死刑に関する誠実な議論」のあり方について覚書きを書いた。

本日はその補足:

前の投稿でも書いたが、「死刑」という刑罰は公権力が行使する「殺人」である。それが容認されているのは、国民の大多数、つまり「大衆」が感情という次元において受け入れているからである。

本ブログでも何度かとりあげている「社会的制裁」であるが、死刑存続を認めている感性を前提とすれば、そのような大衆が行う社会的制裁もより過酷なものとなるのは必然ではないだろうか。

小生は、社会的制裁は裁判なき私刑であり、明らかに人権侵害であると考える立場に立っている。メディアやネットを主たる舞台として、更にはリアルな生活空間においても行われる「社会的制裁」が人権侵害であるという批判が広汎に現れてこないことと、「死刑」の存続が感情面で受け入れられていることと、どこかで繋がっているのではないかと憶測している。もし繋がりがあるとすれば、繋がりをもたらす共通因子として「人権意識の成熟度」を想定するのは大変ロジカルなモデルである。

戦後憲法によって現に制約されている日本政府の人権尊重と、自ら憲法を制定したわけではない日本人の人権意識の間に何らかの乖離、というかズレがあるとしても、不思議ではない。本来はその国民が共有している価値が憲法に反映され、憲法が政府を方向付けるものであるが、日本では憲法制定プロセスから自然に形成されるはずのソーシャル・メカニズムは働いていない。

なお、死刑を事実上にせよ、法律上にせよ廃止している国は、概ね世界で4分の3という割合になっているが、いわゆる「社会的制裁」の度合いと刑罰のあり方との相関、というより対応関係については丁寧なデータ分析を行ったわけではない。もし取り組むなら、社会的制裁の過酷さの度合いを測るための数値化の方法を工夫する必要があるが、データが与えられればあとはシンプルなT検定で判定できる。ただまあ、「社会的制裁の過酷度」を測定するのは言葉の概念定義を含めかなり手こずりそうな問題である。民主主義インデックスの作成手法に近いものを考えればいいだろうか。単純なT検定で有意な差が出て来れば、次に「人権意識の成熟度」を説明因子に加えた構造モデルを考えると、死刑の有無という質的変量も混じった興味深いモデルになる。そのまま共分散を計算できるわけではなく工夫が要る。もし推定できれば因子スコアも算出できるので、面白い国際比較が出来るかもしれない。

2020年2月2日日曜日

不愉快な人は「所詮△△に過ぎなかった」といえば確かに気楽だ

日本人は「水に流す」のが好きである。「好き」というより、そうするのがよいと思っている(と、小生を含めてそう自覚している)。

このところ目立つ意見は、日産のゴーン元会長の評価。
所詮、経営手腕など何もなかった。極悪な詐欺師のような人物が神様に祭り上げられていたに過ぎなかった。
そんな人物に20年も支配された今日の日産はダメダメな会社になっていなければおかしい。そんな理屈になる。「ニッサンの人たちは、自分の会社をダメにして、ホント、バカだったんだネエ」といわんばかりの意見にもなるのだが、意外とこのように考えたい日本人は多いのかもしれない。そんなダメな会社がよくもまあ"Note e-Power"のような独自性のあるコンパクトカーを発想できたものだ。トヨタから新発売された「ヤリス ハイブリッド 4WD」の評判は良くないのに。

まあ、それはともかく、具体的な表現には違いがあるが、逃亡したゴーン氏は要するに「大した人物」ではなかった、と。

そんな論調が次第に目に入るようになった。

★ ★ ★

何か失敗した時、この種の反応は小生自身も何度か経験してきた。

過ぎたことは仕方がない。いつまでも考えるな。大したことじゃない。これからが大事だ。

「逃がした魚は大きい」という諺があるが、それでは大きなトラウマになる。「大したことはなかったんだ」とうそぶけば、衝撃も緩和されるわけである。

しかし、こんな対応では「大きな失敗」を「単なる不運」と矮小化する事にもなるので、同じ失敗を何度も繰り返す原因になるだろう。こちらのほうが重大だ。

★ ★ ★

カルロス=ゴーンが1999年に来日して日産の舵取りを担うことになった時点で、日産はほぼ「死に体」であったことは否定できない。何も対処しなければ、2000年代に入って早々の時点でそごう、ダイエーやカネボウ、サンヨーなどと同じ運命をたどっていたに違いない。

会社更生を選択してから管理下でリストラをするか、自社の経営意思によってリストラを断行するか。倒産の危機に直面した企業がとりうる選択肢はそう多くはない。

日産はルノーに支援を仰ぎ、指名に近い形でゴーン氏の来日を要請した。要するに、日本人経営陣では実行困難なリストラを実行してもらうために外国人経営者をフランスから迎えた。そう見ておくほうが客観的である。

★ ★ ★

本ブログでも何度か引用しているが、小生の好きな言葉に
為すべきことを為すのは天才であり、秀才は為しうることを為す
という言葉がある。

分かってはいたはずだが日本人経営陣には出来なかった課題があった。その課題をゴーン氏は実行した。この点だけをみるとゴーン氏は天才であるという話になる。「神様ゴーン」という評価が拡散したのは無理からぬことである。

が、真の天才であれば、激烈なコストカットとは異なる「神様」ならではの妙手をこそ見つけるべきであった、と。ゴーン流のリストラなら誰でもできる、と。このような批判を表明する人が最近は多いのだと思う。実情は、その誰でもできるはずの簡単明瞭な解決策が日本人経営者には出来なかった。

問題の核心は、明瞭であった経営課題がなぜ日本人経営者には出来なかったのか?この点であるに違いない。

いずれにせよ、日産が危機を脱しうるどのような妙手が<ほかに>選択できたのか。小生は寡聞にして何一つ聞いたことがない。歴史に「イフ」はない。結果が全てである。

★ ★ ★

日本人経営陣には出来なかったことをゴーン氏は実行しただけである、というよりむしろそれをやってもらうことを日本人経営陣(及び通産省?)がゴーン氏に期待した。そう理解しておく方が正確だろう。

ゴーン氏が来日してから日本人経営陣が夢にも考えなかったコストカットをテキパキと進め始めたので周りは吃驚した……と。本当にこんな風に考えている御仁がいれば非現実的で、漫画のような人間観である。

こう考えると、ゴーン氏は決して「神様」のような名経営者ではなく、特に独創的なことを実行したわけでもない。所詮、会社経営というのは毎日の地味な経営実務の積み重ねであり、ミッドウェー海戦のような一瞬の行き違いから大逆転劇が始まるというものではない。ゴーン氏が為したことは、日産を倒産の危機から脱却させ、成長軌道に引き戻したことである。成長軌道に戻った後の経営戦略を作成したことである。そして、最終的に数々の疑惑(と陰謀?)の中で失脚したことである。即ち、神様ではなく失敗した経営者であるのは厳然たる事実だ。

期待どおりの問題解決をしたという実績からゴーン氏の評価は日産社内で確立された。その後の同氏の経営・組織戦略、研究開発戦略等々をどう評価するかは、非常に刺激的な経営学上の主題である。日本国内の経営学者が取り組まなければ、海外の経営学者が先に成果を出し、斬新な切り口を示して、重要な着眼点に光をあてるだろう。日産社内で編纂される「社史」がどの程度まで客観的で検証に耐えうる資料となるのか、小生は非常に疑問視している。学問的な研究によって会社経営の様々な側面で有効な結論が得られるに違いないと思う所以だ。

日本国内の経営学者は、言われなくともケーススタディの素材として日産をとりあげるはずである。ビジネススクールの経営戦略、組織戦略でも良き素材を提供することは間違いない。

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最終的に没落した人物を評して『所詮はつまらない、没落して当然の人間に過ぎなかった』という視線で物事を記憶するとすれば、「彼を信じた我々がバカだったのだ」という結論になりがちである。

しかし、そもそも人物評価とその人物の最終的な成功・失敗とは別々の事である。

失敗者の功績に目をふさげば、「西郷隆盛は最終的に西南戦争をひき起こして敗亡した。明治維新の功績があったかもしれないが所詮は馬鹿な人」、「織田信長は最終的に重臣に裏切られて自害した。所詮は脇の甘いバカな武将」、「ナポレオンは最終的に敗北してセントヘレナ島に流されて死んだ。所詮は失敗した無能な皇帝」という評価になる。失敗した人物が遺した実績は全て停止して当然であるという議論にもなる。

「失敗した人物が遺した業績は停止して当然、廃止するのが当然」という議論ほど有害な議論はない。

明治日本の司法制度は佐賀の乱で逆賊となった江藤新平によって確立された。江藤が整備した司法制度は、その後変遷を重ねながらも戦後日本の法曹界にも古層のように継承されている。佐賀の乱を鎮圧した大久保利通は自ら処刑した江藤の拠点であった司法省を解体するような愚かな決定はしなかった。為すべき事は人の世の変化とは関係なく歴史的与件によって定まっているものである。ここが肝心だ。

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ゴーン氏が逮捕されず、日産会長にまだ在職していれば日産がどのような経営状態であったかは、もはや想像するしかない。ゴーン氏が逮捕されて以降、株価はほぼ半値に下落した。社内は混迷している。今後どうなるかは不明だ。

正邪も善悪も何のラベル付けもされていない現実の世界においては結果だけが意味をもつ。人間がそれを正しいと思うか、善いと思うかは、<最終的には>重要ではない。いずれにせよ何があっても人は順応するのである。
Only result comes.
である。私たち人間に出来ることは、ただ現実の成り行きの「予測」のみである……というのが、小生の基本的な立場である。

2020年2月1日土曜日

一言メモ: BREXITに関連して

英国が1月末でEUを離脱する。

日経では『英離脱、戦後秩序に幕』とヘッドラインを掲げている。さすがにこれは大げさだろう。

英国は第二次世界大戦後に仏独主導の「欧州経済共同体(EEC)」とは別に「欧州自由貿易連合(EFTA)」を結成して、欧州内主導権を争った。

その争いもEEC優位の下で決着がつき、英国は自らが主導したEFTAを脱退して「欧州共同体(EC)」に加盟する途を選んだ。英国の他に、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オーストリア、ポルトガル、スイス、更にフィンランド(準加盟後に加盟)、アイスランドがEFTAに加盟していたが、英国はEUへと舵を切り直したわけである。戦後経済秩序が崩壊し国際通貨制度が固定相場制から変動相場制へ移行した1973年の年初の事であった。

英国のEFTA離脱と歩調を合わせデンマークも離脱、その後ポルトガル、スウェーデン、フィンランド、オーストリアがEFTAからEUに移った。EFTAには後になって加盟したリヒテンシュタインと併せて、現在はノルウェー、スイス、アイスランド、リヒテンシュタインがEFTAに属している。ノルウェーはEUに加盟していないことで知られているが、EFTAの創立メンバーであり、かつ現在も所属している国である。

BREXIT、即ち英国のEU離脱をもって『戦後秩序に幕』と呼ぶのは、ちょっと本筋から外れているのではないかと感じた次第。一度結成された団結が瓦解に向かい始めたというものでもない。実際はもっと複雑である。