数日前の投稿で「死刑に関する誠実な議論」のあり方について覚書きを書いた。
本日はその補足:
前の投稿でも書いたが、「死刑」という刑罰は公権力が行使する「殺人」である。それが容認されているのは、国民の大多数、つまり「大衆」が感情という次元において受け入れているからである。
本ブログでも何度かとりあげている「社会的制裁」であるが、死刑存続を認めている感性を前提とすれば、そのような大衆が行う社会的制裁もより過酷なものとなるのは必然ではないだろうか。
小生は、社会的制裁は裁判なき私刑であり、明らかに人権侵害であると考える立場に立っている。メディアやネットを主たる舞台として、更にはリアルな生活空間においても行われる「社会的制裁」が人権侵害であるという批判が広汎に現れてこないことと、「死刑」の存続が感情面で受け入れられていることと、どこかで繋がっているのではないかと憶測している。もし繋がりがあるとすれば、繋がりをもたらす共通因子として「人権意識の成熟度」を想定するのは大変ロジカルなモデルである。
戦後憲法によって現に制約されている日本政府の人権尊重と、自ら憲法を制定したわけではない日本人の人権意識の間に何らかの乖離、というかズレがあるとしても、不思議ではない。本来はその国民が共有している価値が憲法に反映され、憲法が政府を方向付けるものであるが、日本では憲法制定プロセスから自然に形成されるはずのソーシャル・メカニズムは働いていない。
なお、死刑を事実上にせよ、法律上にせよ廃止している国は、概ね世界で4分の3という割合になっているが、いわゆる「社会的制裁」の度合いと刑罰のあり方との相関、というより対応関係については丁寧なデータ分析を行ったわけではない。もし取り組むなら、社会的制裁の過酷さの度合いを測るための数値化の方法を工夫する必要があるが、データが与えられればあとはシンプルなT検定で判定できる。ただまあ、「社会的制裁の過酷度」を測定するのは言葉の概念定義を含めかなり手こずりそうな問題である。民主主義インデックスの作成手法に近いものを考えればいいだろうか。単純なT検定で有意な差が出て来れば、次に「人権意識の成熟度」を説明因子に加えた構造モデルを考えると、死刑の有無という質的変量も混じった興味深いモデルになる。そのまま共分散を計算できるわけではなく工夫が要る。もし推定できれば因子スコアも算出できるので、面白い国際比較が出来るかもしれない。
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