2020年2月8日土曜日

昔と今の日本人の違いに関連して

「ジェネレーション・ギャップ」が指摘されるようになってから久しい。昔と今とでは同じ日本人でも感覚、常識、価値観、全てが違っているものだ。

世代ごとに感覚、価値観、常識が激しく変化していれば、互いに理解しあうのも困難なのは当たり前だ。

人間、心と心が通じ合えば、分かりあえるものだというのが原理だが、とにかく時間がかかるのは事実だろう。

「家」や「家族」が社会を構成する基本単位として制度化されていた旧い日本社会では、たとえジェネレーション・ギャップがあっても、家族の資産管理(=当時の日本は農業国だった)、生産基盤(=農業経営は主に家族経営だった)までが世代ごとに解体されることはなかった。親が死ねば子が家を継承することで何代も世代交代を続けた。というより、家業、家産を継承していくのが、最も安全確実な人生でもあったのだ ― こう書くと、固定した継承・相続と最終的な不平等拡大を容認するのではないかと言われそうだ。小生は、資産や所得分配の平等を守ることがそれ自体として善であるとする立場はとらないのだが、書き始めると複雑になりそうなので、これはまた別の機会に【この部分あとで加筆】。

ジェネレーション・ギャップはいつの時代にもあったろう。しかし、現代日本においては理解しあえない家族はただ離れるばかりである。家族が離散しても仕事には困らない社会である。

小生はその社会で支配的な生産関係が「下部構造」となって、その社会の文化、文明、価値観、常識などの「上部構造」を規定するというマルクスの社会観に全面的に賛同している、という点は以前にも何度か投稿したことがある。

★ ★ ★

「不倫」が世間を騒がせるようになってから久しい。ちょうど100年前に「白蓮事件」があって世間は騒然となった。人妻であった天皇の従妹が左翼青年と突然の逃避行を敢行したのである。現代日本でも同じことがあれば世間は吃驚するだろう。吃驚すると同時に、現代の日本人はモラルの観点から社会的制裁を二人に対して激しく加えるだろう。100年前、九州の石炭王であった夫は柳原白蓮から離婚を新聞紙上で公然と求められたことに激怒した。当たり前である。が、世間の人々は面白がりこそすれ、「駆け落ち」をした二人を世間から葬り去るような行動はとっていない。

「不倫」といえば歴史上の有名な人物も「不倫」をしている。山本五十六にも吉田茂にも身辺の世話をした公認の愛人がいたことは大変有名である。本来は人に知られぬはずの女性が有名な存在であったというのだから、やはり時代が違っていたということか。

バルザックの作品を読むと19世紀初期のフランス家庭のあり様に驚く。公的に結婚した夫婦はそれぞれ自由に社交や恋愛を楽しんでいる。結婚は、親から財産を継承した男女が新たに経済単位を形成するための手続き、つまりは結婚とは「政略結婚」であり生活の基盤。それに対して、すべて恋愛は夫と妻が幸福を実現するための自由な行動であった、そんなフランス社会の生活感覚が伝わってくるのだ。

旧制度(=アンシャン・レジーム)の日本社会で、夫は自由に愛人を囲み、妻はその逆で家に縛り付けられ何の楽しみも娯楽も幸福もなかったという現実が本当にあったのか。小生は疑わしいと思う。どの時代でも、男女は対等にそれぞれの幸福を求めていたことに変わりはなかったはずで、後の世の価値観を尺度に旧い世の中を振り返ると、自分には理解ができない。単にそれだけの話であろうと小生は思っている。

★ ★ ★

現代日本では「家」という制度はなくなった。土地に縛り付けられていない現代の日本人にとって「家」は生活基盤でもない。ただ「家族」が愛情をもった幸福な生活をおくるための基盤としてまだなお機能し続けている。昔の日本人にとって家族は生活基盤であり現実そのものであったが、現代日本人にとっての家族とは愛情にあふれた幸福を実現する場であって、現実の生活とは切り離されつつある、ある意味で精神的な基盤になってきた。

現実の基盤から、精神的な基盤への変容と言うべきか。

そのためかどうか小生にはまだ分からないが、現代日本では男女の恋愛までが社会的規律に従うよう求められ始めているようだ。「家庭」、「家族」なるものが社会の中で果たすべき機能について、何か大きな意識上の変化が日本人に生じつつあるのではないだろうか。とにかく、もはや「家族」は生産基盤でも生活基盤でもない。家族が離れ離れになっても、それぞれの個人は(幼少期の子供を例外として)ちゃんと生きていける。そんな世の中になってしまったのだ。

「食べていく」ことに困らなくなれば、「心の平安」を保障してほしいと願うのが自然である。人は欲深な存在なのだ。今風の家族とは何よりも幸福を築く共同体なのだろう。故に、その努力を台無しにする人物を許そうとしない…まあ、小生はこう思考する。

だからなのか、本来は男女の愛は自然発生的な感情であり、法やモラルとは関係がない。ないはずなのだが、違法ではないにせよモラルに反した行為をとった場合、「幸せを奪った」、「家庭を壊した」などと声をあげ世間は激しい社会的制裁を二人に加えるようになった。

う~ん、恋をするにも社会の指導を仰ぐ必要があるのか……。住みにくくなったネエ、と感じるのはジェネレーション・ギャップだろう。そのうち「家族外異性を対象とした恋愛行動を規制する法律」が国会に上程されるのではないか……。そんな世の中になってキタネエ。

★ ★ ★


既に子供を叱責するあり様にも法律の名の下で社会的規制が加えられるようになってきた。

本来は公私のうちの私的空間であった「家族」に社会という名の「公的管理」の視線が届くようになった。

これって日本人の幸福に国が責任をもつってことなの?

こう感じるのもジェネレーション・ギャップなのだろう。であれば、最近の投稿に話は戻る。

親と子の関係にも法的管理が届く。夫と妻の関係にも社会の目が届く。

旧制度の下では、家族は家を構成するメンバーで家の運営と管理は戸主が担っていた。土地や家が守られていれば、暮らしには最低限困らなかった。それで安心したのだ。

家族が助け合って暮らした昔と、物質的充足を得て今度は幸せを守ってもらおうとする現代日本と。こんな風に割り切ると見当違いだろうか。

漱石の『三四郎』に出てくる広田先生と同じく『亡びるね』と言いたくなるのはジェネレーション・ギャップだろう。ではあるが、「家族」は何よりも生活基盤であった時代に育った小生の感覚では、どんな「家族」なら社会的モラルに合致して非難されずにすむのか、よく分からない。多分、「家族」とは何なのか、その存在の定義が陳腐化してきているのだろう。これもまたジェネレーション・ギャップかもしれない。



0 件のコメント: