2020年2月29日土曜日

昨日の補足: 政治と行政

前稿の補足。

昨日投稿にはこんな下りがある:

もちろん、大きな成果を狙えば大きな失敗をするリスクが生まれる。しかし、官僚ではなく政治家は本来リスク・テイカーであって、失敗すれば地位を失う。その意味では、民主主義社会はフェアである。

日本国内では今回の首相の要請に対して賛否半々という状況だ。地元の道新は、昨日の鈴木道知事の「非常事態宣言」と「外出自粛の要請」も含めて、今回の「政治的要請」は基本的人権の侵害に該当すると考える憲法学者もいると指摘している。

しかし、海外の論調と日本国内の論調には差があるようだ。海外の反応はばらつきがありながらも一定の平均的な傾向を示し、日本だけが海外とは異なった反応をするとすれば、日本の側にバイアスがあるという証拠になるだろう。

話題とは離れるが、長年購読してきた道新をこの3月で停止することにした。小生がこの町に移ってきた頃とは違って、左翼的になり過ぎた。

話しを戻す。


昨日投稿ではこんなことも書いている:

本来は着実であるべき行政府の最高責任者になぜ行政のプロである官僚出身者ではなく、政治家が就く必要があるのか。それは単にそのほうが民主主義に適っているからというのとは別に、もっと重要な本質的理由があるのかもしれない。

現在時点で書けることをメモしておきたい。

一口に言えば、行政はソーシャル・マネジメントであり、社会の「定常性」を前提する業務であるが、政治は社会が本来もっている「非定常性」に対応する行動であるからだ。こんな風に言えることまではすぐに見当がつく。

例えば・・・自動車を運転するドライバーは道路交通法に従って安全に運転する義務をおう。が、事故や危険を緊急に回避する場合であれば、道交法の定める規則には反してでも、そのとき最も必要な回避行動をとるべきである。これは当たり前の理屈だろう。そして、事実、誰もがそうするはずである。法は人が決めたルールに過ぎないが、実際に存在するのは人の生命であり、現実の生活なのだから。何が必要であるかはリアリティが決める。

社会の非定常性をもたらす原因は複数ある。そもそも自然環境は決して定常的ではない。定常であると考えているのは、宇宙的スケールではなく、人の尺度で時間をはかっているからに過ぎない。地球も太陽系も最後には消滅するのである。

技術もまた非定常的である。というより、毎年、新しい知識が獲得されるので、いわゆる「拡大情報系」にあたる。技術を基礎にした生産活動、生産活動から派生する消費社会もまた定常的ではない。新しい種類の問題が常に発生する。

あるいはまた、「ブラック・スワン」とただ一言いえば、足りるかもしれない。

定常性を前提とする法律は、だから必然的に陳腐化し、リアルな社会状況とは合致しなくなる。

法と社会的現実が合致しなくなったことに目をつぶり、現行方式の行政を続けることは非合理である。非合理な統治は持続可能ではない。ある意味で、政治は行政をリセットする行動であり、幾分か破壊的で、かつ急進的である。

破壊的な政治現象が社会的には多数の歓迎を得て、むしろ社会を進歩させる契機にもなりうることがある。それは法治主義に基づいた行政は時間の進行とともに破綻する確率が高まるからである。

こんな印象論的なイメージなら容易に書けるのだが、きちんと議論するとなると大変そうだ。

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