2020年10月15日木曜日

「差別」について: 合理的議論を抑圧する二つの力は何か

 「差別」という言葉に過敏な世相である。「多様化」ならイイらしい。

同調圧力が高く、異分子を排除する傾向が強い状況の下で、最も激しい差別化が生じるという認識がある。だから「多様化」なのだ、と。違っているから損をするという状況は間違いだと、そんな発想になる。


小生が若い頃は、「意識統一」とか、「擦り合わせ」という用語が盛んに使われていたが、もはや隔世の感がある。いまビジネス現場の中間管理職 — この中間管理職というポジション自体が疑問視されているようだが ―で、「この四半期の目標について意識統一をしておこう」などと口にすれば、多分、猛烈な反発が若い社員から生じて炎上する次第になるのだろう。ただマア、「意識統一」ではなく「共有する」という言葉ならイイそうだから、であれば単なる流行語の変遷であるのかもしれない。

これほど「多様化」が叫ばれるのだから、もう「軍国主義」や「全体主義」が横行する時代は二度とやって来ないと思われる。


しかし・・・小生は偏屈であると同時に心配性でもあるのでメモしておきたい。

確かに「多様化」が進む社会は暮らしやすい。生きやすい。しかし、人を抑圧する力は社会の中に必ず生まれるし、存在する。その力が怖いという事情は永遠に変わらないだろう。それに関するメモだ。


実は、経営戦略のキーワードに「差別化」という言葉がある。ずいぶんイメージが悪くなったので、授業現場の担当者は苦労しているかもしれない。

いわゆる「差別反対」の差別はdiscriminationであり、「製品差別化」の差別はdifferentiationである。意味も用語も違うのだが、英語の辞書では確かにdifferentiationの所にdiscriminationという説明があったりする。ややこしい。

では経営学の製品差別化には人を差別する、排除するという意味合いが全くないのかといえば、実はあったりする。

というのは、製品差別化戦略とはコモディティ化を回避する経営戦略であり、他の製品と差別化されるが故に、そのブランドでは独占する。高い価格を設定することが出来る点に狙いがある。もっと低価格を設定すれば販売量を増やせるにもかかわらず高価格に設定する選択肢があるのは差別化されているからだ。高価格の方が結果としてマージンが増え、合計としての企業利益が増えることがあるのは簡単な数字例でも示せるほどだ。ただ、高価格が設定されると低価格を期待している顧客層は排除されてしまう。誰もがほしいブランド品はもっと低価格で本当は販売できるのである。しかし企業はそうはしない。だから欲しくても買えない人たちが出てくる。これは《正義》なのかという問いを発する人物はいつの時代にもいるであろう。これを《プライスアウト》と呼ぶ。経営者は自社の利益のため敢えて高い価格を設定して一部の潜在顧客を切り捨てるわけである。きつい言い方をすればこんな表現になる。「選択と集中」とも言えるし、「深堀り」とも言えるだろうが、要は「切り捨て」である。

イメージはずいぶん悪くなった。しかし、この製品差別化戦略はブランディング戦略であるともいえ、非常に合理性がある企業行動であって、世界のビジネススクールでは経営戦略の核心になっている。確かに合理的戦略であるのだが、《差別は悪、排除は悪》と、ここまで社会現象を倫理的にみる目線が流行してしまうと、合理的議論を職業にしている人は内心非常に困惑しているに違いない。


古来、合理的議論を妨害する力には二種類ある。それは地上の権力と天上の権力である。つまり、独裁的権力者あるいは理屈を超えた宗教感情である、な。

独裁的権力者は具体的にある人物の形をとる必要はない。理に適った考え方を抑圧する力を行使しようと考える人物(あるいは人物集団)は全て独裁的である。また、宗教感情といっても必ずしも教会や寺院に出入りする気持ちを指すわけではない。無批判に「これは悪い」という抑えがたい正義の感情にかられて他者を攻撃する人は、それはもう自覚することなくして、聖戦(イスラム教徒がいうジハド)に赴く戦士そのものなのである。

なにしろ中世のヨーロッパ・キリスト教社会では『同胞から利子をとることは悪である』とされていたのだから大変だった。有利子の金銭貸借という合理的経済サービスは、だからユダヤ教徒たちが金融業に従事することで提供されていた。ヨーロッパの反ユダヤ感情を形成した要因の一つは愛を説くキリスト教の教えである。


ずいぶん以前、今は京都に帰って行った同僚がいた。I氏と呼んでおこう。I氏は経済学者というより歴史学者であると小生は思っていたが、そのI氏と二人である夜小料理屋で長い時間を過ごしたことがある。その時、『20世紀は戦争の世紀でしたが、21世紀は宗教がカギになる100年になると思いませんか?』と聞いたことがある。そのとき、I氏は「そうかもしれんね」と応える程度であったが、独裁者と宗教感情と、21世紀を闇の世紀にするかもしれない要素は既に姿を現し始めている。そんな気配も感じるのだ、な。


人類の敵はすべて最初は自らを味方のような姿にかえて現れるものだ、という名句をどこかでみたことがある。剣呑、剣呑。

愛や正義感が最初の優しい姿をかなぐりすて、醜悪なる「反・合理主義」に化して、人類に多大の害悪を与えることがないことを祈る。

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