2020年10月1日木曜日

断想: 思想の自由と表現の自由は全くの別物だ

こんなことを考えた。


キリスト教では「口から出るものが人を汚す」とされている。

7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、

8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

10 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。

11 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。

出所:『新約聖書、マタイによる福音書』第15章 


儒教では『巧言令色すくないかな仁』と教えられている。

孔子、巧言令色を仁に鮮しと為し、剛毅木訥を仁に近しと為し、克己復礼を仁と為す。

表面を飾るは敬ならず、故に礼ならず、己を忘れて外面に馳す者、いづくんぞ己に克つを得んや。

出所:『東洋・西洋の古典書籍』


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真実を語ることが現代ほど正当に評価されず、ウソを語る自由が現代ほど守られている時代は、歴史上ほとんどなかったのかもしれない。


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行動の完全な自由は認められていない。当たり前だ。一部の行動は犯罪となり刑罰の対象になる。他方、思想の自由は内心の自由である。思想の自由を冒すことは人格の尊厳を犯すことになる。従って、いかなる理由であれ内心の自由に立ち入ることは不可である。では表現の自由はどうか。表現とは内心の発露と社会関係との境界線上の行為である。小生は、表現とは外部に向けられた行動に該当すると考えているので、行動の自由が制限されるなら表現もまた制限されることがあってもよい。そう考える立場にいる。

現にメディア企業は100パーセントの表現の自由を主張せず、一部の表現を自粛している。表現の完全な自由は現実にはない。

ある自由を認めるかどうかは、それがもたらす結果に基づいて判断する。つまり功利主義の観点から是非が決められている。現にそうなっている。判断する主体が異なれば判断の内容も変わる。政治だと言えばその通りだ。結局、その社会で認められる自由の範囲は政治によって決まるという命題が出てくる。政治が多元的なら自由の範囲も多元的になる。であれば、その社会の外側にいる者が外側の判断によって内側の是非を論じても仕方がない。そこには「対称律」が当てはまる。お互い様である。そんな「系」も得られそうだ。

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