2020年10月18日日曜日

断想: 「価値観多様化」の行く末は?

 「多様化」の時代である。

「価値観多様化」が正しいという価値観も語られるようになった。

であれば、価値観多様化は認めない価値観もあるという理屈になる。そもそも「多様化」は一定限度まで容認可能だが、限界を超えた多様化は否定したいという価値観もありうるだろう。

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現在の社会では、内心の自由は保障されており、故に思想の自由もある。

しかし、価値観を言葉で表現して社会に訴えるという表現の自由は、そうして訴えた結果として社会を変えたいという欲求を併せ持っていることが多い。そもそも価値観をもつということは社会に自分の価値観を広めていきたい、影響を与えていきたいという行動につながることが多い。

とすれば、思想の自由は表現の自由を経由して行動の自由へと拡大することになる。「自由」は欲張りなのだ。そして、行動の自由は言うまでもなく認められてはおらず、どこかで「社会の規範」と正面衝突する。これもまた「自由の主張」がもたらす結果の一例である。

・・・上で「自由は欲張り」と書いた。そう、「欲張り」は資本主義経済で成功するための最大のキーファクターである。18世紀の市民社会到来のあと、自由資本主義の繁栄、自由と民主主義、イヤイヤ、自由・平等・博愛がオリジナルであった、資本主義経済と価値の共有と、この二つの次元は「欲張り」という悪徳ともいえる資質を仲立ちにして表裏一体の関係にある。この点は、いま現代社会に暮らす人々は理解した方がよいのかもしれない。世の中、決して綺麗ごとではないのである。大体、人間社会の本質が綺麗であるはずがない。

話しを戻そう。

いずれにせよ、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフがはまった「全てが許された知性」という罠のような存在はどこにもない。ヒトは誰でもどこかで制限された自由しかもたないのだ。

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もし価値観多様化が正しいと言うなら、「多様化」は間違いだという価値観に基づいて行動し始める集団もやがて誕生してくるだろう。

「価値観多様化」という価値観は非常にヴァルネラブル(Vulnerable)なのである。

価値観多様化を本当に認める社会にしたいなら、「ある種類の価値観は否定する」という価値観に立たなければならない。

結局、どの価値観は正しく、どの価値観は誤りかという不毛の神学論争に引きずり込まれる結果になる。「価値観」について議論することの不毛はそこで明らかになる。

「科学」が定着した社会はより早く不毛の議論を止めることが出来るだろう。観念はそもそも人間が創った人工的な言葉で、言葉以前のありのままの自然だけが意味のある存在である。

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