2020年4月12日日曜日

日本で「現場は優秀だが上がダメ」が当てはまる原因について

政府で新型コロナ対応の指揮をとっているのが、どうやら最近は加藤厚労相から西村経済再生相に交替したような雰囲気で、「新コロ大臣」などと呼ばれているようだ。

TVのワイドショーなどでは『日本は戦争中の記憶もありまして、政府が国民に命令を下すという状態にアレルギーがあるのですネ・・・』などと語る人がいる。

間違いだと思う。

全ての権限が中央政府に集中していたはずの戦時の国家総動員体制であってすら、日本政府はノロマで、と同時に細部にこだわり意思決定が常に遅れ、和平(=降伏)の好機を逃し続け、最後は酷い負け方をした

日本政府の上層部がダメであるのは、権限とか、民主主義とか、人権尊重という点に原因があるのではない。極めて民主主義的である欧米先進国でも新コロナ対策では政府による強権的なロックダウンが行われている。

日本政府の「伝統的ノロマ振り」の原因は、権限の弱さにあるのではない。民主主義であることとも無関係だ。では一体なぜなのだろうか。

この問いかけは本当に難しいと思う。

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組織的意思決定にはトップダウンとボトムアップの二つがあるとよく言われる。が、どちらも理想型ではない。

トップダウン方式が理想的に機能するには、そのトップが天才であることが望ましい。天才でなくとも、優秀で、周囲には仕事の出来る人材が集まっていてほしい。トップダウンはトップと上層部の力量がそのまま結果に反映される。

かといって、ボトムアップ式の意思決定にまかせていると「部分最適」には熱心だが、「全体最適」を行う人がいないという失敗を犯してしまう。
組織が失敗するときは、組織的意思決定が失敗しているのだ。
この命題は常に正しい認識である。

日本政府がノロマであるという失敗を犯しつつあるなら、それは意思決定システムが失敗しつつあるということと表裏一体だ。

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小生が小役人をしていた昔なら、新コロナ対策で記者会見を開くのは、原則、厚労相であったはずだ。寧ろそれよりも専門知識を問われる感染症対策だから、厚生労働省の医系技官の頂点にいる<医務技監>が定例の記者会見を行い、それをTV中継したりしていたはずである ― 「医務技監」という職名は塩崎厚労相の時代に公衆衛生の重要性の高まり等を考慮して新設された次官級ポストであるから「(公衆?)衛生局長」という当時の名称を使うべきだが。議論が経済対策に及べば先ずは経済再生相が主管する筋合いなので、財務省、経産省、国土交通省等々と総合調整してまとめた結果を西村大臣が会見して伝えるだろう。

時代は変わり、誰が何を担当するかというシステムは変わってしまった。

しかし、日本政府の<ノロマ振り>は、どのような体制をとるかとは関係なく、常にノロマであり、その様子は戦前も戦後も同じであるようだ。たとえ記者会見一つをとって、それが小生が知っている昔の方式であったとしても、やはり日本政府はスローモーで、ノロマであったに違いない。

そんな風に想像せざるを得ないのだが、一体、なぜなのだろうか。

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日本政府の対応は常に遅く、ノロマであったかもしれないが、太平洋戦争の大失敗を別とすれば、致命的な失敗はせずにすんできたとも言える。

戦後に限ってみても、日本は幾つかの試練を乗り越えてきた。1970年代の2回にわたる「石油危機」もそうだが、それより前のブレトンウッズ体制崩壊と円高不況時もそうだ。1997年から98年の「金融パニック」でも遅れに遅れた政策を何とか実現した。失われた20年になったが「不良債権」も亡国の惨事までは至らずに解決できた。朝鮮戦争やベトナム戦争など、いま勃発すればマスコミは狂ったように毎日騒ぎつづけ不安を煽っているだろうが、うまく立ち回ることができた。「政治主導」という旗印はなかったが、日本政府は激動する環境に適応してきた。

ノロマだが課題は解決できた。だから今日の現代日本があると言ってもよい。課題解決に失敗し、落第していたなら、今頃はG7からもG20からも脱落していたかもしれないのだ。

ノロマではあるが、劣っているとか、低能力であるという批判は当たらないだろう。

要するに、スローモーで遅いのである。遅すぎて失敗したことは山ほどあるが、せっかちで早過ぎることをやって、それが「明らかな失敗」であったという例を小生は思いつかない。これは、日本政府というより、日本人という国民の特質に基づくものだろう。

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今は「政治主導」が旗印になっているが、では真の意味で政治主導になっているかと言えば、実はそうではないのではないか。

そもそも行政府の設計が政治(家)主導的になっていない。この点は戦前期も同様で、政治家が主導するものではなく、天皇が主導するものでもなかった。現代日本では議院内閣制とはいうが、政治家が組織する内閣が中央省庁内の事務次官、局長だけではなく、管理職である課長を直接任用できない。各省庁の前線部隊である「課」の運営は、国家公務員試験の合格者を充て、内部のルーティンに沿って機械的に人を配置するという中立的な方式を日本人は好むのだと言うしかない。

現場の人の配置を重要視してトップが誰であるかということから切り離したいと考えるのは日本人の性向であり、だから日本では現場が強いのかもしれない。

上層部が現場に介入することを日本人は強く嫌う。何しろ、高級官僚である東京高検検事長の定年を延長して検事総長への途を開くという決定ですら政治的に非難されているのだ。法務省の中の課長補佐を誰にするかで公務員試験合格者ではない人物を押し込もうとしているわけではない。行政府の高級官僚である。それでも政治家の介入は嫌われる。行政府内の法律専門家である検事の人事ですら政党から独立させるのが望ましいなら、厚生労働省の医系技官のトップを誰にするかでも、内閣の思う通りにはさせないという流れになるだろう。

英国では中央官庁の内部に与党が任用した人材と「女王陛下の臣下」である職業公務員が並存するが、こんな情況が日本で実現する日が来るとはとうてい想像できない。オックスフォード大学には「保守党クラブ」や弁論部として有名な「オックスフォード・ユニオン」があるが、例えば東京大学に「自由民主党青年会」や保守系、リベラル系の「政治研究会」が林立するとすれば、憂慮するべき社会問題として扱われるのではないだろうか。日本の大半の若者にとって「政党」より「会社」のほうが遥かに身近な存在だ。誰が自民党総裁や国民民主党代表になろうと、縁や義理を感じる日本人は極々少数であろう。縁が薄いという状態と一体感がないということは同じ意味である。

日本では確かに「現場が強い」。しかし、「強いトップを嫌う」、故に「現場が強くなる」。因果関係はこうなのかもしれない。とすれば、「強すぎるトップによる暴圧・虐待」が日本では稀であり、「弱すぎるトップが招いた混迷・下克上」が日本においては頻繁であることの説明もつく。

要するに、どこの国でもそうだろうが、「こうありたい」という風に実際にそうなっているのである。小生はこう思うようになった。

ロシアでは専制君主を望むので独裁的政治家がよく輩出する。日本人は強いトップを嫌うが故に、政府は常にノロマでスローモーなのであり、従って現場が強くなるのである。

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現在の安倍政権は、「政治主導」を謳っているが、それは単なる旗印であって、実のところ政府内の膨大な数の国家公務員から真の忠誠心などは持たれていないはずである。その意味では、征夷大将軍とはいえ、幕臣とは何の縁も義理もなく、忠誠心など得られようはずもなかった最後の将軍・徳川慶喜と似た立場にあるのかもしれない ― というより、無為無策のままに歴史的な超長期政権を続け、幕府衰頽への道を開いた11代将軍・徳川家斉の時代と安倍政権の現代とが奇妙に重なっているとは感じているところだ。

大体、いま述べた議院内閣制も憲法、三権分立もヨーロッパ起源の輸入文化である。中国共産党政府が、『三権分立は欧米がやっていたことを世界に押し付けている方式』、『国際法は欧米が欧米中心の利益を守るために作りだしたもの』と時に発言しているのも、心情というか、伝えたい雰囲気は何となく分かるのだ、な。そもそも「議院内閣制」とはそんなものである。こう言えるのかもしれない。機能させたいならば、立憲君主制という点では比較的体制が似ており英語圏で情報が豊富な英国の方式をより忠実に模倣するしかないだろう。

司馬遼太郎ではないが、日本という国の形はいつの時代でも「舶来物」だった。奈良時代から平安時代には中国を崇拝し、明治時代にはイギリスやドイツを崇拝した。そして戦後日本はアメリカを崇拝してきた。外国起源で上手に扱いかねているから意思決定にも時間がかかるのだろう。融通もきかないのだろう。細かい点ばかり気にするのだろう。そんな風に思うようになっている。

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