2020年10月8日木曜日

一言メモ: 「官邸の人事介入」がなぜいかがわしく感じられるのか?

 「官邸の人事介入」という言葉がよく使われる。

小生が小役人をしていた頃は、こんな言葉はなかった。なぜなら、各省庁の事務次官以下の人事はその省庁の大臣に任命権があり、総理大臣であっても省庁内部の官僚人事について直接に人事権を行使することはできなかったからだ。

史上有名な「ロッキード裁判」において当時の総理大臣である田中角栄が運輸省の業務を指揮する「職務権限」があったかどうかが争われたが、人事権もまたほぼ同様の図式であった。総理大臣が、自ら評価する官僚を事務次官に登用したいと考えても、直接にその事務次官を任命する権限はなかった。権限はなかったのだが、閣僚に対する任免権を通して、間接的に官僚の人事に介入することは可能であった。実際、以前の体制においても例えば田中派に近い大蔵官僚と福田派に近い大蔵官僚が事務次官の座をめぐって熾烈な代理戦争をしたことがある。

これが「政治」というものであるが、この政治を「いかがわしい」と感じるなら、現時点の制度の下でも総理大臣なり、官房長官なりが、官僚人事を左右するという状態を「やっぱり、いかがわしい」と感じてしまう。そんな感情が今でも残っているかもしれない。

要するに、官僚人事に政治が介入することは、本当に「いかがわしい」かどうかなのだが、だとすると、この感情自体が時代遅れである。

やはり官僚は学力試験を通して採用された専門的職業人の集団である。職業利益を共有している人間集団が、国民の利益を最優先として行動できるかという点では一定の限界がある。「政治主導」は「政治家主導」にすぎないが、それでも日本の戦後政治を一段レベルアップした一里塚であったと小生も思う。

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ただ、内閣人事局が内閣官房に設置され、内閣官房長官の下で機能している今日、各省庁の長である大臣の人事権限と、内閣人事局が行使する人事権限と、どう関係しているのかがよく分からない。分かりやすく整理されていない。

たとえば、法務省の官僚である検察官の人事は、法務大臣が行使する人事権限に基づいて行われているのか、内閣人事局を差配する官房長官なり、その上司である総理大臣の意向によって決まっているのか、どうもそこが分からない。分からないから「いかがわしい」。不当な「介入」があったのではないか。法に違反する行為があったのではないか?権限には責任が伴うが、責任をを負うことなくコッソリと囁くことで影響力を行使する「偉い人」が奥にいるのではないか?エッ、ほんとに?そんなこと、許されるの?「許される!」、「エッ?」

とマア、こんな感覚が広く世間ににじみ出して来ている。汚れのような感覚を覚える。腐臭がする。そういうことなのか?

とすれば、やはりこれも政権トップについていた人達の文字通りの「不徳の致すところ」であったのだろう。日本人が潔癖であることは歴史を通して多くの文献に記されているくらいだ。

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もう「もたない」状態に追い込まれているのが内閣人事局の現在の位置づけであろうと思われる。

修正しなければ、高級官僚の人事の季節がやって来るたびに「官邸の介入」が取りざたされるだろう。その度に、マスメディアがワイドショーのネタにする。だから内閣支持率が気になる。こんな状態では日本の政治には最初からペナルティを課されるようなものであり機能不全になる確率が上がるだけだ。とはいえ、「娯楽性の追求を目的として政治的テーマで番組編成をすることを禁ずる」などと主張するのは論外だ。結局、損をするのは日本人全体である。

どんな風に治していくのだろうか?

そもそも「内閣人事局」という行政組織が総理大臣の足元である内閣官房に配置されている事実自体が、中選挙区から小選挙区への選挙制度改革と表裏一体の関係にあると小生は思っている。中選挙区制度では自民党内で有力な派閥が複数割拠するのが自然な状態であった。時には「党高政低」と揶揄される状態で、時の総裁、総理大臣が内閣人事局を通して高級官僚を一元管理するなど、できる理屈があったはずがない。それが小選挙区になって一変した。設置された内閣人事局が骨抜きにされることも、廃止されることもなく、ずっと機能してきたのは、「総理一強」と言われる状況が到来したからであって、それ以外に理由はない。逆に言えば、「総理一強」の状態が消失すれば、内閣人事局が機能する基盤は失われる。小泉政権時に強力に機能した「経済財政諮問会議」のポジションとどこか似ているように感じるのは小生だけだろうか。

日本の政治は — 会社でも役所でも学校でも全ての業務運営について言えるような気もするが ―「属人的」に決まっていることが多く、人が変わればやり方も変わる。システムも変わる。こういうことかもしれんネエと思って興味津々でいるところだ。

ほとんどの問題はヒトの問題か、モノの問題か、設備の問題か、でなければ方法の問題である。ヒトを変えても同じ問題が続くなら、それはヒト以外に原因がある。人事はモノや設備の問題ではない。とすれば、方法の問題だ。つまり組織の問題、手続きの問題である。品質管理(QC)で「四つのM」として知られているフレームワークはもはや常識の範囲だろう。

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