2020年10月11日日曜日

動学的不整合: ここにもいる「利口バカ」

 日本学術会議の会員を推薦制に変更する以前の状態、つまり各学会ごとの公選に基づいて学術会議会員を決定していた状態は、総理大臣が公務員を任命するという権限を冒していたが故に、違憲状態であったのか、と。こんな質問が出されたようだ。内閣法制局はそれに対してシドロモドロであったそうである。

う~ん、こんな質問が国会の委員会で出れば、やはりどう回答すればいいか分からんだろうネエ、と。担当者には同情したいところだ。

理屈で言えば《違憲状態》であったと言うしかないだろう。『ただ当時の人々はこの決め方は違憲であるとは考えなかった』というしか解釈のしようがないだろう。というか、問題の本質は『なぜ超憲法的な行政組織が日本政府の足元に設置されていたのか』という問いかけにある。

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それにしても、誰かは存ぜぬが、頭はイイがこんな思考回路でしか物事を考えないから肝心のアウトプットがさっぱり出てこないのだろうなあ(もし実績があるならば失礼の段をお詫びします)と、そう思ったりしている。

そもそも『動学的不整合』という状態はしばしば発生することである。

個人も政府も何年かにわたる見通しの下で『現時点ではこのように意思決定しておくのが最適である』と、そのような行動原理で一定の制約下でとるべき行動を決めるものである。いわゆる《動学的最適化》である。

そして、そのとおりに行動をして、事態が推移し、過去においては将来のある時点に到達するとする。その時点にたって、残りの期間にとるべき行動について意思決定を行うとする。当然、最初の計画どおりの行動を続けていけばよい、そう考えるのが筋であろう。しかし、その時点になってから残りの期間を対象に行動計画を決めるとすると、必ずしも当初の計画を続けるのがベストであるとは限らない。

こうなるのであったら、最初にあのような行動をとるのでなかった。ここに後悔が生じる。・・・誰にとっても人生とはそんなものであろう。まして多人数が暮らす社会なら一層そうであり、政治もまた同じである。だから歴史は面白くもあり難しいのだ。過去のことを問題にするなら、現在の視点と過去の視点を併せ持って複眼的に議論をしなければ、ロクな思考にならないのだ。

時間を通して、一貫したロジックが適用されるべきであると思い込むのは非常に危険である。エネルギー源として日本も原子力を選ぼうと意思決定をしたのはその時点においては合理的であり最適であった。過去において最適であったその原子力をいまは廃止しようと考えるとしても決して間違いではないのだ。たとえ福一原発事故がなかったとしても、だ。

意思決定は現在から将来にかけて行うものであって、『過去においてはこんな理屈であったのだから、同じ理屈でこれからも行くのが正しい』と、意地悪ではなく、本気でこんな議論をする御仁がいるとすれば、小生の田舎の方言でいうなら(文字通り)完全なる《利口バカ》である。

いや上の御仁の言っていることは逆であった。『これは違憲だからという理由でやり方を変えるなら、あの頃やっていたことも違憲だったということですよね』という論法だ。まったくネエ、ならば『いまの憲法は平和主義を是としている。軍事活動は違憲である。とすれば、戦前期は違憲であった。間違った政治をしていた。この認識は正しいですか?誤りですか?』というのはどうだろう。どう答えますか?答えにくいでしょう。困るでしょう。こんな阿保な発言をする人はまさかおるまいが、ヒトは誰でもどんな屁理屈であってもひねり出すものである。三流の法廷ミステリーのような話しは小説の中だけにとどめてほしいものだ。


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