2020年10月9日金曜日

ホンノ一言: 順法闘争と日本学術会議のデジャブ感

 政府vs日本学術会議の紛争も収束までにはまだ暫くかかりそうである。

たかが200名少々の会員のそのまた半数を交替する人事に過ぎないが、背後には国内のリベラル派・社会主義者・共産主義者が反権力集団のマスとして存在しているのが大学界、言論界である。

あたかも織田軍団vs石山本願寺の戦闘を観るようでもある ― 任命拒否された6名の方々、関係者として解決に努力している方々はまるで修羅場をくぐっているようであろうし、実にお気の毒だと思うのであるが。

例えは悪いのだが、小生が中学か高校に在学している時だと記憶しているのだが、当時の国鉄の《順法闘争》で《スト権スト》が呼号され、交通ゼネストが計画されたことがある。その頃は、余りにも度々「順法闘争」が行われ、前後関係を忘れたところもあるが、首都圏の交通が麻痺状態に陥る中で埼玉県上尾駅では怒った利用客が集団で打ち壊しをするなど暴動事件が発生したこともある。「スト権スト」による混乱は1週間程度続いただろうか。労働組合トップと運輸大臣(海部俊樹氏だったと記憶しているが)とがTV討論したこともあったかと思う。社会は騒然となった。公共の社会インフラを私物化して、首都圏住民の不便を人質にとるという戦術に政府は激怒した。おそらく政府内で国労・動労が支配する国鉄という組織を解体しようという方針が現実的なものとして意識されたのはこの時ではなかったかと、今にして思うのだ、な。そして、中曽根政権になってから周到な準備を経て、国鉄、電電公社、専売公社の3公社は民営化された。特に国鉄は地域別JRに分割されバラバラになった。単体では採算性が不安視された北海道も「JR北海道」として独立した。民営化後に採用された組合員は北海道では半数もいなかった。日本学術会議会員が各学会による公選制から政府による任命制に移行したのも中曽根政権の時であったはずだ。任命制への移行に関する当時の中曽根首相の答弁がいま法解釈の根拠として注目されているのは皮肉なことである。

が、それも巨視的に達観すれば、仕方がないことなのかもしれない。一連の行為は一連の結果として結局は収束するものである。『誰が何を意図して…』という問いかけは歴史全体の中ではノイズのようなものだ。たとえナポレオンであっても、レーニンであっても、意図のとおりに物事が進行したことなどないだろう。それが正に歴史ではないだろうか。

学説は内心の自由であり、それは保証されているが、それを発言、行動として社会関係の下で主張すれば、必然的に何かの社会的力が反作用として生まれてくる。それも予想の範囲に含めて、行動計画を練り上げる姿勢が道を啓く人には不可欠ということだ。

確かに政府の「やり口」には「情け無用」という側面があるのは小生も同感だが、日本学術会議の将来は決して明るいものではないと予想する。何と言っても、同会議は政府機関であって、独立した民間の団体ではないからだ。子会社が親会社と正面から対立衝突して子会社の言い分がとおり、親会社の体制が覆るとすれば、それは「正しい者が勝つ」という状態ではなく、「ガバナンスが出来ていない」という状態である。21世紀の今日、「革命史観」に現実妥当性はない。

0 件のコメント: