2020年2月24日月曜日

政治主導にもさすがに「倦怠感」が出て来たか? 

政治家の数は少ない。政治家=議員と狭く解釈しよう。そうすると国会議員に限ると、衆議院(465人)、参議院(248人)を合わせて713人だけである。規模の大きい高校なら1学年の生徒数程度である。

国の行政を政治家で主導するといっても、マンパワー的にはどうであろう……、秀・優・良・可・不可という出来不出来はどんな人間集団にもある。なので、政治家全体のせいぜい1割として70名程度が休みなく何かの役職を勤め続けて頑張り続けなければならない、そんな現実的な事情は否定できないのではないか。役人であれば試験に合格した新世代が毎年採用され、定年に達した旧世代が退職することによって新陳代謝がルーティン化されている。しかし、政治家にはそんなメカニズムはない。ただ選挙でより多くの票を集めるかどうかだけである。

結局、政治主導という理念も何年かたつうちに政治家の方が疲弊してくるのではないか、と。そんなことを考えたのはもう何年前の事だろうか。「政治家なんて頼まれても絶対にやりたくはないネエ、〇〇長なんて役回りが巨大化したのが政治家だからネ、自分とは関係のないあらゆる種類の雑用やら苦情の処理係で、泥まみれになって、疲弊するばかりサ」などと嘯いていた日が今は懐かしい。

政治家が疲弊しないために実働部隊がいる。公務員の人数は、国の一般職(含む、検察官、特定独立行政法人職員)だけでも34万人にのぼるのだ。

官僚という実働部隊に任せないのは「民主主義」に忠実であろうと願うからである。官僚は選挙で選ばれた人間集団ではなく、選挙で選ばれた議員が民意を反映している。これが現代社会をみる基軸になっている。では、なぜ民主主義によらねばならないか。人々の幸福のためである、と回答するのが学問的認識としては標準だろう。しかし、何度か投稿(最近ではこれ)したように、国は人々の幸福を達成するために出来たものではないのだ。小生は偏屈なへそ曲がりなのでこう考えている。

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最近の感想を二つ。

ますます紛糾しそうな「検察官の定年延長」。実際に定年が間近に迫ってきた今になってから提案するよりも、定年延長される御当人が東京高検検事長ではなく法務省の事務方トップであったときに、公務員の定年管理の一環として済ませておくべきであったのではないか。法務省の行政事務として問題提起するなら、まだ筋道に適っている。そのときに済ませておくべき事柄を差し迫ってから「急ぎ働き」でやるのは、所謂「焼きが回った」という奴である。ゆとりがあれば絶対にしないはずだ。

次に、新型コロナウイルス感染防止対策に関連して。ウイルス感染防止対策はマスコミがそれこそ急性の強迫神経症に陥ったかのように狂熱的にとりあげているので、政治的重要性については理解できる。しかし、この種の公衆衛生行政には感染防止の基本戦略があり、何より科学的視点と国際協調の感覚が非常に大切であるはずだ。

そもそも公衆衛生行政は「政治主導」で進めるべき事とも小生には思えない。

首相官邸が「かかりっきり」になるのは理解できないわけではないが、それより消費税率引き上げ後の需要減退、景気循環的な後退局面入りの可能性、感染源である中国初のサプライサイド混乱によるショック、過剰な懸念と外出自粛ムード、etc. etc.がもたらすはずの経済的ショックの影響をどのように予測し、どのように対処していくのか?こちらのほうが「政治的」には遥かに緊急性がある。

こちらの問題に頭を使う時間とエネルギーは残っているのだろうか?こちらのほうが「政治家が担当するべき問題」であるのではないだろうか。

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波に揺られた小舟に安定性を取り戻すには船を操るスキルが要る。しかし、周りの海に目を転じ、次の波、その次の波、吹いている風の方向をまず知らなければ、安全な操船という目的を達成することはできない。

マスメディアも疲弊してきて単細胞動物に似てきた。大臣、副大臣、政務官をやっている政治家たちも疲弊しているか、茫然自失しているか、怠けているか。そのいずれかである雰囲気だ。

政治主導にもそろそろ「倦怠感」、「疲弊感」が出て来たか……。

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民主主義社会は、上手に運営しないと疲弊しやすいのだ。上手に運営するには知性が必要だ。それも一定人数を超えたソーシャル・クラスが人間集団として継続的に存在し、社会の事を考えるだけの知性と余裕をもち、一定の社会的責任感を併せ持ち、そして自由に発言し続ける、そんな社会状況が民主主義には必要だ。そうでなければいくら力があっても政治家数10名程度で1億の住民がいる国を主導できるわけがない。

いや、話は逆だろう。そんな社会集団があればその社会は自ら民主主義を選んでいく。そんな社会集団が失われれば、民主主義を捨てる方が問題解決には有益である。有益であるならそちらを選んでいくはずだ。この考え方の方が正解かもしれない。

民主主義は紀元前5世紀半ばに古代ギリシアのアテネで原始的な形で運用されそれが政治の理想形として遺った。しかし、その黄金時代の後30年に及ぶペロポネソス戦争で敗戦国となり理想の政治が崩壊したのはアテネの側である。アテネ・モデルには「うまく行く」ための前提があったのだ。その前提が崩れれば民主主義で社会はうまく統治できない ― ここでいう「前提」についてはツキディデス『戦史』を参照のこと。崩壊の契機は(偶然であるが)疫病の流行である。時系列の順に挙げれば、疫病の発生とその後の一連の迷走と政争がアテネの民主主義を崩壊させている。民主主義の天敵は強力な敵国ではない。

どんな望ましい結論にも前提がある。民主主義にも前提がある。最近、こんな風に思うことが多い。

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