2020年12月17日木曜日

一言メモ: 何かといえば「首相のメッセージ」を求める世相には幼稚さを感じる

 政府が展開する政策には「メッセージ」が込められなければならない、と。そのメッセージを正しく、強く伝えるのが政治家の重要な役割だと・・・。

いつの間にか、日本の政治家は政府から国民へのメッセージ係、つまり《メッセンジャー》であると。そんな風に理解されるようになったようで、こんな世相には小生、正直驚いている。

『トップである菅首相から強いメッセージを発するべきだと思います』などと、TVのコメンテーターが画面の向こうから発言している。何だか『お父さんからもチャンと言ってもらう方がいいわね』と子供の悪戯に手を焼いていた昭和の奥さんたちの話しっぷりを連想してしまう。お父さんが帰宅するなり「お前たちはそこに立っとれ!」などという昭和の家庭の典型的風景などはもう絶対にないと信じ切っている平和がそこにはあるのだが、小生は、ひとつ前の世代であるせいか、『政府というのは権力、だから怖い』という感覚が染みついている。それがいまは「首相からきちんとメッセージを出すべきです」か・・・。一国の総理大臣もまた、この何十年かで「怖い存在」から、厳罰など決して加えたりしない「優しいお父さん」になったということだ。

それにしては日本はまだ死刑制度にこだわって続けているんだけどネエ・・・ま、これも世相である。こんな感想が一つ。

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ずっと昔、ある経済官庁で仕事をしていた時分、その頃に盛んだったマクロ計量モデルは、金利の上げ下げ、財政支出の増減、税率等々の政策変数を通じて、GDP成長率、インフレ率、国際収支など主要なマクロ経済変数にどのような効果を及ぼしうるかについて、色々なシミュレーションを行うのに不可欠なツールであった。複数のケースに分けて計算された将来予測の経路は政策判断においても重要な参考資料であった(と敢えて言っておこう)。

そのマクロ計量経済モデルだが、基本にあるのはいわば社会経済の「力学観」とでもいうか、一定のメカニズムで動いているシステムとして社会をイメージする。そんな「哲学」(というほどでもないが)に基づいていた。ま、経済学は物理学を連想しながら発展してきた社会科学でもあるので、多数の変量を色々な方程式で関係づけるわけである。例えば「消費関数」や「投資関数」など需要サイドの行動方程式があるし、「生産関数」や「労働供給関数」といった供給側の関数が入ることもある。

なので、「政治家の発信するメッセージが大事ですよね」と言われると、それはもう「はあ~っ?」という反応になるのは当たり前であって

メッセージ? そんな政策変数はねえなあ。それ、どうやって数値化するんだよ! バカバカしい。

などと、一蹴されるわけである。

これまさに「官僚主導」の典型である。改めるべし。いまは「政治主導」なのであると言われると、ただただ「そうでありました、まことに申し訳ござらぬ」と反省するしかない。

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反省はするのだが、ただ現場の官僚のホンネは、今でもあまり変わっていないかもしれんなあと、そう憶測することもある。とにかく、今ほどホンネと建て前とが大きく乖離した時代はないと感じているのだ、な。だから気を使うことばかり増えている。

『大体、役者や芸人じゃああるまいし、TV映りがいいとか悪いとか、口先上手であるかどうかなど、政治家の言葉がそんなに大事かネエ・・・そんな枝葉末節のことで政策の効果が大きく変わるはずないだろ!』という思いは確かに今の小生の胸の内にもある。いわゆるヒューマン・ファクターは重要ではない。プロ・スポーツ試合の勝敗にしろ、コンサートの出来不出来にしろ、確かに選手同士の不和とか、相性とか、不機嫌とか、その日の言葉使いとか、監督がミーティングで何を言ったかとか、いろいろあるかもしれないけれど、決定的なのは練習と技量でしょ。要するに、口先で何を言うかより、黙々と練習をして、諦めずに挑むという行動が大切なのだ。そう考えてきたわけだ。

それを「首相のメッセージを」とはネエ・・・それこそオルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』で批判した「行き過ぎた民主主義」というものだろう。こんな風にも考えたりするわけだ。

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しかし、1980年から88年まで米・大統領をつとめたレーガンは「役者に大統領はつとまらないと言われたが、むしろ大統領がつとまるのは役者である」と語ったそうだ ― オリジナルの発言が見つからないのだが。

政治家でなくとも、アメリカのFRB議長を永年勤めたグリーンスパン氏。グ氏の真骨頂は「市場との対話」であった。何をどう説明するか、グ議長が何を言うか。金融市場関係者はグ氏の片言隻句に注意をしていたものだ。

なぜトップの発言が注目されるようになったかと言えば、政策は単に政策変数を物理的に調整するだけで終わるのではなく、国民の《予想》や《期待》に影響を与えることによって、結果に結びつくものである。こんな《予想・期待形成》の役割が政策実行の現場で非常に重要視されてきたことが背景にある。

確かに総司令官が最前線でビビってばかりいれば、戦う前に未来に希望をなくしてしまう兵が続出するだろう。トップは明るい、ポジティブな人物でなければ務まらないという常識には、《予想・期待》が人間集団の行動に大きな影響を与えるのだという科学的知見の裏付けがある。そう考えると、「トップである首相から強いメッセージを」というのは分からないわけでもない。

とはいえ、日本人は何も総理大臣の発言ばかりをきいて行動を決めているわけではない。首相の発言は多数の情報の中の一つ、それも相当距離のある、遠い人の言葉に過ぎない。そもそも首相のメッセージと言っても、大多数の日本人はTV局が作っている番組の中で切り取られた形で知るわけである。首相の声をその場で聴くわけではない。それに、いくら総理大臣が「会食は避けて」と言っても、諸般の事情、周囲の状況から「ま、大丈夫か、やらないわけにはいかんもんね」と思う人が日本で多ければ、結果として首相のメッセージは空振りに終わるのだ。

そもそも法律の運用なら仕方がないが、首相の言葉一つで日本人の行動が大きく変わるなど、考えただけでも恐ろしい。

デマゴーグを最も嫌う小生の希望的観測かもしれないが、現代社会において、首相の発言やましてワイドショーのコメンテーターの話しっぷりがそれ自体として社会的効果を有するのかという点については、小生、かなり疑問だ。やはり、例えば「GOTOを止める」とか、「営業時間短縮を要請する」とか、具体的な行政行動によって効果が出る。弱い行動では弱い効果しか出ず、強い行動をすれば強い効果が出る。であるから、メッセージだけを強く言っても、行動が弱ければ、口先だけで国民の行動を変えられるはずはない。小生はこんなロジックを信じる立場にいる。

口先の言葉は、やはり口先であって、それ自体としては大して重要なことではない。古い世代としてはどうしてもそう思われるのだ、な。TV業界や新聞業界は、首相のメッセージがあったほうが商売ネタになるので、そりゃあ求めるはずだが、それはGOTOを求める観光業の都合とまったく同じロジックの話しで、メディア産業の経営上の都合である。

消費者である私たちは、人様に知られたくない観光業の楽屋裏、人様に知られたくないメディア産業の楽屋裏、人様に知られたくない医療業界の楽屋裏などなど、口先の言葉の裏側をよく読みぬいて、自分の行動を決めることが大事だ。どの産業も自分のことが第一である。どの産業も、誰もが《ミー・ファースト(Me First)》の時代であることを忘れてはならない。

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