2020年6月30日火曜日

断想: 求人倍率と芭蕉、40番ト短調

2020年も半分が過ぎてしまった。新型コロナに始まり、「生産的」なことはまだ何もしていないが、時間は待ってはくれない。ま、「生産的」であったかなかったかは、「人生の意義」を問う事にも似ていて、誰しも出したい答えが正解となる。なので、気にしないようにしている。


5月の有効求人倍率が公表された。季調済みで1.20倍である。前月から0.12の低下で、この低下幅は第1次石油危機直後の1974年1月以来46年振りということだが、それでもなお求人が求職を上回る1倍以上の数値を示していることには少々驚く人も多いかもしれない。

とはいえ、労働市場の情勢が悪化していることは事実であるわけで、特に飲食、観光業では空前の悪化とのこと。

他方、今後伸びてくるビジネス分野も大方見当がつき始めているところだ。オフィスビル使用の用途も入れ替わりが加速すれば、アフターコロナの「ニューノーマル」がそれだけ早くやってくることになる。

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「元に戻る」ではなく、「これからどうするか」を考えるべき時、そういうことだろう。

草の戸も 住替る代ぞ ひなの家

陸奥へ旅立つときに芭蕉はこう詠んだが、そういえば

僧朝顔 幾死にかへる  のり の松

大和・当麻寺を訪れたときのこの句も 、人間の生の短いこと、世の中の無常がテーマになっている。

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「これからどうするか」を口にする人物は数多いるが、「これからどうなるか」を観ることが、私たち人間に出来ることである。

そもそも「政治家」や「運動家」の意志のとおりに事が運ぶなら、政治など造作もないことだ。戦争に負けるはずなどない理屈だ。勝とうと思ってやるのだから。

本当の論点は、「これからどうするか」を口にする人物は数多いても、「これからどうするべきか」まで大声で叫ぶ人が急増している中で、「これからどうなるか」を明らかに示すことが出来る人物はどこにも、一人もいないということだ。

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小生が愛聴してやまないモーツアルトについては最近何度か投稿した。

亡くなった母や祖父母は、なにしろ大正文化を引き継いだ戦前の感性の中で過ごしてきたためだろうか、とにかくベートーベン崇拝の気持ちが強かったように覚えている。

今年はベートーベン生誕250周年にあたっているのだが、新型コロナの余波を被っていま一つ盛り上がっていない。

モーツアルトの何曲かは若い時分から聴いてきたし、先日投稿したようにYoutubeやAmazonのプライム・ミュージックのお陰で最近になって初めて知った曲も小生の愛聴リストに新たに追加された。ベートーベンを聴く機会はずいぶん減っているのだが、たとえモーツアルトが長命していたとしても、これは作れなかったのではないかと思ってきたのは、ベートーベンの第3番『エロイカ』である。

しかし、2、3日前にモーツアルトの40番ト短調を聴いていて、その第4楽章の展開部にさしかかったとき、どれだけこの曲が時代を突き抜けていたか、これまで覚えた事のない驚きを感じた。ともすればモーツアルトの交響曲は得意分野とされるオペラやピアノ協奏曲に比較すると内容空疎であると評されることも多いようだが、とんでもない。第1楽章から第4楽章までの全体をみるとき、凝縮されたトンデモなさという点において、40番ト短調は『エロイカ』を上回っている。突然だが、そう思った。

2020年6月27日土曜日

過激な「自由放任主義者」なら言いそうなこと

誕生したばかりの古典派経済学は、規制なき市場メカニズムと障壁なき自由貿易を貫徹してこそ、最大多数の人々に豊かな暮らしを約束することができる、と。そんな議論を展開していた。

それより以前、既に18世紀前半のフランスで自由主義者グルーネーや重農主義理論家が"laissez faire, laissez passer"(レッセフェール、レッセパッセ)、即ち『為すに任せよ、過ぎるに任せよ』と語っていたことを想うと、つい先ごろの米国ネオコンを超えて、「自由放任主義」というのは相当に根の深い社会思想であることが分かる(参考URL)。

中国においても、アクティビストである「儒教」とリバタリアン「道教」とが思想の2大潮流を形成してきたと大雑把にくくってもよさそうだ。

そんな過激な自由放任主義者であれば、現在の新型コロナウイルスでも「為すに任せよ、過ぎるに任せよ」と嘯くだろうか?

小生はそのように想像する。やはり「政府は何もする必要はない」と言うのではないか。そう思われる。

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何もしなければ感染者は増える。死者が増えるに従い、そのウイルスが危険であることが周知のことになってくるだろう。

そうすれば、ウイルスに関する情報が多くの人から求められる。求められる以上、情報を提供するビジネスが拡大する。情報の品質をめぐって競争が生じる。劣悪な企業は自然淘汰される。

治療にあたる医師の人数が不足すれば待ち時間という形態で医療コストが上がる。それよりは高い価格を医師に支払う方が得だと考える感染者が増える。そして医療サービス価格が上がる。医師開業もまた自由化されていると仮定する。すると、報酬の上がった医師を希望する人が増える。医師の技量は治療結果をみれば分かる。藪医者は自然淘汰される。

人々の関心は保健や医療、衛生へ向かい、感染防止や公衆衛生に求められる「行動変容」を自発的に選ぶだろう。

資格や規制など政府が何もせず、人々の自由に任せるときに必要な社会的調整は最も速く進む。

どこで何が不足し、不足した商品やサービスを増産するために必要な資源がどこにあるか、これらを全て熟知している政治家はいない。必要な社会的調整はそれが出来る当事者に任せるのが最善だ。知識や情報のない政治家が、名誉欲や野心という動機に駆られて、余計な指図をすると、必要な調整が阻害され、事態改善のスピードは必ず低下する。

だから「レッセフェール・レッセパッセ」。「政府は何もするな」。これがベストの政策である。

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確かに極端な自由放任政策という政策はありうる。

しかし21世紀の現代社会では、これほど極端な自由主義者など西欧にも、アメリカにもそうはいないはずだ。絶滅はしていないにせよ、だ。

ただ、『いまの社会は改善されなければならない』などと叫ぶ人々をみると、自由放任主義者だって、いるかもしれませんぜ、と言いたくなる。

何をすればどうなるかなど、先のことは誰にも分からないのだ ― まあ、「他の条件を一定とすれば」という教科書的な仮定を置けば、議論くらいはいくらでも出来る。が、現実には全てが予想外に変わるので、「一寸先は闇」となる。

だから、多様で極端な政治思想も含めて、ネットという場に公開すれば、社会というスケールで、というより国境を越えた広がりで、人々が閲覧できる。

アメリカだけではなく、どの国であれそのような社会であることを、多くの人は希望しているのではないか、とそう思われるのだがどうだろう。


メモ: ビジネスを政治が侵食する季節なのか、それとも時代なのか

フェースブック(FB)社への広告をボイコットする米企業が増えているようだ。

ヘイトスピーチ投稿に対する同社の姿勢が甘いという。ボイコットを食い止めようと努力はしているらしいが、FBの創業者CEO・ザッカーバーグの経営哲学もあって、「あの会社はヘイトに甘い」というイメージが形成されているようでもある。米国内第1位の携帯電話企業ベライゾン社もボイコットに参加することを決めたという報道だ。

文字通りの《政治的乱気流》である、な。

ま、この点に関する小生の立場は既に投稿した。全ての投稿は残すべきである。

フェースブックはSNSとしては既にプラットフォームとして機能している。大手メディアともいえる。

「メディア」とは多様な見解が公表される場を言うのであって、特定の見解を伝える言論ビジネスのプレーヤーではない。

本筋の理屈はそうだと思うのだが、現実は反対の方向に向かっている。ビジネスの論理から考えると非合理だが、社会の諸勢力が主導権を争っている現われ、つまりは《政治現象》であると解釈すれば合理的な説明はつく。とにかく今年のアメリカは大統領選挙の年なのだ。

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「ヘイト」と判定される投稿は、たとえそれが大統領再選を目指す現職大統領の投稿であっても「削除」するか「不適切」としてマークせよと要求する人たちがいる。もちろん、「不適切」だと主張する人々の対極にはその投稿に「共感」を覚える静かな群衆もいるわけである。故に、「削除」せよと要求する行動は政治的主張にあたる。特定の立場にたつ人々の政治的主張の言い分に従えば、それと対立する政治的立場の人々からは敵対的行為として憎まれるであろう。

プラットフォームにせよ、メディアにせよ、それは意見の媒体であるので、特定の政治的立場に与することは事業としては矛盾している。「その投稿を削除せよ」という要求をきくべきか、きかざるべきか、それが問題だ。まさにハムレットの心境にあるのが現時点のフェースブック社であるに違いない。

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自動車がこの世界に登場した時代、自動車が引き起こす悲惨な交通事故に心を痛めとても堪えられないと感じた人たちも多くいただろう。堪えられないと感じれば自動車をボイコットするだけではなく、製造販売に反対する運動を展開したはずだ。もし実際にそんな運動があったとすれば、それもまた「機械打ち壊し運動( Luddite movement)」に該当することは誰もが賛同するだろう。愚かではあるが、「人は色々」である。

あらゆる新商品、新サービスは、使用価値を認めて顧客になる集団と、それがひき起こす副作用を非難して抑圧しようとする人々へと2極化するのが常である。小生が幼い時分、ドラマ『月光仮面』が人気を博したが、いかに「正義の味方」であっても拳銃でヒトを射殺する映像を子供に向けて放送するべきではない、教育上マイナスであるという非難が巻き起こり(?)、放送中止を余儀なくされた出来事は、小生も残念でならなかったのでまだ記憶に残っている。今では苦笑を催させるようなテレビ導入期のエピソードの一つである。

最終的にその商品、そのサービスが社会に定着し、日常的風景の一部になるのは、それを不可欠だと思う人々が多数を占め、それを非難する人がいかにも偏屈であると思われるようになって、ようやく可能になる事である。

SNSが社会になければならない基盤であること自体に反対する人はいないはずだ。たとえ社会の構成員の99パーセントが投稿するべきではないという意見であっても、やはり公開はするべきだと小生は思う。2010年から12年にかけての「アラブの春」はSNSがなければ起こりえなかった出来事だろう。投稿された意見は、公開して、賛否を問われるべきである。可視化するべきなのであって、不可視化せよというのは、そう主張している当人たちの利益にも反している。

これが基本的なロジックだろう ― それにしては「ベキ論」をまたやってしまったが。

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政治がビジネスを侵食するという社会状況は、この100年余の米国史でそうあるものではなかったと思う。

The business of America is business.

第1次世界大戦後、ハーディング大統領の後を継いだクーリッジ大統領が語ったという名文句だが、同じ言葉はP. A. Samuelsonが著した教科書”Economics"の第何章であったか、冒頭のキーフレーズにも引用されていたものだ。

今やアメリカの国柄は大変化を遂げつつあるか、そうでなければ大統領選挙と新型コロナウイルス禍のさ中で米国人が熱狂を求めているのか、いずれかだろう。

前にも書いたことがあるが、

The business of America is democracy.

そんな風に言いたいのかと考えさせられる昨今のアメリカである。

日本で暮らしているとピンとこない、何かの権力、何かの抑圧に対する抵抗なのだろうと憶測するしかない。が、自らの政治的主張に基づいて経済合理性を侵食し、自らが願う方向へとビジネスを変革しようという試みは、何事によらず個人個人の着想や行動に「社会的意義」を問うて止まない社会主義と独善性という点では紙一重である点を忘れるべきではないだろう。

社会主義を信奉する人は人格的には善い人が多いのは事実だと感じている。社会主義者の多くはカネや利益を追い求めない。しかし、例外なく国民全体を政治的な支配下に置こうとする。熱意をもって、だ。必ず役所の指導が強化される。社会主義は多数の国民が支持しさえすれば極めてデモクラティックな社会を約束する理屈だ。しかし、それは理屈としては、だ。終戦直後から日本社会を支配した「行政指導」とどこが違うのか、小生にはよく分からない。




2020年6月25日木曜日

アフター・インターネットからアフター・コロナへ、ということか

「ポストコロナ」という言葉が想像以上に大きなインパクトになって国の形を変えてしまう可能性は確かにある。

1980年代の終わり、役所という勤務場所から大学に移った時期にあたるが、国境を越えた通信手段としてはFaxでなくEmailが常用されている状況を知って驚いたことがあった。しかし、当時のBITNETやJunetは使っているコンピューターシステムに依存する狭い範囲のネットワークでしかなく、せいぜいが日数のかかるAir Mailの代わり、正式には手紙で依頼するものの、先ずMailで了解をとっておく、その程度の使用価値をもっていたと記憶している。

それが《アフター・インターネット》になって一変してしまった。いま通信の世界に国境はなく、まして保有している機器のOSや属している組織の種別を実感することはない。こんな時代が到来するとは、ビフォー・インターネットの日々にあっては想像すらしなかった。

同じ程度の驚きが、"After Corona"の世界で広がっていくだろう。現時点は過渡期である。まだアフター・コロナの世界は視野にない。トンネルを抜けた直後に道はどちらに曲がっているかが分かるだけである。

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アフター・インターネットの時代になって、最も進展したのは「言葉の過剰」である。無数の「意見・提案・表現」が世界にあふれている。

流れる言葉は無限大に近づいているが、煎じ詰めてしまうと、「正義」についてか、「幸福」についてか、そのどちらかをほぼ全ての人は論じているように感じる。

「平等」とか、「公正」とか、「フェアネス」とか、かと思うと「効率性」とか、「成長」とか、「イノベーション」とか、各言語を混ぜて似たような言葉が使われるが、究極的には「自分」ないし「自分たち(≒社会)」の正義か幸福かが主題になっている。

言葉過剰とは「過剰な幸福論」、「過剰な正義論」と言ってもいい。

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正義と幸福の間の矛盾は、誰もが知っていることで、日本人なら誰もが経験する「義理と人情の板挟み」もこれに近い。400年も前の英国人シェークスピアも『ベニスの商人』の中で次のように書いている。
慈悲は義務によって強制されるものではない。天より降り来たっておのずから大地をうるおす。 
王の手にする王笏は仮の世の権力を示すに過ぎない、つまりそれは畏怖と尊厳を誇示する表象であって、そこにあるのは王に対する恐れの念でしかない。だが、慈悲はこの王笏による権力支配を越え、王たるものの心の王座にあって人を治める。 
慈悲が正義をやわらげるときだ。だからシャイロック、お前が正義を要求するのはわかるが、考えてみろ、正義のみを求めれば、人間だれ一人救いには、あずかれまい。
出所:シェイクスピア全集『ヴェニスの商人』(訳:小田島雄志)、白水社

プラトンは『国家』の中で「正義」を考えているが、正義の観念と切っても切り離せない観念は、「法」、「権威」、「掟」である。ともすれば、正義について語りたがるのは「支配する」側の人物もしくは人間集団である。プラトンもこんな通念から正義について文庫版で全2巻にわたる対話を始めている。

その展開は、複雑多岐な推論を経るが、いずれにせよ「正義」は正義を犯すことに対する怖れによって守られるものである。

「怖れ」を基礎とする観念で「幸福」を実現するのは矛盾であろう。だから、上のポーシャの台詞は、確かにロジックが通っている言葉である。

古代ギリシア以来、最高善は「幸福」であると考えるのが西洋哲学の伝統である。大乗仏教の「涅槃」、「極楽」も同じであり、煩悩をかかえる人間は幸福からは遠い。

本当は、正義と幸福とが同値であり、互に必要十分条件であれば、幸福に到達する人間は正義に反することもない理屈でもあるので、問題はなくなるが、これはまるで経済学で言う「完全競争市場による一般均衡」のようなものであろう。シェークスピアもさすがにこうは考えなかったようだ。

2020年6月19日金曜日

一言メモ: クレバーなやり口は時にえげつなくもあるわけで

国会議員の河合夫妻が公職選挙法違反で夫婦そろって逮捕された。

それにしても、昨年の参院選で「実弾」を混じえた強引な選挙運動を展開させた直後に、その現場の当事者をよりにもよって法務大臣に任命したことは、行政トップが自らの「不正選挙」を「隠ぺい」するため検察当局に「見逃せ」というメッセージを発したとすら見えてしまうわけであって、その「えげつなさ」は安倍内閣の奢りと鈍感を象徴的に示す所為であったな、と。そんな意見には小生も賛成する。

観ようによっては、法に基づく行政よりも「政治」を優越的地位に置こうとする政治家(≒公職選挙法が対象とする公職)の傲慢を物語る一例ともいえるわけで、そろそろ「政治主導」についてはその正当性、というか正確に意味するところを考え直す時機に来ている。少なくともこの10年間の「政治主導」は余りに低レベルで、まだこれなら一昔前の「官僚主導」の方がよりプロフェッショナルでマシであった、と。そう実感する日本人は多いのではないかナアと思い始めている。

際どいボール判定に何度も執拗に時間をかけてクレームをつけておき、審判へのブーイングを観衆に煽りながら、ここぞという時にはビーンボールを投げる、そんな荒っぽい投球をさせる野球監督と、そんな無神経な戦術を黙認する球団は、プロ球団としては失格の烙印を押されても仕方がない。「クレバー」も度を過ぎるとその「えげつなさ」に美的な意味で嫌悪感を催すのだ。

この1年余の現内閣は日本国を代表する行政府としては、体を為していなかったネエ・・・と。

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理念や実績も大事だが、どんな形で終わるかが後世の評価において決定的な重みをもつ。

ベトナム戦争を終了へ導き、瓦解寸前にあった戦後のブレトンウッズ体制に引導を渡し、その後の国際通貨体制再構築の契機をつくった米・ニクソン政権であっても、その有能さは忘却され、記憶はウォーターゲート事件による引責辞任と切り離すことができない。

これまた巷の陋巷に暮らす下賤な輩のつぶやきということで。

2020年6月17日水曜日

株価の急回復だけではなかった

今年2月、3月に世界の株価が急落した後、5月から6月にかけての顕著な現象は急速な株価回復である。

これについては、『ゼロ金利や量的緩和の徹底でジャブジャブになったマネーが株式市場に流れ込んでいる。カネが事業に回らずマネーゲームに使われている』等々、いまの株価形成は感心できない、と。そんな見方が大方のようだ。

***

ただ、国際商品価格をみると以下のようになる。

上から順に石油(WTI)、鉄鉱石、非鉄から銅、アルミをとってみた。グラフ画像の左上に商品名が付されている。






出所:Trading Economics

株価だけではなく、石油、鉄鉱石、非鉄金属などの商品市場においても価格上昇が目立ったのが5月から6月にかけての動きである。

3月の下落から急回復したのは実体経済においても同じだった。ただ、この商品価格上昇もまた過剰流動性から発生した投機的な動きであると観る人も多いと思う。

しかし、もし上のような市況回復がマネーゲームであるなら、農産物市場でも同様の動きがあって然るべきだ。特に、今回のパンデミックによって深刻な農業労働力不足に陥っている食料品分野では秋冬の価格上昇が予想されている。小麦やトウモロコシなどの穀物は現時点でマネーゲームのターゲットになっていてもおかしくない。

ところが、


上の図のように小麦価格は寧ろ一時的な上昇のあと足元では下落基調にある。期間を長めに見てみると、季節性の下落とも思われない。先物価格もほぼ同じ動きだ。

過剰流動性にも限界があり、農産物にはカネが回らないのだ、といった屁理屈はいかにも説得力が乏しい。

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やはり5月から6月にかけては商品の引き合いが増えた。経済活動が増加に転じた。世界市場のそんな動きが背景にあったと観るのが本筋だろう。株価回復もその流れに沿ったものだった。

ただ世界の予想形成は決して「合理的(Rational)」なものではない。特にポスト・パンデミックを予想するための材料はない。実態のあとを追う「指数型予想形成」に従うしかないのが現実だ。

今後、発表される4月、5月・・・の経済データにどう反応するか。過剰反応するか、部分的に、指数的に反応するか、サッパリ分からない。

予想できないだけではなく、予想形成のパターン自体が分からない。



2020年6月16日火曜日

新型コロナ:抗体保有率0.1パーセントは信じられるか、という話し

「言葉過剰」の時代にあっては、時に「言葉狩り」が面白いと感じるのは小生も同じだ。よくない趣味ではあるが。

ネットにこんな言葉があった:

中国政府の発表が信用できないのは周知のことだが、わが日本政府の発表は信じてもいいのか?国の調査だけでなく、第三者機関の追試調査が必要な気がする。

公表されたばかりの厚労省による抗体検査結果についてだ。

確かに、東京都の抗体保有率が0.1パーセントであるのは衝撃的な数字である。調査対象となったあと二つの地域、大阪では0.17、宮城では0.03パーセントとなった。

確認感染者数は、東京都の約$10^{7}$人に対して確認感染者数は約$5 \times 10^{3}$人であるから、確認感染率は$5 \times 10^{-4}$、つまり0.05パーセント。今回の抗体保有率は確認感染率の概ね2倍である。

確認感染者数の10倍ないし20倍程度の感染者がいるという点は国を問わず示唆されてきた。なので、数字はそれほど意外なものではない。というより、低い。逆に言えば、東京都は新型コロナウイルス感染者を結構確実に捕捉してきた。そう言ってもいいわけだ。

***

要するに、日本人は新型コロナに感染しなかったのだ。だから死亡者数も少ない。そういうことであった。 これは驚きだなあ・・・と思うのは小生だけではないだろう。

日本人は、新型コロナウイルスに感染しても、既に「(どういうわけだか)集団免疫状態にあるので大丈夫だ」等々、色々な仮説があるが、どうやらそんな見方も的が外れているようだ。

で、「この結果は信じられるのか?」と言いたくなる気持ちは小生も共有できる。

ただ、

最近は「第三者機関」がウイルスに劣らず流行しているが、では「第三者機関」は何故信じられるのか?その理由がサッパリ分かりませぬ。

「0.1パーセント」という数字が信用できないので「第三者機関」に調査を依頼する。その調査機関は調査能力を示したいという動機をもつ。依頼者の問題意識や動機は知っている。カネを払うのは依頼者だ。とすれば、高めの数字を出したいという動機が第三者機関側にある、と考えておくのが自然だろう。そんな「第三者機関」が信じられるのか?

この事情は、日本国内であっても海外であっても同じだ。

故に、どんな第三者機関も真の意味で「第三者」にはなりえない。なりえるのは、誰に気兼ねもせず、誰からもカネをもらうことなく、状態を正確に知りたいという動機を有している人たちである。

とすれば、「ビジネス調査」とは無縁の大学か、医療機関などが考えられるが、やはり利害とは無縁の純粋の第三者であるとはいえまい。実は、どんな数字が出ても「だから何ですか?」と言える「厚労省」は、状態を正確に知りたいという動機をもち、知るべき立場にあり、知りうる資源をも持っている機関である。

***

ただ、現時点に限っては、確かに厚労省には数字を低くしたいという動機があるかもしれない。

仮に、東京都内の抗体保有率が10パーセントもあれば、今年初から春までPCR検査を抑制的に実施している裏側で、新型コロナが蔓延していた実態を示す結果となり、これは都合が甚だ悪かったろう。高い数字が出ていれば、厚労省(と内閣)の責任が追及されてもおかしくはない。

だから、数字に対する疑いは確かに小生も共有できる。

***

しかし、今後のことを考えると、もう「人の噂も75日」である。正確な情報を欲しいという本来の動機が働く理屈だ。

ま、政府の政策実施能力はグダグダ状態であったが、過去をほじくり返して得られるものはあまりないのも事実だ。

ここでもポジティブ思考でいけ、ということでござんしょう。




2020年6月11日木曜日

「共有するべき価値」なんてものがあるんでしょうかネエ・・・

小生は10代の頃から「お喋り」は苦手だった。教室には何人かのグループが自然形成され、授業の合間には「お喋り」の花が咲くのだが、そんなグループに自然に入っていくのに気おくれがして、自分の席で、あるいは図書室で好きな本や画集のページをめくっていたものだ。多分、大勢の中で小生は一風も二風も変な奴として分類されていたのだろうと思う。

それでも「仕事」を始めてから送ってきた毎日に比べれば、自分の生きたいように毎日を過ごすという点で、確かに満ち足りていたのだろうと言うべきだろう。「言うべきだろう」と書いたが、それは決してその頃「幸福」でもなかったからだ。

生きたいように生きるとしても、それで幸福になれるわけではない。

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どこかで読んだ記憶があるが、どの本であったかが思い出せない、そんなもどかしいことはママあるものだ。それが昨晩、一つ氷解した。

1789年より前の生活を知らない者は、生きるとはどんなことかを知らない者だと、タレーランが言ったと伝えられているが、《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》というこの黄金の20分間は、18世紀文化の全ての美しさを代表している・・・

出所: ロビンズ・ランドン『モーツアルト』(中公新書)、48ページ

「1789年より前」とは、要するにフランス革命より前の時代ということだ。タレーランは、ナポレオン時代を生き抜いた稀代の外交官で、ナポレオン没落後に開催されたウィーン会議では諸国の対立関係を巧みに利用し、立ち回って、実質的敗戦国であるフランスの損失を極力最小化することに成功した人物である。

ベートーベンは、1815年のウィーン会議のあとで急変したウィーンに対して、いつもひどく不平を漏らしていた。

出所: 上と同じ、96ページ

ウィーン会議のあととは、フランス革命後、ナポレオン戦争後ということである。つまり農地の上がりで生活する地方の名家が没落し、新興財界人が入れ替わりに台頭してきた時代である。市民社会とはどんな世の中か、その全体が見えてきた時代である。家柄の上下より事業で成功したか失敗したかによって人物評価が決まる社会、そうあるべきだという価値観になったわけだ。要するに、市民社会ではみな平等で自由であり、努力によって世間における地位が決まる。そんな市民社会の価値観は、根っこの部分で水脈を同じくしながら現代社会にも流れ込み、いまも継承されている。

どうやらベートーベンは貴族(≒地主兼政治家)は嫌いだと言っていた割には、自分の音楽を理解し、愛し、経済的に後援した人たちがどんな人たちであったか、よく分かっていなかったのかもしれない。競争圧力にさらされる市民は、本業の事業で成功することが夢だ。音楽や芸術は深遠である必要はない。宮廷ではなく店で活動するので自らが芸術を表現する必要はない。市民社会ではみな《忙しい》のだ。聴きたいときにコンサートに行ければそれでよいわけだ。

歌は世につれ、世は歌につれ、である。

★ ★ ★


これに似た感想は、永井荷風も『深川の唄』の中で記している:

その昔、芝居茶屋の混雑、お浚いの座敷の緋毛氈、祭礼の万灯花笠に酔ったその眼は永久に光を失ったばかりに、却って浅ましい電車や薄っぺらな西洋づくりを打ち仰ぐ不幸を知らない。よし知ったにしても、こういう江戸っ子は吾等近代の人の如く、熱烈な嫌悪憤怒を感じまい。我ながら解せられぬ煩悶に苦しむような執着をもっていまい。江戸の人は早く諦めをつけてしまう。すぐと自分を冷笑する特徴をそなえているから。

出所: 永井荷風全集第4巻『深川の唄』、137~8頁

荷風が生きた時代には既に珍しくなっていた歌沢節の節回しが思いがけずも墨東・深川のとある街頭で偶々耳に入ったときのことである。

「浅ましい電車」を「浅ましいスマホ」、「薄っぺらな西洋づくり」を「薄っぺらなマスコミやネット」と言い換えれば、現代日本社会にも当てはまりそうである。

★ ★ ★

今日の安倍内閣、というより日本国の基本的外交方針というのは「価値観外交」というのだそうだ。

日本国が支持する「共有するべき価値観」というのは、「自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済」という項目であるらしい。これらの《普遍的価値》を共有できる諸国と日本は利益をともにする。これが基本戦略になっているという。

それにしても、御大の安倍首相自らが憲法を改正するべきだと何度も何度も口にしてますぜ。よっぽど御執着なんでござんしょう。改正するべきだってエことは、今はダメだということでしょう。今の憲法がダメだっておっしゃる御仁が、憲法より下の法律を大事に思って、尊重して、法の支配を守り抜くなんてことがありますかねえ・・・その辺の法律よりゃあ自分が上だってくらいに想ってるんじゃあござんせんか。

今朝もそんな話をカミさんとしたところだ。

★ ★ ★

大体、民主主義やら、法の支配やら、市場経済やら、もしもこんな社会のありようから、人々の幸福や一人一人の人生の充実が約束されるなら、フランス革命前の「アンシャン・レジーム」の下では、フランス国民は圧政に苦しんでいたという理屈だ。

ところが、当時生きていた人のリアルタイムの感想は、必ずしもそうではなかったようなのだ、な。

そういえば、亡くなった小生の祖父母も、時々太平洋戦争前の平和な時代の落ち着いた気楽さや楽しさを懐かしんでいたものだ。

『すべて人がよいというものは疑うことから始めよう』、『疑うことが出来ないほど明らかに真である出発点に戻り、確実な論理を踏んで一歩一歩結論を得ていこう』。デカルトの精神が今ほど必要な時代はなかったかもしれない。小生は統計でメシを食ってきたせいか、経験に基づく(≒データ重視の)帰納主義に共感することが多いが、一度証明されれば永遠に真理であり続けるのは、公理から演繹的に導かれる数学的な命題である。これまた忘れてはならない点だろう。

証明されない命題は、全て暫定的で、仮説的な限界の下に置かれる。これまた否定できないはずだ。

・・・

それにしても日本人は、いつの間にこんなに「おしゃべり」になってしまったのだろう、と思いつつ又々「おしゃべり」を書いてしまった。そう思う今日この頃である。



2020年6月6日土曜日

「メディア」の本当の役割とは何か、について

フェースブックが投稿中の表現について規制を強化するらしい。

日経の報道の一部:
ザッカーバーグ氏は5日、表現の自由の尊重など従来の方針は変えないとしつつも、国家の武力行使にまつわる議論や脅威に関連した投稿への規制を見直すと説明した。また、内乱や紛争状態にある地域では制限を一時的に強める可能性にも言及した。
(出所)日本経済新聞、2020年6月6日

キッカケはトランプ大統領(候補)が拡大するデモに対して投稿で使った次の表現だ。
when the looting starts, the shooting starts.
略奪が始まれば銃撃も始まる
見事に頭韻を踏んでいるが、内容は確かに暴力的であり、自国民に向けた大統領の言葉とは思えない。

世間では、この投稿は暴力を肯定しているという理由で警告を出したツイッター社の判断に賛成し、投稿を放任しているフェースブックの特にザッカーバーグCEOに非難が集中している。

***


小生は、何度も断っているが臍曲がりであることが自分の長所であると考えているくらいだ。

だからかどうか分からないが、今回はフェースブックの投稿放任が正しいと思っている。

 投稿をしているのは現職の選挙で選ばれた「大統領」ですぜ。国家元首だ。大統領の言葉が「不適切であるから」削除せよと、・・・「言うな」と。

 納得できません。いわゆる「反転可能性テスト」にかけてみてはどうだろう。

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新聞はメディアを自称しているが、そもそも「メディア(Media)」とは名詞"Medium"の複数形であり、「媒体」、「媒質」、「中間介在物」という意味である。会社が複数あるので"Medium"が"Media"になっている。

 例えば、音波のメディウムは主に空気であるが、水中では水がメディウムとなって音が伝わる。油彩絵具は顔料をリンシードやポピーなどの乾性油を媒質として練ったものである。媒質に混じる顔料が色々な色彩を表現するのだ。この媒質がアラビアゴムになると水彩絵具になり、媒質をほとんど混ぜず、顔料だけを固めて固形物にすればパステルとなる。

音には美しい音も不快な音もある。が、どんな音でも媒質があって伝わる。媒質には色もないし、音をたてることもない。ただ伝達機能を果たすだけである。

もし、美しい音だけを伝えることができるメディウムがあれば、この世は天国のようになる理屈だが、どんな音が美しいか不快かは聞く人の感性により主観で決まることだ。不適切な音は伝えるに値しない、伝えるに値する音だけを伝える。そんなメディアを採用するなら、それはもう「メディア」ではなく「フィルター」と呼ぶのが正しい言葉の使い方である。

不適切な投稿は公開はせず排除せよと主張する人たちは、要するに全ての投稿にフィルターをかけて公開せよと言っているわけだ。

では、そのフィルターは誰が作るのか?

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まあ、こんな小理屈を使わずとも、Twitterとは異なり、Facebookは実名登録が原則だ。

「邪悪な人物」が「不適切」な投稿をするとしても、はるかに多人数であるはずの「普通の人々」が悪質な投稿を見つけ、その不適切性の本質がどこにあるか等々について、社会で議論できるはずだ。そこにソーシャル・ネットワーク・サービス、つまりSNSの存在意義があるのではないのかなあ、とずっと思ってきたが間違いであったか。

 発言にはその人の思想、というか普段のホンネがにじみ出るものだ。ならば、本音を隠しているよりは「視える化」するほうが善いに決まっている、と多くの人は考えるはずだ(と思いたい)。

上のト大統領の発言だが、フェースブックに投稿してくれたので、むしろ良かったのではないか。できれば、前回の大統領選挙運動で上のような発言をしてくれていれば良かったのだ。そうすれば、素顔の人間性が広く明らかになるのである。

正しくその人を理解するのは選挙においては欠かせない。

不適切だから投稿を削除する。表明させないという姿勢は、不愉快な音楽は流させない、不快な音は聞かせない。そんな考え方とどこか似ている。その極端な表れ方が、階上の隣家で幼児がピアノを練習する音が五月蠅くて我慢できない、我慢できない自分は正しいと。そんな生きにくい社会にもつながっていくのではないだろうか。

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人類もまた自然史の一コマであると達観する立場からみれば、たかだか人間の脳髄が考えだしたり、話したりすることで、事物の本質に迫るものはほとんどない。「善い」とか「悪い」とか、「正しい」とか「不正である」といった自然の標識が元々あったわけではない。このようなことは何度も繰り返し投稿している。人間が発案した概念は、自然科学、社会科学あるいは倫理、政治までを含めて、全て仮説的、暫定的ななもので、最初からあったわけではない。誰かが、ある時に、言い出したことが世間に広まり定着したにすぎない。単純化すれば全てそういうことだ。

その昔、デカルトが『世間の人々が正しいと考えていることは本当に正しいのか全て疑うことから私は始めてみた』という姿勢が科学の発展の基礎になったことは何度言っても言い過ぎではない。

なので多勢の人々が『間違ってる!』と声高に主張する風景をみると、小生、いつも眉に唾をつけたくなるのだ、な。

まあ、とはいえ、世の平和のためには暴力性のある思想が、多数の人の目に入らないところで増殖してほしくない。やはり怖いし、これは切実な願いではある。故に、『間違ってる!』というデモンストレーションは行われるべきだし、社会に伝えるべきでもある。

ト大統領の発言を公開し、大統領発言に対して抗議のデモが拡大しているという今の現状そのものがSNSの存在意義であり、誰にも知られず本音を隠した人物が国家元首を続けるよりは余程有難いのじゃあないか。そう思う。

なので、メディアは言葉の定義通りメディアに徹するべきだと思うのだ。

2020年6月3日水曜日

アメリカは孤立主義に戻るのだろうか?

トランプ大統領、就任早々にTPPから離脱してから、パリ協定を蹴っ飛ばし、とうとうWHOとも縁切りを表明した。

そもそも歴史的には「孤立主義」に傾く傾向があるのがアメリカ合衆国である。

第一次世界大戦に参戦し、英仏側・連合軍に勝利をもたらしたアメリカであったが、ウィルソン大統領が主唱して設立された国際連盟への加盟は、国内の反対にあって実現しなかった。

政権を奪還した共和党のハーディング大統領は、"America First"と"Return to Normalcy"を旗印に、国際連盟への非加盟を貫き、伝統的外交へ回帰した。とはいえ、1920年代の軍縮への潮流を確かなものとしたワシントン会議を開催したのもハーディング政権であった。そんなハーディング政権であったが、その腐敗ぶりは「オハイオ・ギャング」と呼ばれるほどで、当の大統領本人は再選を目指した選挙運動中に病に斃れて急死した。世界で猛威をふるっていたスペイン風邪ではなかったそうであるが、いまからほぼ100年の昔、1923年のことである。そんなこんなで、ハーディングは歴代ワースト・ワン大統領にノミネートされることが多い。ま、この辺は前にも投稿したことがある(これこれも)。

アメリカが今になってまた「孤立主義」をとろうとするにしても「またか」という感覚もあり、「ご随意に」という国々も多いかもしれない。「孤立」といっても世界とは政治的に関わりあわないということで、ビジネスではオープンな市場を要求し、米企業による自由な利益追求を国としてバックアップしたい、と。本音はそんなところだろうとは思う。邪魔をする国家には軍事的圧迫を加える。ある意味、「砲艦外交」も辞さない。そういうことだろうとは、思う。と、ここまで述べて来れば、ぶっちゃけ、アメリカも中国と同じやり方で自由に行動したいと。要するに、こういうことではないかい、と。小生は思ったりもする。

しかし、それは19世紀にヨーロッパ列強が展開した帝国主義に近い。

であるとすると、一体どう考えておくのがよいのか?
それが問題だ。

香港を「国家安全法」の下に置くと北京が決めたというので、アングロサクソン連合が反対の声明を出すという。本当に孤立主義をとるなら、中国は中国国内でやりたいようにどうぞと「イデオロギー・フリー」の観点にたって放任するのが孤立主義である。

アメリカは、孤立主義をとるのだろうか、多国間連携をとるのだろうか?どちらを本気で選ぶつもりなのか?今のところ、「やめた、やめた」の孤立主義ではなく、仲間を募って「新冷戦」に持ち込む多国間連携を模索しているようだが、分からない。近いうちに分かるだろう。

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帝国主義時代にはヨーロッパ列強の横暴が激しかったが、カネと軍事力だけで勝者にはなれず、富を築くことはできなかった。

何よりその国の産んだ文化・文明・ライフスタイルに普遍的な魅力がなければならなかった。

これが最も基本的なポイントだ。

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いま現在、英米発祥の生活スタイルが驚くほど広く世界で習慣化してしまっている。サッカーやラグビー、野球やクリケットだけではなく、サンドイッチ、というよりサンドイッチに適した英国風のパン(≒食パン)、ハンバーガー、シャーロック・ホームズやハムレット、フィリップ・マーロウ、ビートルズ、ジャクソン、etc. etc.、そして、英語だ。プログラム言語にも英語が使われていることを当たり前だと思っている。専門家は調べたことがあるのかどうか分からないが、現代の人間文明の基盤に占めているアングロサクソンの寄与度は既に古代ローマの上を行っているのではないかと思う。秦・漢王朝や隋・唐王朝の遺産で世界の誰もが馴染んでいる基礎的なものが何か残っているか。中国以外ではせいぜい日本人が好きな『春眠暁を覚えず』などの漢字の詩句くらいだろう。火薬、羅針盤、印刷術はもう古すぎる。

古代ローマは国家権力としては崩壊した。しかし、消失したのではなく、継承されたのであった。継承されるべき新しい何かを産み出さなければ人は集まらない。

文明、社会、国家は、人間社会を観るときに役立つ言葉に過ぎないが、その運動について色々と考えをめぐらすことは、宇宙やエネルギーについて考えるのにも似ていて、やはり面白い。そんな面白いことが学術になる。学術の自由のある国が、やがてやってくるかもしれない新・帝国主義の時代を勝ち抜く国になるだろう。

2020年6月1日月曜日

一言メモ: 過剰に攻撃的な表現をネットからなくせるか?

本日の表題だが、ウィズ・コロナとゼロ・コロナの間の選択にも似た問題だ。

現実的にとりうるシステムの中で、最良だと思われる方式を選ぶというロジックは、オールマイティの正解など何もない現実の世界では常に当てはまると言うしかない。

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ネットという世界がこの世界に誕生して、意見の表明、文学作品の先行公表、研究成果の先行公表等々、私的個人による表現行為は以前の時代とは隔絶する程に容易になった。これが「技術革新」の成果でなくて他に何だろうかと思う。

非難・中傷を抑止するというその事だけのために、ネット世界における表現の自由を制限することは、余りにもマイナスの副作用が大きい。

ネット上であろうが、現実の実社会であろうが、過剰に攻撃的な非難・中傷など不適切な言動にはキチンと責任をとる。この当たり前の原則を徹底する。それだけで十分である。

ネット上の不適切な言動に対して責任をとる(あるいは、とらせる)方法としては様々あり、今すぐにでも採用可能だろうと小生は思う。

大体、日常的に発生しているトラブルで不効率な裁判などを要求していては被害者は救済されない。たとえば交通事故のように、もっと効率的な処分を行政的に、あるいはビジネス・ルーティン的に実施、定着させることが望まれる。

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事前にネット・マナーを厳格に守らせる<事前指導型>ではなく、<ネット事故>が発生した際に加害者に対して<事後的処罰>を講じるのが効率的である。

たとえば、事件が発生した直後に過渡に攻撃的な投稿を検出するのは、スパムメールの判別にも似た作業であるので、AI(人工知能)を活用すれば瞬時に完了する。攻撃的なコメントを寄せたアカウントは一定期間(1か月、3か月、1年間など)停止する。これ位のことは全て自動的に一瞬のうちに出来ることだ。

幾人かの悪質ユーザーが一人を攻撃する場合は、その人が悪質なユーザーコメントをブロックすればよい。しかし、多数のユーザーから攻撃される場合は個人が対応するのは不可能だ。その場合は、プロバイダに攻撃の対象になっている事実をただレポートすればよい。そうすれば上に述べたプロセスが自動的にスタートする。これだけで相当の抑止効果が期待できる。

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複数回、そのような処分をうける悪質ユーザーも多数いるだろう。

余りにも酷い暴力的かつ脅迫的表現を一定回数を超えて行った悪質ユーザーに対しては全てのSNSでアカウント開設権を停止するといった対応をとることも(SNS企業が連携する必要はあるが)出来るかもしれない。

SNSのアカウントには携帯番号ないしメールアドレスが紐づけされている。その携帯番号あるいはメールアドレスで開設された全てのSNSアカウントを停止する措置は、交通事故でいえば「免許取消・何年間かの資格喪失」処分に相当するであろう。もちろん、これすらも決定的な処分にならないのは分かっているが、それでもこんな処分があれば、多くのユーザーは文章表現に注意するようになるだろう。

事後的処罰を基本とすれば、今でも技術的に出来ることは多々あるはずだ。

ただ、技術的に出来ることと、政治的に出来ることは全然異なる。

つまりは、ネット上のトラブル防止は技術の問題ではなく、多くは政治の問題、結局は政治家のヤル気の問題であると言えるだろう。