2020年4月16日木曜日

笑い話?「日本人には出来るんですね」という素人談義

総理大臣が、命令でも、指示でもなく、単なる要請であるとしても『外出はしないでください」と発言する。そうすると、日本人は粛々、淡々、命令に服するが如く外出を控える・・・
日本人は命令がなくとも外出を控えることが出来る国民なのです
こんな話を一体何度TVで聴かされたことだろう。

ヨーロッパでもアメリカでも中国でも、民主主義国、共産主義国を問わず強権的な都市封鎖を断行するしか国民の行動を変えることは出来なかった、しかし日本ではそんな命令は不要である。日本人一人一人の意思でそれが出来るのだと・・・

これほどの空しい自慢話をする情況なのか、日本は?いい加減にしてもらいたいものだ。

それはともかく、TVではなく、新聞メディアにも不思議な点がある。というのは、漫画文化、具体的には「風刺漫画」がこんな世情の中でも低調だという点だ。

風刺漫画も行き過ぎるとフランスのシャルリー・エブド襲撃事件のようなテロを誘発する可能性があるが、日本人の描く風刺画はそれほどまで先鋭的な画にはならないと思う。せいぜいが、多人数の庶民が「早く非常事態宣言して!」と下段から嘆願しており、中断では大臣が「だって経済が・・・」と苦悩の表情でつぶやき、最上段で首相が「マスクのことは心配はいらぬ」と厳かに告げている作品になるくらいだ。作家がいないのだろうか?WEB版の一枚看板にできるのではないか。漫画大国日本が泣いていると思う。

そういえば、狂歌や川柳も最近は下火だ。

有難や マスク2枚を 賜りぬ
  小さきにつき 家宝とはせむ
スーパーの 玄関にある アルコール
  売り物とするが よかれとぞ思う 

生活実感があれば、下手でも一、二首ははすぐにできるものだ。新聞はなぜ「世相川柳」、「今風狂歌コンクール」を開催しないのだろう?要るものは入手困難、いらないサービス業に従事している人は生活困難の世相。おそらく傑作作品の応募が集中するに違いあるまい。

政権批判には熱心であるのに、実に単調にして、ただただ非難の一辺倒で芸がない。これでは馬鹿に見えてしまう。政敵を非難するには政敵を超える知性を示すことが大切ではないだろうか。

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それはさておき・・・

いまでもクリーニング店の末端の店員は感染に怯えながら職場を捨てずにいる。清掃業者もそうである。スーパーのレジ担当は健気にも仕事を続けている。アメリカでは防護服やマスクの支給がなければレジ担当はできないと従業員が業務命令を拒否する例が多発したというのにだ。医療機関、介護施設、保育所等々は言わずもがな、だ。

商店街の個人商店も同じだ。銀座や渋谷は閑散としてきたが、住宅街の地元商店街は常にもまして<混雑>している。

品川駅の混雑ぶりはほとんど何も変わらない。

要するに、総理大臣の要請に日本人がどれほど応えているかといえば、「御心配には及びませぬ。銀座では守られています。渋谷、新宿も閑散としております」というレベルの話しである。

まして、非常事態宣言を出した地域の一歩外に出れば、そこは区域外となる。自動車学校は混雑している。学校も普段通りだ。小生の母親は、晩年の数年間、茨城県取手市で暮らしたが、利根川の向こう岸の取手市内のパチンコ店がいま繁盛しているそうだ。

【加筆2020/04/16】本投稿の直後、政府は非常事態宣言範囲を全国に拡大する方針を明らかにした。

室町時代、頻発する戦を止めたい守護大名が足利将軍家に和平の仲立ちを依頼することがあった。戦を止めよと書状を送る。そこで戦は止まる。止まったあと、別の場所で別の戦をはじめるのだ。戦国時代への道はこうして開かれた。

つまりは、室町幕府のガバナンス欠如は何が原因であったかというのが論点になる。戦後日本の政府が21世紀初めにガバナンス能力を喪失した原因は何であったかという問題が、後になって歴史学界のテーマにならないことを祈るばかりだ。

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ドイツ人は命令をするのも、命令をされるのも上手な国民であると言われることがある。

小生の経験だが、日本人は命令をするのも、命令をされるのも下手な国民であると感じる。小生自身からして、まさにそうである。

それでも事に当たって良い結果を出せるのは、生活がかかっている場において日本人は逃げずに持ち場を死守するからである。「逃げ場」を求めずに、留まって戦う性格が育まれたのは日本が島国であるからであろう。

末端の店員は頑張るが、その上司は少しダメになる。しかし、現場を視ているのでマシである。上司の上司になるとかなりダメになる。そのまた上司は現実が視えていない。トップになると、そこにトップとして座っているだけの存在になる。

故に、日本のトップはトップとして座っていることに意識を集中するべきである。そのほうが全体がうまく行く。

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特に、突発的かつ想定外の緊急事態においては、日本のトップは何もしないほうがよい。そもそもトップは座っているだけの存在であることを前提にシステムができているのだ。『殿、ご安心下されませ、それがしどもが世間をとりしずめますほどに』、『うむ、頼んだぞ』と・・・これが日本の「伝統的統治スタイル」であった。

この何日か、頑張る現場とダメな上層部について投稿したが、要するに
トップは元気で、いればイイ
という社会システム構成原理が日本にはある。これに尽きるのではないかなあ、と。そう思うようになった。

天皇から、藤原家の摂関家に、摂関家から将軍家に、将軍家から大名に、大名から下級武士に。ピラミッド構造の下層に移るにつれ、人口も増え、実務能力も上がる。正に、勝海舟がアメリカから帰国して老中に答えたように
我が国と違って上に行く程優秀です
こんな日本的意思決定システムの骨格は、幕末から150年以上たった現代でも変わっていないということだ ― まあ、今のアメリカ政府だけは例外的状況だとすればだが。

持続する状況はそれがナッシュ均衡であることを示唆する。ではどうモデル化するかといえば、これまた面倒そうだ。ゲーム論的にみた日本的社会の特性は他の研究成果を渉猟することで満足しよう。

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 想定外の感染症拡大という非常時に際してそんな日本社会の伝統的DNAが再び表面化していることが大きな問題だ。

もっと大きな問題は、政治主導の行政を目指しながら政治家が責任をとろうとしない行政を何年も続けてきたことだ。

しかしながら、以前の官僚行政では官僚は無謬の前提に立って自己保身をはかっていた。悪い結果の結果責任は政治家がおっていた ― たまたま責任をとる巡りあわせとなった政治家にとっては一世一代の見せ場でもあった。内閣総辞職で政治家が責任をとりながら官僚行政は安定性を保っていた。天下りを通じて社会の隅々まで中央政府の統制がきいていた。政治主導になってからは今度は政治家が無謬の前提で守られるようになった。失敗の責任は官僚が負うようになった。そう理解するべきだろう。

本来は武家を指揮するべきはずの朝廷と公家が権力を取り戻そうとしたのは?回答は、後醍醐天皇の建武新政と明治維新である。政治主導とは、本来は官僚を指揮するべきはずの政治家が権力を取り戻そうとする運動であった、と。歴史家はこの20年程度の現代史をこんな風に総括するかもしれない。

では官僚の無謬神話が現実に崩壊した契機は何だったか?それは幾つか考えられるが、いずれ別の機会に記したい。

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大事な点だが、日本においてはトップは歴史的・伝統的に<無答責>なのである。この事情は、天皇親政でも幕藩体制でも戦前期も戦後日本も同じである。結果責任は免除されるのが日本的組織のトップである。無答責は日本独自の天皇制が継続した根本でもあり、いろいろな所でこの<無答責の法理>が日本では息づいている。

日本では、君主が将軍を抜擢して権限を委譲し、その将軍が敗れれば自分の死も覚悟するという切迫した状況は歴史的にほとんどなかった。なので、トップは無答責のヴェールに守られ、臣下が実務を行ってきた。トップに責任はなく、実務担当者はトップではないので責任はないのである。
責任なき所に努力なし
故に、生活がかかっている下層部が頑張るのである。煎じ詰めれば、こういう事ではないだろうか。「平和ボケ」と言ってしまえばその通りかもしれない。

戦前期日本では、天皇は無答責であったが、首相、大臣は天皇に対する責任は負った — その究極の表現行為を太平洋戦争に敗北した前後に見ることができた。戦後日本では、天皇に対する責任が国民に対する責任に置き換わっている(はずである)。が、本当にそうなのだろうか?現行憲法が日本人自身から生まれたものではないという(公式には)「出生の秘密」がある点に、現代日本の最も脆弱なウィークポイントがある。憲法に対して責任をとる政治家の忠誠は、憲法制定権力に対する忠誠である理屈なのだが、それが必ずしも日本では日本国民に対する忠誠とはなっていないかもしれない。が、これは余りに大きな問題なので、まだまとまりがつかない。

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