2020年2月14日金曜日

一言メモ: 芸術とドラッグ

槇原敬之氏が違法ドラッグ所有でまた逮捕されたとの報道だ。覚醒剤である。

言うまでもなく、同氏は過去にも一度逮捕されている。その時も覚醒剤であった。それから20年余の時間が経った。

芸術とドラッグはどうも深い縁で結ばれているようだ。

ずっと昔の状況は記録には残っていないが、物語上では著名な存在である私立探偵・シャーロック=ホームズもコカイン常用者として知られている。相棒・ワトソンはホームズの悪い習慣を止めるように注意しているのだが、仕事がなく手持無沙汰のときはコカイン服用で憂さをはらすのがホームズの習慣であった。事件解決が佳境に入り精神を鎮静させる必要を感じるとき、独りでヴァイオリンをとりだして演奏する。これもホームズの習慣の一つである。

既に何度も投稿したが、昨秋の10月頃から今年に入ってしばらく、聴く音楽は文字通りモーツアルトだけだった。モーツアルト以外は何も聴かなかった。何か月かをこんな風に過ごしたのは初めてである。Amazon PrimeとYoutubeを併用すると、ケッヘル番号のついている楽曲はほぼ全てが鑑賞可能になっているご時世である。この事実自体にずっと気がつかなかったのは大変な損失だ。ケッヘル番号は『レクイエム』の626番が最後である。生涯に作った曲は900に上るとも言われており、今でも草稿がたまに出てきたりする。シンフォニー『プラハ』の初演当日のように聴衆のリクエストに応えて即興で弾き楽譜が残っていないという例もある。スマホがあれば録音されていただろうに、と思う。

この半年で最も頻繁に聴いているのはピアノ協奏曲14番である。どの楽章もいい。第2楽章は春爛漫に散りゆく桜を想わせるようなAndantinoだが、第3楽章のロンドも実にノリがいい。このロンドでピアノと管弦とが猛烈な速度でかけあうところなど、まるでジャズのBud Powellを思い起こさせるようなスイング振りで、自ら演奏するのが常であった生前のモーツアルト、『こりゃあ、キテルわ』。ドラッグといっても、ハーブと言ってもいいのだろうが、正常の神経ではあんな楽曲はそもそも創れないのじゃないか。どうしてもそう感じてしまうのだ、な。他にも例えばフルート四重奏曲1番の第3楽章からも異様な飛翔感を感じる。ちなみに時々ジャズを聴くようになったのは旧友の影響である。

いま「異様な飛翔感」と書いたが、そういえばベートーベンのピアノソナタや交響曲にも心的な燃焼の炎が直接的に伝わってくるような瞬間がある。あれほど異様なほどの高揚感や真逆の絶望感は普通の精神状態では持てないと思う。そんな瞬間はショパンにもある。ワーグナーにもブルックナーにもブラームスにもある。

そういえば芥川龍之介の後期の作品。彼はヘビースモーカーで、加えて睡眠薬を常用していたらしいが、であるからこそ日中覚醒しては、あのような凡人には思いもつかない世界を文章の世界に遺すことが出来たのだと思う。本当に服用していたのは、睡眠薬だけだったのか……、そう思いめぐらすことも1度や2度ではない。

普通の生活をして、普通に生きて、安全な人生を安んじて生きる人物は、芸術を志して成功する可能性はないのではないかと思う。芸術ばかりではない。大学の一教師ならともかく、学者の道を志し、真理を本気で探究するなら普通の生活は(心構えとして)諦める必要がある。

ま、モーツアルトは35歳で死んだ。ギャンブル好きで派手な生活振りであったという。不健康な生活習慣もあったに違いない。いったん音楽に没入すると誰が何を話しかけても聞こえず食事も睡眠も忘れたらしい。音楽は残り至宝になった。自分の死後、200年以上も経ってから、極東の一日本人が自分の曲をWalkmanで聴いては感動に震えている、そんな情景など生きていたモーツアルトが想像すらしなかったろう。

芸術で生きる人間というのは、自分の寿命よりも楽曲を遺すほうが大事であるのだろう。歴史に遺る名演をやってのけて後世の語り草になれば死んでも本望なのだろう。この「本望」という言葉、現代社会からフェードアウトしてから、もう何年がたつだろう。

創造より、美より、真理探究よりも法律やルールを尊重することに高い価値が与えられる。中身よりも規格が優先される。実質より形式を先に見る。時にはモラルさえもが社会の表舞台に出てきて大きな顔をする。

一言で現代日本社会の傾向を表すと、<杓子定規>。この四文字熟語に尽きる。

現代社会のスピリットであることに旧世代から異を唱えるつもりはないが、『これが俺の本望さ』というセリフがめっきり時代遅れになった現代社会は、その分、コンプライアンスこそ徹底されてはいるが、「結局、生き延びる人は人畜無害。『沈香も焚かず屁もひらず』でつまらない。つまらない社会になってしまったネエ」、そんな風に語り始めそうだ。何だか途方に暮れた羊の群れが一億総不安になっているようでもあり、だからこそ「安心社会」が願望されているのだろうか、「昭和も遠くなりにけり」というのはこういう事か、と。それにしても平成コンプライアンスよりは大正デモクラシーの方がスケールの大きい理想があったネエ。どうしてもそんな風に感じてしまう自分がいる。

上でいま思いついて「平成コンプライアンス」と書いた。連想ゲームのようだが、下に時代の区切りを言葉にして遊んでみよう。


  1. 明治維新 ⇒ Meiji Restoration(メイジ・リストーレイション)
  2. 大正「民主主義」 ⇒ Taisho Democracy (タイショー・デモクラシー)
  3. 昭和時代:敗亡、回心、再生 ⇒ The Era of Showa: Catastrophy, Metanoia and Reborn (ショウワ・カタストロフィ・メタノイア・アンド・リボーン)
  4. 平成「法令主義」 ⇒ Heisei Compliance (ヘイセイ・コンプライアンス)

こうして言葉遊びをしても日本の近現代史の大きな流れがやはり見えてくる。昭和時代の激動はとても一つの言葉では伝えられない。明治日本の敗亡と戦後日本の再生が、今に至るまで日本人の潜在意識で深い刻印になって残っている(はずである)ことも改めて意識される。最近「極右」という言葉が語られたりするが、そうした運動は表層部分で踊っているだけであることにも推察がつく。

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