2020年2月2日日曜日

不愉快な人は「所詮△△に過ぎなかった」といえば確かに気楽だ

日本人は「水に流す」のが好きである。「好き」というより、そうするのがよいと思っている(と、小生を含めてそう自覚している)。

このところ目立つ意見は、日産のゴーン元会長の評価。
所詮、経営手腕など何もなかった。極悪な詐欺師のような人物が神様に祭り上げられていたに過ぎなかった。
そんな人物に20年も支配された今日の日産はダメダメな会社になっていなければおかしい。そんな理屈になる。「ニッサンの人たちは、自分の会社をダメにして、ホント、バカだったんだネエ」といわんばかりの意見にもなるのだが、意外とこのように考えたい日本人は多いのかもしれない。そんなダメな会社がよくもまあ"Note e-Power"のような独自性のあるコンパクトカーを発想できたものだ。トヨタから新発売された「ヤリス ハイブリッド 4WD」の評判は良くないのに。

まあ、それはともかく、具体的な表現には違いがあるが、逃亡したゴーン氏は要するに「大した人物」ではなかった、と。

そんな論調が次第に目に入るようになった。

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何か失敗した時、この種の反応は小生自身も何度か経験してきた。

過ぎたことは仕方がない。いつまでも考えるな。大したことじゃない。これからが大事だ。

「逃がした魚は大きい」という諺があるが、それでは大きなトラウマになる。「大したことはなかったんだ」とうそぶけば、衝撃も緩和されるわけである。

しかし、こんな対応では「大きな失敗」を「単なる不運」と矮小化する事にもなるので、同じ失敗を何度も繰り返す原因になるだろう。こちらのほうが重大だ。

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カルロス=ゴーンが1999年に来日して日産の舵取りを担うことになった時点で、日産はほぼ「死に体」であったことは否定できない。何も対処しなければ、2000年代に入って早々の時点でそごう、ダイエーやカネボウ、サンヨーなどと同じ運命をたどっていたに違いない。

会社更生を選択してから管理下でリストラをするか、自社の経営意思によってリストラを断行するか。倒産の危機に直面した企業がとりうる選択肢はそう多くはない。

日産はルノーに支援を仰ぎ、指名に近い形でゴーン氏の来日を要請した。要するに、日本人経営陣では実行困難なリストラを実行してもらうために外国人経営者をフランスから迎えた。そう見ておくほうが客観的である。

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本ブログでも何度か引用しているが、小生の好きな言葉に
為すべきことを為すのは天才であり、秀才は為しうることを為す
という言葉がある。

分かってはいたはずだが日本人経営陣には出来なかった課題があった。その課題をゴーン氏は実行した。この点だけをみるとゴーン氏は天才であるという話になる。「神様ゴーン」という評価が拡散したのは無理からぬことである。

が、真の天才であれば、激烈なコストカットとは異なる「神様」ならではの妙手をこそ見つけるべきであった、と。ゴーン流のリストラなら誰でもできる、と。このような批判を表明する人が最近は多いのだと思う。実情は、その誰でもできるはずの簡単明瞭な解決策が日本人経営者には出来なかった。

問題の核心は、明瞭であった経営課題がなぜ日本人経営者には出来なかったのか?この点であるに違いない。

いずれにせよ、日産が危機を脱しうるどのような妙手が<ほかに>選択できたのか。小生は寡聞にして何一つ聞いたことがない。歴史に「イフ」はない。結果が全てである。

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日本人経営陣には出来なかったことをゴーン氏は実行しただけである、というよりむしろそれをやってもらうことを日本人経営陣(及び通産省?)がゴーン氏に期待した。そう理解しておく方が正確だろう。

ゴーン氏が来日してから日本人経営陣が夢にも考えなかったコストカットをテキパキと進め始めたので周りは吃驚した……と。本当にこんな風に考えている御仁がいれば非現実的で、漫画のような人間観である。

こう考えると、ゴーン氏は決して「神様」のような名経営者ではなく、特に独創的なことを実行したわけでもない。所詮、会社経営というのは毎日の地味な経営実務の積み重ねであり、ミッドウェー海戦のような一瞬の行き違いから大逆転劇が始まるというものではない。ゴーン氏が為したことは、日産を倒産の危機から脱却させ、成長軌道に引き戻したことである。成長軌道に戻った後の経営戦略を作成したことである。そして、最終的に数々の疑惑(と陰謀?)の中で失脚したことである。即ち、神様ではなく失敗した経営者であるのは厳然たる事実だ。

期待どおりの問題解決をしたという実績からゴーン氏の評価は日産社内で確立された。その後の同氏の経営・組織戦略、研究開発戦略等々をどう評価するかは、非常に刺激的な経営学上の主題である。日本国内の経営学者が取り組まなければ、海外の経営学者が先に成果を出し、斬新な切り口を示して、重要な着眼点に光をあてるだろう。日産社内で編纂される「社史」がどの程度まで客観的で検証に耐えうる資料となるのか、小生は非常に疑問視している。学問的な研究によって会社経営の様々な側面で有効な結論が得られるに違いないと思う所以だ。

日本国内の経営学者は、言われなくともケーススタディの素材として日産をとりあげるはずである。ビジネススクールの経営戦略、組織戦略でも良き素材を提供することは間違いない。

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最終的に没落した人物を評して『所詮はつまらない、没落して当然の人間に過ぎなかった』という視線で物事を記憶するとすれば、「彼を信じた我々がバカだったのだ」という結論になりがちである。

しかし、そもそも人物評価とその人物の最終的な成功・失敗とは別々の事である。

失敗者の功績に目をふさげば、「西郷隆盛は最終的に西南戦争をひき起こして敗亡した。明治維新の功績があったかもしれないが所詮は馬鹿な人」、「織田信長は最終的に重臣に裏切られて自害した。所詮は脇の甘いバカな武将」、「ナポレオンは最終的に敗北してセントヘレナ島に流されて死んだ。所詮は失敗した無能な皇帝」という評価になる。失敗した人物が遺した実績は全て停止して当然であるという議論にもなる。

「失敗した人物が遺した業績は停止して当然、廃止するのが当然」という議論ほど有害な議論はない。

明治日本の司法制度は佐賀の乱で逆賊となった江藤新平によって確立された。江藤が整備した司法制度は、その後変遷を重ねながらも戦後日本の法曹界にも古層のように継承されている。佐賀の乱を鎮圧した大久保利通は自ら処刑した江藤の拠点であった司法省を解体するような愚かな決定はしなかった。為すべき事は人の世の変化とは関係なく歴史的与件によって定まっているものである。ここが肝心だ。

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ゴーン氏が逮捕されず、日産会長にまだ在職していれば日産がどのような経営状態であったかは、もはや想像するしかない。ゴーン氏が逮捕されて以降、株価はほぼ半値に下落した。社内は混迷している。今後どうなるかは不明だ。

正邪も善悪も何のラベル付けもされていない現実の世界においては結果だけが意味をもつ。人間がそれを正しいと思うか、善いと思うかは、<最終的には>重要ではない。いずれにせよ何があっても人は順応するのである。
Only result comes.
である。私たち人間に出来ることは、ただ現実の成り行きの「予測」のみである……というのが、小生の基本的な立場である。

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