2020年12月25日金曜日

一言メモ: 民主主義社会の政治家にはどんな責任があるのだろうか?

 民主主義社会における政治家はどのような結果責任を負うものなのだろうか?


小泉政権に対しては『新自由主義的な政策を盲目的に進めたことが今日の格差拡大をもたらした』という批判がいまもなお根強く見られるし、安倍政権の概ね8年間に対しても「現在の政治不信」をもたらした責任があると非難する向きが多い。

問題の内容と現状に対する批判は分かるのだが、ただどうなのだろうなあ、とは思う。


例えば、君主制の下で国王から任命された宰相が失政をおかして社会が混乱したとする。そうした場合、確かに失政を繰り返した宰相に混乱の原因があるのだが、それは宰相の行政能力が不十分であったということである。能力の不足はその人の責任ではないであろう。その宰相を選んだ国王にこそ主たる責任があるだろうと誰もが考えるのではないか。もちろん能力が足りなかった宰相が法を犯していればその罪を免れ得ないのは言うまでもない。が、誠実と有能とは別物である。国王は能力を求めるなら有能な人物を、安心を求めるなら誠実な人物を宰相に任命しなければならない。その責任は君主制の下では主権者たる君主が負う。

第一次世界大戦にドイツ帝国は敗北したが、東部戦線の総司令官であったヒンデンブルグはワイマール体制下で大統領に就任した。ヒンデンブルグの下で参謀長を勤め、その後参謀本部次長に異動し「ルーデンドルフ独裁」を築き、1918年にはドイツ軍最後の「春季攻勢」を仕掛けたエーリッヒ・ルーデンドルフはドイツ敗戦後に一時スウェーデンに亡命はしたが、すぐにドイツに帰国し、盛んな政治活動を展開した。責任を負ったのは皇帝であったカイザー・ヴィルヘルム2世であって、プロシア以来のホーエンツォレルン王朝は消滅したのである。

現場で指揮をし戦った軍人が敗戦後も政治活動を続けることが国民に受け入れられ、他方皇帝は亡命し、王朝は崩壊したというこの歴史的な展開は、戦争開始時の主権がどこにあったかという点を考えれば、実に理屈が通っている結末だと思う。

では、民主主義社会においては、政治的変動の結果に誰が責任をもっているのか?それは主権をもつ「国民」自身であるという理屈になる。政治家による「失政」も、その社会がそもそも民主主義で国民が政治家を選んでいるのなら、失政による混乱もまた「身から出たさび」であるわけで、発展するにせよ、停滞するにせよ、いずれも国民が引き受けるべき結果である、というのが当たり前のロジックだと思われる。「君主制であれば……」と、問いかけを一般化すれば思考実験が出来る。

「民主主義」とはそういうことではないだろうか。

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小泉政権に格差拡大社会の政治責任があるとは、小生は考えていない。おそらく将来の経済史の教科書においては「2000年代以降の日本の経済格差拡大」の色々な背景や原因がグローバルな観点から説明されるものと予想しているが、その原因として「当時の内閣の経済政策」が挙げられるとは想像できない。政治家が政治の場で解決するべき問題に向き合うとき、そもそも政策の選択肢は限られ、その中で選ぶべき最善の政策は人的能力、社会制度等を与件とすれば、自由度などはなく、特定の一つに決まることが常態だろうと思われるからだ。同じような視点で、菅直人内閣に福一原発事故の責任があるとも考えない。更に言うと、この8年間で新たな経済成長分野が育たず、規制緩和も進まず、全世代型社会保障システムは不完全なままであり、公衆衛生体制も実は脆弱で感染急拡大という緊急時に対応できなかった等々というような問題であるが、これらが安倍内閣の責任であるとは考えていない。まして菅現内閣の責任であるという見方には反対だ。どの内閣もある問題は(その時点に良しと思われる方法で)処理し、他の問題は(解決が困難と思われたが故に)未解決のままに残し、一定の期間、日本社会のマネジメントを担当したという事実が歴史に記録されるだけである。ま、歴史観と言えるほどではないが、そう考えているのだ、な。


民主主義社会であれば、良い意味であれ、悪い意味であれ、《結果として》結局は国民の多数派のホンネが政治となって現れるものである。

具体的に言えば、財界、業界、支持基盤、さらにマスコミと世論の圧力 — これ自体、社会が民主主義的である証拠だが―に影響されながら、内閣や首相、閣僚がいかに《自分の思うとおりに法律を制定し、権力を行使して、政策を実行することができないか》。この点はもうビフォー・コロナでもない、アフター・コロナでもない、まさにイン・コロナの現状をみれば、100パーセント完全に明らかになっている。

「責任」とは「自由」と裏腹の概念である。他に主権があり、それに制約され、思う通りの政治ができない以上、政治家には政治現象の結果責任はない。

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もし民主主義社会の政治家に何らかの結果責任があるとすれば、君主制の下で任命された政治家であれば可能であるが、民主制の下で選ばれた政治家には不可能な行為を意図的にしたことが立証された時であろう。

とすれば、「桜の花見」の金銭的補填に関して、国会に虚偽の陳述を続けたことが証拠づけられたいまは、安倍前首相は政治家として結果責任を負わなければならない。

国家予算に比べれば金額として実に些末で、枝葉末節と言える範囲のことではあるが、金額は少額であっても意図的な粉飾決算や脱税が発覚し、証拠づけられたなら、その時点で経営トップが結果責任をとるのと同じである。

法治国家であればそんな理屈になる。

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