2020年2月15日土曜日

【改稿】政治と官僚人事について

官僚行政から政治家による行政へと大きく舵が切られたのは2014年に内閣人事局が開設されたことを契機とする。各省庁の幹部人事(≒高級官僚|指定職)は内閣官房で一元的に管理されるようになった。官僚による「忖度」がマスコミや世間でしきりに口にされるようになったのはそれ以降のことである 。

内閣人事局開設前は政治家による官僚人事介入がまったくなかったかといえば、それは誤りで、田中角栄・福田赳夫の二人の大物政治家の意向に発した大蔵事務次官人事の葛藤などはノンフィクション小説にまでなったほどだ。なので、内閣人事局によって官僚人事が大きくゆがめられることになったという指摘には、そう語っている人の政治的立場が自ずから反映されており、相当のマユツバである。これが第一点。

選挙を経ていない官僚が各省庁に割拠して、政治家の介入を排しつつ行政を行うのは、民主主義とはほど遠い社会のあり様だと頻りに批判していたのは関係学界の専門家、マスメディアの側である。政治家による官僚人事一元管理は左翼、リベラル派の「永年の夢」であったことを忘れるべきではない。これが第2点。

その内閣人事局が安倍政権発足後に開設され、その果実を縦横に安倍内閣が活用している。その現状が、民主党の流れをくむ現・野党、及びリベラル派のメディア各社には腹立たしい。この心情もまた理解できる。まさに『トンビに油揚げをさらわれた』のが現状であり、こんなはずではなかったのである。政治家による官僚人事一元管理は、恩師・田中角栄を「闇将軍」という離れ座敷に追い込み、更には自身にとっても不倶戴天の敵である法務官僚とその他すべての霞ヶ関官僚に対する小沢一郎による仇討でもあったのだから、現状への無念の心情もムベなるかな、である。まさか政敵である清和会に属する右翼の代表・安倍晋三によってウマウマと活用されるとは。変えられぬ現状への無念は余りあるはずだ。

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最近になって法務省の大物官房長、大物事務次官を経た東京高検検事長の定年が国家公務員法の規定を根拠に半年間延長されたというので結構な騒動になっている。もしこれが通れば、検察内部の既定路線である総長継承の順番が政治によってかく乱される可能性が出てくる。それは「法の番人」である検察当局に対する不法な政治的介入であるというのだ。

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ただ、どうなのだろうなあ……、とは思う。

国権には三権あり、国会は「法律の立法」、政府は「法律の執行・運用」、そして司法が正当な法解釈を示すという意味で「法の番人」となる理屈で、もしもそうではない理屈があるならキチンと考えをうかがってみたいものである。

検察とは、言うまでもないが、国による公訴権を実行する機関である。「検察官」の英名である"prosecutor"の動詞形、"prosecute"は「起訴する」という意味であり、行政府が司法府に法を犯した(と行政府が判断する)者を訴えて刑罰を求める、即ち公訴という行為を実行する主体が検察である。

公訴権を実行するという行為は行政権に基づく。告発は、国税、公正取引委員会、厚生労働省など複数の行政機関も行う。しかし、査察権限をもつ個別の行政機関が裁判所に対して直接的に公訴することは認められておらず、日本では一元的に検察によって公訴される。捜査機関である警察も容疑者を送検して、検察が起訴することで裁判が開始される。ただ一つの例外といえば、司法改革によって権限が強化された検察委員会による「強制起訴」であろう。

その職務内容の専門性の故に検察官は法律を熟知し法曹資格のある専門家が「検事」という職名で任用されて仕事をしている。ちょうど厚生労働省では医師免許をもっている専門家が「医系技官」として任用され政府の医療・公衆衛生行政を担っている状況と相似関係にある。検察人事に内閣の意向が反映されること自体が司法の独立性を脅かすのであれば、医系技官人事に内閣が意見を述べることも日本の医療を脅かすことになるのではないか。公平であるべき税務行政を総括する国税庁長官人事は内閣の意志とは独立して決めるべきであるという主張にもなる。

要するに、『安倍内閣は信用できない』と一言いえば済むのだ。学問的正論であるかのように政治的敵愾心を展開するのは(政治家としては当然であるかもしれないが)不誠実であって不快である。

ここまで書いておけば、今回の結論もあるということで内容としては十分だ。ただ、小生の「思想」というほどのものではないが、基本的な観方を書いておくのも覚え書きとしては無駄ではない。

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司法制度は国によって(また時代によって)大きく異なっている。たとえば米国では「地方検事」が通常事件の容疑者を公訴しているが、この「地方検事」という職は選挙で選ばれている ― 「連邦検事」はまた別。アメリカのミステリー小説に地方検事が頻繁に登場するのでこの辺りの事情はよく知られている。司法試験によって任用される検事と選挙によって選ばれる地方検事と、やはり同じプロフェッショナルでも目指すところ、期待されている職務イメージは両者で大きく異なるものと予想される。任命方式は異なるとしても、検察が担当する職務は主として公訴権の実行であり、少なくとも捜査と公訴が一体的に実行される在り方はノーマルとは言えないはずである。例えばヴァン・ダインの小説では、地方検事・マーカムが名探偵・ファイロ=ヴァンスに見解を聴きながら、警察の捜査活動を指揮しているが、小説はあくまでも小説である。

公訴・公判、捜査+公訴・公判、事案によって様々だろうが、裁判所による判決が出るまでは推定無罪である。公訴権を実行して刑罰を求刑する検察庁が「法の番人」であるなどという見方は(小生の感覚では)許容できないほど酷い言い方である。検察と弁護人は常に対立しつつ同じ場を共有して判事の判決へと向かうべきである、というのが世界的には本筋であろう。

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こう考えると、検察官の人事もまた行政庁の人事であって、またそうあるべきであって、政治家による人事一元管理の対象内であると考えても理屈は通ると小生には思われる。

人事をめぐっての葛藤というのは、内閣人事局があろうとなかろうと時には発生することである。特に、同期入省者の中に実力実績共に匹敵する二名がいれば、それぞれの人物をバックアップする(=人脈となる)政治家がつき、ルーティンであるはずの官僚人事が政治家同士の代理戦争になってしまうという事態は、起こるべくして起こる事象である。

今回の法務省人事も葛藤パターンに合致しており珍しいものではない。となれば、どんな紛争があっても所詮は対立する政治家同士の代理戦争であると認識しておくのが本筋の見方だ。

仮に、どの政治家も背後にはおらず、純粋に法務官僚のみの意図的行為によって内閣人事局における人事方針の転覆が企てられるなら、それは「官僚による政治への介入」となる理屈である。戦前期・日本で横暴を極めた陸軍省、海軍省による様々な妨害行為を思い起こすべきだろう。官僚の割拠を見方はどうあれ容認すれば、むしろこちらのほうこそ遥かに憂慮されて然るべきである。

今回の第2の結論があるとすればここだろう。

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まあ、政界を巻き込む疑獄事件の捜査を地検特捜部が担当しているという状況もあるので、内閣による検察人事管理が捜査妨害につながるのではないかと警戒する心情が生じるだろうとは思う。

が、「だから検察人事は内閣とは独立した神聖なものであるべきだ」と言い出せば、果ては「国防という限りなく重要な職務を担っている自衛官の人事に政治家が口を出すことは言語道断」という言い分にもなりうる。「警察官僚が内閣官房の枢要な地位に就くこと自体、警察の中立性を損ない、警察に対する政治家の介入を疑わせる人事である」と非難する人が出てきてもよいことになる。こちらのほうが遥かに危険な考え方であろう。

権力を行使する実働部隊である官僚の活動には内閣による統制が不可欠である所以である。

が、言うまでもないが、なにごとにも完璧な社会システムは存在しない。
既に何度も投稿しているように、「絶対的に正しいこと」というもの。これまたこの世に存在しない。

そもそも絶対的な真理は、社会科学にも自然科学にすらもなく、ただ数学的な命題にのみ存在するものだ。社会や人間について「正しい」と人がいうとき、それはその人が立っている価値観や理念を認めるという前提あっての結論である。

純粋の論理を別とすれば、「これが正しい」とか、「これが善い」という判断もまた特定の目的追求を前提としたマネジメントの一部である、というのが小生の「社会哲学」かもしれない。

民主主義、そして自由経済を是とする資本主義を大前提とすれば、行政府の全ての公務員人事は選挙で選ばれた政治家が構成する内閣によって管理されるべきである。この過程に多数派の利益動機が混在するとしても、それは仕方がないことであって、エリート層による独断専行を防止するという意味では、むしろ望ましい事なのだ。こう考えておくことは自然に出てくる結論のように思われる。

この結論を変えるには、大前提である<民主主義>か、<資本主義>かのいずれかに手を入れるしかないのではないか。そう思われるのだ、な。





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