2020年10月31日土曜日

一言メモ: 「表現の自由」、「言論の自由」が隠すパラドックス

イスラム・テロには屈しないと決意しているフランスに対して、イスラム諸国はフランス商品不買運動で応じているようである。

「表現の自由」を断固として守ると力説するマクロン大統領の強気の姿勢に対して、カナダのトルドー首相は『表現の自由には一定の制限がかかる』と発言した。アングロサクソン文化圏はやはり経験主義的であり、フランス的思考は大陸合理主義の系譜だからかどことなく観念論的である。フランスが日和見的に妥協することはどうもなさそうだ。

以前の投稿でこんな事を書いている:

言葉をビジネスツールにしている業界は「表現の自由」を連呼しているが、それは一般ビジネス界が「営業の自由」を主張するのと同じである。井戸端会議に精をだす奥さん達にすら100パーセントの「表現の自由」はないのが現実だ。どれほど営業の自由を主張しても、例えば金融業や学校経営、病院経営等々に営業の自由はない。すべて「自由」はそれ自体としてではなく、もたらす結果によって正当化されている。功利主義から判断されている。

その意味では「表現の自由」はより高い目的を達成するための方法である。有効だと信じてきた方法であっても、拙い使われ方が目立ち、望ましい結果とは遠ざかっているという判断がなされれば、方法の有効性そのものを再評価するのは当然の成り行きだろう。

これは明らかにカナダ首相の立場に近い。小生はかなりエクストリームで偏屈であることを自覚しているが、こればかりは平均的日本人も同じ見方ではないかと思っている。

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好きな作家を全集で買うと各巻に「月報」などという名前の別冊が付いてくる。古本で購入してもこの月報がついている全巻セットはそれなりの価格がする。

昭和39年刊行の永井荷風全集第10巻の月報には寺田透が寄稿していて、中にこんな1節がある:

言葉は真実をかくすためにあるのだと言ったといふタレイランのことは今考慮の外におくにしても、人は書き語りはじめるや否や現実そのものではない一つの別の、フィクショナルな世界の造り手となる。あくまでそれは造り手となるのであって、その住人とか生活者になるのではなく、言語表現の場で、「私」、「非私」を問ふのがそもそも無駄なことなのだ。

「淡々と客観的に事実を叙述する」などという活動は仮面であって常に欺瞞になるということになるが、マア、この位の理解が一番賢明であるのだろう。現状をみても。 

報道や言論も同じ対象に入る。背後には必ず具体的な人間がいる。そしてジャーナリストが書く文章はジャーナリストが生きているリアリティとは独立した、ジャーナリスト自身が造った世界を表現している。上の下りはそんなことを言おうとしている。

「報道」に従事している人は語りたいことを語れる「自由」を欲している。しかし、その願望は、決して理念とか価値観のような高度なものではなく、むしろ「言論ビジネス」を思い通りに展開したいという営利動機を隠しているのではないかと、そう勘繰られるところが、いかにもウィークポイントになっているわけだ。だとすれば、所詮はマネーであるという「表現の自由」の楽屋裏を見せるような、ありのままの素な意見はむしろ言いだしにくい。同業者に迷惑をかけるので憚られる。これではかえって「表現の不自由」というものだ。

表現の自由を公共の場で力説することが、実は「表現の不自由」を目的とする行動になっている。意図的、戦略的にそうしているわけではないにしても。

これまた普遍的価値の共有が内に隠しているパラドックスの一例だろう。

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