2020年2月28日金曜日

一言メモ: 政治的現象には特有のスピードと変化がある

以前、小池百合子氏が自民党都連の意志に反抗して都知事選に立候補することを決めた時、1日単位で情勢が激しく変化し、毎日吃驚するほどのニュースが出てきたものである。小池氏が都知事に就任してから、次に民主党の当時の代表であった前原氏と連携し、「希望の党」を結成したときにも、国政選挙を控えて情勢は激しく変化し、ニュースは毎日更新されていった。

政治の本質はスピードにあると小生はずっと考えている。
『正攻法で行こう』という姿勢は基本的に正しい考え方だが、執着するとすればその人は政治家ではない。正道と詭道の両方に通じなければ政治はできない理屈だ。

今度は新コロナ型ウイルスである。昨日、安倍首相が主導する形で日本全国の小・中・高等学校の一斉臨時休校が要請された。唐突な印象もあるようだ。駅前ではこれを報じる号外が街ゆく人に配られた。

インフルエンザ流行では、まず欠席する生徒児童の増加に伴って学級閉鎖をする、状況を見ながら学校閉鎖も選択するという漸進的なスタイルで対処してきた。インフル流行の現場を担当する個々の学校運営責任者の判断によって必要に応じて閉鎖措置が採られてきたわけだ。事前に全国一斉臨時休校への感触を官邸から打診された文科省は「現実的には実行困難である」と回答したよし。

ウイルス流行への対処は緩やかに進行するものである。これに対して、1日単位で予想外の決定が続き、皆が驚くというこんな状況は、リアルな社会状況が迫っている問題を解決するというより、「政治」という行為が行われていることが示唆される。

昨日の首相による要請は「政治」である。小池百合子氏の都知事選立候補、希望の党結成と同じ性質を共有する、政治家による政治現象がいま進行中であると観る。外見は公衆衛生だが、それは外観で、これは政治である。政治家が政治をしているのは当たり前であるが、日本にはまるで行政官のような政治家が多い。安倍首相という人物は「行政」よりも「政治」が好きなのだろうとつくづくと感じるのだ、な。

★ ★ ★

いま三重県に配属されている下の愚息によく話していることだが、
大胆であることの裏面には鈍感という欠点がある。繊細であることの裏には神経質という短所がある。短所を直そうとすれば長所が死ぬ。
小生が好きな警句である。

新コロナ型ウイルスの国内感染確認者がまだ千人もいない中で、全国一斉休校を決断できるのは、大胆な決定である。と同時に、現場の事情を無視する鈍感な決定でもある。安倍総理から時に固有の鈍感さを感じるのは小生だけだろうか。また、鈍感であると同時に大胆でもあると感じる人は案外多いかもしれない。

やっていることは、それほど効率的ではない可能性がある。ひょっとして終わってみれば英断かもしれない。成否は不確実である。どちらにしても政治という行為は未来にかける投資に似ているところがある。結果が全てだ。しかし、大きな結果は大胆な行動から、大胆な行動のみから得られるのも古今の経験則である。政治にもこの経験則が当てはまる。

細部を丁寧に検証しつつ着実に計画をつくって行動へ移すという繊細緻密な行動原理では大きな決断は出来ない。不確実な現実の中では『下手な考え、休むに似たり』という格言が意味をもつ。繊細にして大胆であるのが理想だが、そんな理想的人物は現実にはいない。

小池都知事がせっかく希望の党を結成して大きな結果を得られる寸前で失敗したのは、自らの地位をどう守るかという細かな配慮をしてしまったからである。

もちろん、大きな成果を狙えば大きな失敗をするリスクが生まれる。しかし、官僚ではなく政治家は本来リスク・テイカーであって、失敗すれば地位を失う。その意味では、民主主義社会はフェアである。

***

本来は着実であるべき行政府の最高責任者になぜ行政のプロである官僚出身者ではなく、政治家が就く必要があるのか。それは単にそのほうが民主主義に適っているからというのとは別に、もっと重要な本質的理由があるのかもしれない。が、これはまた別の話題であるので後で。



0 件のコメント: